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小燕が西国の姫君の話を持って来た日から、後宮内はその話題でもちきりになっていた。
姫君はどんな容姿をしているのか、どんな性格なのか、嘘か真かわからない噂話がそこここで囁かれている。特に多かったのは、皇帝自らが姫君を望み、皇后として立てようとしているというものだった。その噂によれば、なんでも、皇帝は西国から朝貢に訪れた使者が持っていた姫君の肖像画に一目ぼれし、どうしても彼女に会いたいと望んだという。
その噂に拍車をかけたのは、後宮の主要な宮殿の内の一つである青蓮宮の方が慌ただしくなったことだった。今まで誰も使っていなかったその宮殿に、急に女官が出入りするようになったのだ。
どこかの嬪の侍女が女官をつかまえて訊ねたところ、女官長から青蓮宮に新たに住まう方がいるため、準備を整えるようにと言われたと答えたそうだ。
これまで、一つの宮殿を丸々与えられていたのは貴妃である梨香だけであったため、青蓮宮に入る人物も、梨香と同じか、それ以上の身分を与えられることは間違いなさそうだった。
後宮に住まう女たちは、まだ見ぬ姫君に嫉妬し、ピリピリと不穏な空気を感じさせていた。李昭媛などは、嫌味のように梨香にこういうのだ。貴妃として招いた娘があまりにも期待はずれだったために、皇帝は今度こそ皇后に相応しい姫君を選んできたのだと。
煌娟や小燕は言い返したくて仕方がないと言った様子だったが、梨香は静かに微笑んだだけだった。だがその内心は、李昭媛の言葉に一理あるために、胸が痛み、それを隠すのに必死だった。
皇帝がその姫君を皇后に望むのならば、自分はただ身を引くのみだ。彼が梨香に望む貴妃は、彼の邪魔をしたりはしないだろうから。
後宮の女たちは、それでもどうにかして訪れることのない皇帝の気を引こうと、茶会を開いて皇帝を招いてみたり、文を書いたりしていたが、どれも効果は無く、また、自分を磨くことにも力を入れ、服や宝飾品を新たに取りそろえて身を飾ることもしていたが、それを披露する機会も無かった。
梨香はといえば、これまでのように欧陽先生の授業を受け、琴や詩歌の練習に励み、それ以外の時間も本を読むなど勉強を続けていた。
その日、梨香はいつものように欧陽先生の授業を受けた後、書庫に残って本を探していた。以前借りた本を、昨日ついに読み終わったため、新しい本を借りようと思ったのだ。
書庫はすっかり御馴染の場所になっていた。一年も通い続けているのだから当然だろう。書庫に置かれていた本もほとんど読みつくしてしまったが、そこは皇帝の計らいで、定期的に新しい本が増やされていた。
だから梨香が何気なく手に取った、今まで見かけなかったその本も、そうして新しく増やされたものだと思ったのだ。
その本は『新修杏林本草』と言う名前だった。少し古びているが、大切に扱われてきたのか、それほど傷みはなかった。
梨香はちょうど本草学に興味を持ち始めていたために、その本を借りることにした。
春になり、梨香の住まう白遥宮の庭に、何か花を植えたいと思うようになっていたのだ。だが、せっかく植えるのならば、眼にも楽しく、かつ、何か人の役に立ちそうな効能を持っている植物を植えてみるのが良いのではないか。そう考え、そのような植物には何があるのかを知るには、本草学の知識はとても有効だと思ったのだ。
梨香は手にした本を早速自室へと持ち帰った。そして、煌娟にお茶を容れるように頼むと、すぐさま本を開いた。
驚いたことに、本の著者は梨香の良く知る欧陽先生だった。では、この本は先生が書庫に寄贈したのだろうかと考えながら、ぺらぺらと頁を捲る。
そうして良さそうな花を物色しながら頁を繰っていくと、不意に開いた頁に押し花が挟まれていた。
白い花弁の小ぶりの花だ。それが幾房か丁寧に押し花にされていた。
その押し花が挟まっていたのは、雪梨の頁だった。では、これは雪梨の花だろうか。
梨香はその花のあまりの愛らしさに、思わずふわりと笑っていた。
「貴妃様、どうかされましたか?とても嬉しそうなお顔をしておいでですが」
「ああ、煌娟。これを見て」
梨香は微笑んだまま、煌娟に押し花を見せた。
「綺麗な花でしょう?丁寧に押し花にされたみたいなの」
「まあ、本当に可愛らしいお花ですね」
煌娟も梨香につられるように微笑んでいた。
その笑みを見た途端、梨香はある良い考えを思いついた。
「ねえ煌娟、私も押し花をしてみようかしら」
梨香の言葉に、それは良い考えですね、と煌娟は頷いてくれた。
梨香は早速慎重に『新修杏林本草』を眺めた。そこには白遥宮の庭に植えられている草花も多く載せられており、今庭で花をつけているものも載っていた。
梨香は、まずは手始めに本に載っているそれらの花を押し花にしようと思った。そこで煌娟に花鋏を用意してもらうと、庭に降り、手ずから花を切り取った。
そうして部屋に戻ると、『新修杏林本草』の頁を捲り、その花が載っている部分に、本を傷めないよう別の紙を緩衝材にして花を挟んだ。
花を集めて押し花にするというのは、まるでこの白遥宮での思い出を集めているかのような気分だった。




