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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第四章
39/67

1-6

 闇雲に走った雪華は、どこかの宮殿の院落(なかにわ)に出た。四方を囲われているはずなのに、かなりの広さがある庭のようだ。

 涙をこらえるようにふと顔を上げれば、月が夜空に浮かんでいた。その冴え冴えとした美しさに、堪えていた涙がスッと一筋頬を伝った。

 ――失恋、してしまった。

 栢影と結婚すると決めてから、捨てよう捨てようと思っていた恋心は、けれどどうしても捨てることができないものだった。

 それなのに、あんな柊影の姿を眼にしただけで、こんなにも簡単に失ってしまった。


「ううっ」


 雪華は手で口を押さえると、溢れてしまう声を必死で抑えた。そうして一人、悲しみの波が去るまでどうにか堪えると、雪華はその月明かりの中、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 人工的に作られた小川を渡り、奇岩の配された迷路のような竹林を抜けると、その先には大きな池が広がっていた。

 池の中心には、(ちん)と呼ばれる休憩所代わりの四阿(あずまや)が立っていた。

 浮橋を渡り、その亭に近づくと、中に人がいるのがわかった。差し込む月明かりに照らされたその人物は、栢影だった。


「……栢影?」


 思わず声を漏らすと、栢影がハッとしたように立ち上がった。


「――雪華か?」


 彼の声音は、心なしか沈んでいた。そして、それを誤魔化すように、栢影はわざと明るく微笑んだ。


「どうした?眠れないのか?」


 栢影の言葉に頷いた雪華は、そっと亭に足を踏み入れた。


「栢影こそどうしたの?てっきり太師様やお父様とお話を続けていると思っていたのに」


 雪華が問えば、栢影は観念するように弱々しく言った。


「久しぶりに酒を飲んだら、自分の感情がうまく制御できなくなって。だから一人になりたかったんだ」


 彼がこんなことを言うのは珍しい。何かあったのだろうかと訝しく思ったが、誰にでも一人になりたい時があると知っている雪華は、敢えて聞くのをやめた。


「そっか。じゃあ、わたしも外した方がいいわね」


 雪華が重苦しくならないように、そっと声をかけて去ろうとすると、それを栢影が呼び止めた。


「雪華なら、大丈夫だよ。君さえ良ければ、少しそばにいてくれないか?」

 

 栢影は長椅子に腰かけ、雪華に隣に座るように勧めた。こんなにも不安そうに言われては断るわけにはいかなかった。雪華は一つ頷くと、栢影の隣に腰かけた。


「綺麗なお庭ね」


 雪華が敢えてどうでもいいことを言えば、栢影は雪華の言葉に頷いた。


「そうだね」


 それから二人は暫く無言で、月を映す池を見ていた。宮城の内にあっても、夜は静寂に満ちていた。

 

「雪華は……」


 栢影は、言葉を選ぶように、慎重に声を発した。


「兄上が皇帝だと知っても、それでもまだ彼が好き?」


 その言葉は決して責めるような言い方では無かった。

 雪華はゆるゆると首を振って、栢影の方に向き直った。栢影は、辛そうな表情で雪華を見ていた。


「柊影の身分なんて、関係ないと思っていたの。……でも、ダメだった。彼がこの国を統べる唯一無二の存在だと思ったら、怖くなってしまったの。わたしのような身分も何もない娘が、あの人の隣に立てるはずも無いのに、何も知らずに追いかけていたの。彼が皇帝だと知ってしまったら、自分がいかに身の程知らずかを知ってしまった。それに……」


 雪華は言葉を詰まらせた。栢影はじっと、雪華が続きを口にするのを待ってくれていた。


「……さっきね、見てしまったの。柊影が、とても綺麗な女の人と一緒にいるところ。……柊影はとても辛そうに彼女のことを見てた。本当はね、柊影が皇帝だと知っても、それでも消えない小さな気持ちがあったの。けれど、あんな柊影の姿を見てしまったら、もう、わたしは――」


