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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第五章
52/67

1-3

 梨香が押し花をしてから数日後、書庫で意外な人物と行きあった。鄭啓である。

 彼は皇帝の右腕として尚書省を預かる立場にある宰相であり、こんな人気のない書庫にいるような人物ではなかった。

 梨香が入室したことに気付いた鄭啓は礼をとった。完璧な所作でお辞儀をした彼は、顔を上げて欲しいと言う梨香の言葉に素直に従った。


「このようなところでお会いするのは珍しいですね」


 梨香が声をかけると、鄭啓は苦笑しながら頷いた。


「はい、宮中行事などの公式の場でお会いするばかりでしたから」

「そう言えば、鄭啓様とこのようにお話しするのも初めてですね」

「ええ。ですが、どうか貴妃様、私のことは鄭啓と呼び捨てにしてください。貴妃様、私は一度は貴妃様とこのようにお話ししたいと思っていたのですよ。私の師が、ああ、欧陽俊は私の師匠なのです。彼が、貴女のことを大層褒めているのです。貴妃にしておくには勿体ない、是非とも皇后に立っていただきたいと」


 鄭啓の言葉に梨香は微かに息を飲んだ。だが、すぐに笑顔で取り繕った。


「勿体ないお言葉です。ですが、私には貴妃の位でさえも余りあるものです。ましてや皇后など。他にもっと相応しい方がおいでのはずです」


 梨香の言葉をじっと聞いていた鄭啓は、フッと笑みを零した。その辺の娘なら一瞬で心を奪われてしまいそうな甘い笑みだ。けれど梨香は心の内を見透かされたような、そわそわとした気持ちになった。


「貴妃様、そんなことはございませんよ。それとも、もしかして貴妃様は青蓮宮に住まうことになる女性を気にしていらっしゃるのですか?」


 悪戯っぽくきらりと光る鄭啓の目を見て、梨香は力なく頷いた。鄭啓は梨香の言葉を、その裏に秘めた感情まで正確に読み取ったのだ。


「貴方は、なんでもお見通しなのですね」


 梨香がため息交じりに苦笑すると、鄭啓は首を横に振った。


「まさか。けれど、これでも人を束ねる立場にありますから、それなりに人を見る目はあると思っています。そして、その人が何を考えているのかを推測するのも仕事の内ですからね。大体は見当が付きます。ですが、貴妃様が青蓮宮にいらっしゃる方を気にしておられるのは何故か、お聞きしてもよろしいですか?」

「……はい。その方が後宮にいらっしゃったとき、私がいては目障りだと思ったのです。私は貴妃の位を頂いているものの、陛下の寵を頂いているわけでもないのです。陛下に望まれてここへいらっしゃる方にしてみれば、私のような者がいることは快く思われないはずです」


 さみしそうに微笑む梨香に、鄭啓は思わずといった感じで何か言いたげに口を開いた。だが、すぐには言葉が出てこず、やがて梨香を慰めるように「そのようなことはございません」と当たり障りのない言葉を述べたのだった。

 会話はそこで一旦途切れた。鄭啓はなおも何か言いたそうな表情をしていたが、やはり何も言わなかった。

 気まずくなった梨香は、話題を変えるように鄭啓に声をかけた。


「ところで、鄭啓様はどうしてこちらへ?」


無意識のうちに様を付けてしまう梨香に、鄭啓はまるで妹を見守る兄のような優しい目を向けた。


「ああ、探し物をしていたのです」


 鄭啓はそう言って部屋の中をきょろきょろと見回した。


「何をお探しなのですか?よろしければ、お探しするのをお手伝いいたしますが」

「いえ、貴妃様のお手を煩わせるわけにはまいりません。……ですがもしよろしければ、どこかでお見かけしなかったか、お聞きしてもよろしいですか?私は欧陽俊の『杏林本草』という本を探しているのですが」


 そう言って再び書棚を眺め始めた鄭啓に、梨香は驚きながら答えていた。


「『杏林本草』でしたら、私が借り出しています。ご入用でしたらすぐにお持ちします」


 梨香の言葉に、鄭啓は驚いたようだったが、すぐさま頷いた。


「そうでしたか。実はあの本は私の――知り合いの武官の本でして。彼が片づけ忘れていたものを、てっきりこちらからの借り物だと勘違いして、私が片づけさせてしまったのです。ところが、あとから彼の本だったとわかり、すぐに戻すように言われまして」

「まあ、そうだったのですか。私もてっきりこの書庫の本かと思って借り出してしまったのです。お知り合いの方もきっと困っておいででしょう。とても大切にされてきた本のようでしたから、手元から無くなるのは不安でしょう。少しお待ちください。今侍女に取りに行かせますので」


 梨香が慌ててそう言うと、鄭啓は恐縮ですと頭を下げた。梨香は早速煌娟に本を取ってきてもらうように頼んだ。

 そうしてしばらく待つと、煌娟が本を手に戻ってきた。梨香はそれを鄭啓に渡し、鄭啓はほっとした様子で本を持ち帰ったのだった。

 その姿を見送った梨香は、また別の本を片手に白遥宮へと戻った。しかし、すぐにあの本に挟んだ押し花のことを思い出した。

 押し花は他の本でもまたできるからいいが、鄭啓の知人と言う人物は自分の本に勝手に花を挟まれたことを怒りはしないだろうかと不安になった。怒らなかったとしても、驚くか、或いは気を悪くするかもしれない。

 思えば、借り物の本に押し花をしてしまった自分が軽率だったのだ。梨香は項垂れて反省した。そして筆をとると、鄭啓宛てに、知人に詫びをいれてほしい旨を記した手紙を書き、煌娟に託したのだった。

 



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