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欧陽俊太師という人は、とても話好きな人物だった。
幅広い知識があるために、誰とでも、どんな話でも出来てしまうのだ。また、その知識は深く、雪華の関心は尽きなかった。
それは父である楊真も同じようだった。
父は先の乱の折、その功績を認められ県令に抜擢されていた。そのため、政のあれこれを欧陽太師に聞いていた。
話は弾み、気が付くと夕刻になっていた。
欧陽太師はぜひにと雪華たちを夕食に誘い、雪華たちもまた、欧陽太師の話をもっと聞きたいと考えていたので、二つ返事で了承した。
欧陽太師は女官を呼んで、夕食の用意をするように声をかけた。指示を受けてから暫くと待たないうちに、女官たちが次から次へと料理が盛られた皿を運んで来て、会話の席がそのまま酒席に変わった。
卓上に並べられた色とりどりの目にも美味しそうな料理は、しかし、決して贅を尽くした食材というものではなかった。その分、城の料理人が腕によりをかけ、また、手間暇をかけたからこそ、手に入りやすい質素な食材でも、宮廷で食べるのにも遜色のない料理となっていた。
男たちは酒も進んでおり、話が弾んでいるようだった。雪華も料理に舌鼓を打ちつつ、話に加わっていたが、流石に夜が更けてくると一人先に辞すことにした。
幸いなことに、栢影が宮城内に泊まる部屋を用意してくれたので、昨夜の屋敷に帰らなくて済む。雪華は女官に案内されながら、その部屋へと向かった。
あてがわれたのは、外国の使節も迎えたことがあるという、立派な部屋だった。寝床も、雪華にはもったいないくらいに豪華だ。
女官が寝支度を手伝ってくれ、後は眠るだけとなったけれども、雪華は寝付くことができなかった。
こうして一人になると、自然と考えるのは柊影のことだった。けれど、昨日まで抱いていた憧憬は、見事に霧散してしまっていた。
柊影が皇帝であることは、とてつもなく大きな隔たりだった。
人を好きになるということは、決して身分で好きになるわけではない。そんなこと十分にわかっているのに、もう以前のようにただ彼を想うことさえ許されない気がした。彼を好きだと思うこと自体がおこがましいと、自制してしまう。
彼のことを考えると、ズキンと、頭も胸も痛んだ。
雪華は大きく息を吐いて、部屋を出た。すでに女官は下がっていて、雪華を見咎める者はいない。それなのに、忍ぶように静かに足を踏み出した。
自分がどこへ向かっているのか、雪華はわからなかった。でも、別にそれでも良かった。行きたいところなどないのだから。
気が晴れるまで、夜の散歩を続けるのも悪くないだろうと、雪華は静かに回廊を歩き続けた。
人目を避けるように歩いているうちに、昼間柊影と謁見した、あの建物に着いた。と、丁度その時、両開きの扉が開き、中から人が出てきた。
――柊影だった。
雪華はとっさに柱の陰に身を隠していた。隠れる必要なんてないのに、体が勝手に動いていた。
柊影は雪華に気付かず、室内から誰かが出てくるのを待っていた。雪華も部屋の入り口を見れば、開け放たれた扉の奥から、とても美しい女性が出てきた。
「済まなかったな。こんな時間に呼び出してしまって」
柊影は女性に声をかけた。労わるような、穏やかな口調だ。その声音を耳にしただけで、雪華の心臓はギュッと鷲掴みにされたように、苦しくなる。
「どうぞ、お気遣いなく。それよりも、陛下はご無理をなさり過ぎです。いつもこのような時間までお仕事をなさっていては、お体を壊されてしまいます」
女性は、雪華より一歳か二歳は年上のように思われた。意思の強そうなきりっとした目をしたその女性は、柊影の体を心配してか、ちゃんと話を聞けとばかりに真っ直ぐに彼を見ていた。けれど同時に、彼女には包み込むような優しさと、大人の落ち着きが感じられた。
そんな女性に、柊影は雪華が遣る瀬無く感じるほどの気遣いに満ちた視線を向けていた。
「仕方がないさ。彼の王は早くそなたを差し出せと煩くてな。……だが、本当に良かったのか?」
「はい。あの北伐の戦いで人質となっていた父を救うために、陛下がこの降嫁の話を受けたことは、良くわかっていますから」
女性はカラリと笑って、肩を竦めた。雪華は漸く、彼女が此の度北狄の王へ嫁ぐことになった側室なのだと理解した。だが、彼女の父を救うため、というのは一体どういうことだろうか。
そんな雪華の疑問は、次に続けられた柊影の言葉でなんとなく解けた。
「そなたの父は余には欠くことのできない賢臣だ。だからどうしても彼を取り戻したかったのは事実だ。だが、そなたを代わりに送らねばならなくなったことは、本当に遺憾に思う。詫びたところで許してもらえるとは思っていないが、済まなかった」
柊影は、あまり感情を顔に出していなかったが、その痛々しい思いは、はっきりと伝わってきた。
「そのような謝罪は無用です。私は陛下のおかげで父を救えることできるだけで、十分に満足なのです」
側室は気丈にも笑った。そして話はこれまでとばかりに辞去を述べると、近くに控えていたらしい侍女を呼んで、一緒に去って行った。その後ろ姿を見送る柊影が、憂いを帯びたため息を零した様を、雪華ははっきりと見てしまった。
そして、その瞬間、栢影が以前話してくれた柊影の想い人が彼女なのだと理解した。
柊影は、どうやら北伐で人質となっていた臣下を取り戻すため、臣下とその娘とを交換する条件を飲んだようだ。だが、それは皇帝としての選択であり、柊影は本当は彼女を北狄の王に渡したくないのではないだろうか。
きっと、ずっと傀儡であったために、皇帝の手駒は少なく、大切な臣下を北伐に回さなければならなかったのだろう。そして、国のことを思えば、若き皇帝を支える忠臣が一人でも多く必要であり、戦が終息した今、柊影は皇帝として、側室ではなく臣下を選んだのだ。
しかし、柊影がそれを悔いているのは、彼のあんな姿を見てしまえば明らかだった。
――もう、ダメだ。
雪華は涙を懸命にこらえたまま、踵を返して駈け出した。