 雪華が全てを口にするより先に、栢影が雪華を抱きしめていた。


「いいよ、もう、それ以上言わなくて」


 雪華は嗚咽を零して崩れ落ちた。それをしっかりと支えながら、栢影が雪華に呟いた。


「雪華、俺は兄上にはなれないけど、でも、兄上よりも君を幸せにするよ。だから――」


 雪華は不意に、栢影が震えていることに気付いた。そして、自分が今まで、この青年を苦しめてきたのだということにも。

 いつも明るく笑う栢影は、きっと陰では自身と兄を比べて傷ついてきたのだ。そして、雪華の態度もまた、彼を深く傷つけてしまったのだ。そのことに、漸く気が付いた。


「ずっと、そばにいて欲しい」


 雪華を抱きしめる腕に、ギュッと力が込められた。雪華は、頷いていた。





「兄上は、子供の頃から聡明で、周りの人間はみんな彼が好きだった」


 栢影は、ポツリポツリと語りだした。夜は大分更け、月も傾いていた。

 雪華と栢影は、亭の長椅子に並んで腰掛けていた。


「父上も先生も、みんな兄上に期待していた。それも当然だと思う。兄上は皇太子で、いつか国を負って立つことが定めづけられた人だったから。兄上はそんな重圧にも負けずに立派になんでもこなしていて、俺は本当に兄上を尊敬していたんだ。いずれ兄上が即位すれば、俺は皇弟とはいえ一臣下になることもわかっていたし、兄上のお役に立てるのなら、それでもいいと思っていたんだよ。

 でも、父上が身罷られ、兄上が帝位に就くと、兄上は人が変わってしまった。もともと、滅多に他人に心を見せる人じゃなかったけど、帝位に就いてからは、全てに無関心になって、心を失ってしまったみたいだった。

 その頃から、俺は兄上にどうやって接したらいいのかわからなくなっていった。兄上も俺を持て余しているみたいで、俺たち兄弟はギクシャクしていたんだ。どうにかその状況を抜け出したくて、誰かに相談しようと思った。でも、その時になって漸く、俺には信頼できる人がいないことに気付いたんだ」


 栢影は身体を丸め、膝の上に立てた両手で顔を覆うように伏せた。


「俺はずっと兄上の弟として、皇弟として振る舞ってきて、それなりに人付き合いは上手く行っていたけど、同時に、誰にも自分を“栢影”として見てもらえなくなっていたんだ。広く浅く付き合ってきた結果、深い信頼を寄せることができる人間を無くしたんだ。それは同時に、心の支えになってくれる人もいないと言うことだった」

「欧陽太師は、信頼に足る方では無いの?」


 雪華は思わず訊ねていた。その問いに、栢影は首を横に振った。


「先生は、いざというとき、兄上を取るよ。それが良いとか、悪いとかいうわけじゃないけど、俺はたぶん、先生に自分の心をさらけ出せないと思った。先生の中でも、俺は栢影ではなくて皇弟だから。

 ……雪華、初めて会ったとき、君は俺を皇弟としてではなく、栢影として見てくれたんだ。それは、君が俺の身分を知らなかったからではなくて、君が一人の人間をありのままに受け入れてくれる人だったからだよ」


 ようやく顔を上げた栢影は、切ない笑みを浮かべていた。


「君が、兄上を皇帝としてではなく、柊影として好きになってくれたように、いつか、俺のことも栢影として好きになって欲しいと思ったんだ。こんな気持ちは初めてで、どうしたらいいのかわからなかった。兄上のためなら、何を犠牲にしても構わないと思っていたけど、君だけは、どうしても譲れなかったんだ。それが、結果として君を苦しめているとわかっていても……」


 人は、誰にでも苦しみがあるのだ。普段どんなに明るく振る舞っていても、沢山の人に好かれていても、その心の奥には目には見えない痛みを抱えていたのだ。

 彼が悩みの無い明るい青年だなんて、どうして思ったのだろう。自分が痛みを知った今だから、彼の痛みも良く分かった。

 たぶん、わたしと栢影は上手くやっていけると、雪華は思った。傷ついた鳥たちが寄り添って羽を休めるように、心の弱い自分たちには互いに支えあえる誰かが必要なのだ。

 傷ついた恋から逃げ、すぐに別の人に縋るのは、とても狡くて嫌らしかった。でも、自分を必要としてくれる人がいて、そして、自分もまた拠り所を必要としていた。

 そしてなにより、この青年を愛おしいと思い始めていた。それまで柊影に抱いていた思いに比べれば、淡くて吹けば消えてしまいそうなものだったが、栢影のそばにいたいと思ったのも事実だった。

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