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栢影に案内されて別の建物に移ると、今度は大きな円形の茶卓の置かれた部屋に通された。
そこで待つようにと言って、栢影はどこかに行ってしまった。栢影が出て行ってしまうと、入れ替わるように女官がお茶を持って現れたが、彼女も雪華と楊真にお茶を容れると、すぐに礼をして去って行った。
残された雪華と楊真は、先ほどの驚きが冷めぬまま、無言で茶を啜っていた。それぞれに思うところがあったのだ。だが、そうして考えに耽っているうちに、父がポツリと言葉を漏らした。「この結婚、誤ったかもしれぬ」と。
雪華はその声に反応し、父の方を向いた。
「……そうですね。まさか、栢影…様が皇弟殿下だったなんて。身分違いは最初から承知の上だったけれど、それにしても、皇族との結婚なんて分不相応だもの……」
雪華がため息交じりにそう言えば、父は、違うと首を横に振った。
「そういう意味で言ったのではない」
それでは、どういう意味だと聞き返そうとしたとき、再び部屋の扉が開き、栢影が戻ってきた。栢影の後ろには、さらに一人、小柄な老人が続いていた。雪華と楊真は、挨拶のために立ち上がった。
「先生、こちらです」
栢影が先生と呼んだ老人は、楊真を一瞥したあと、そのまま視線を雪華に転じた。そして、ふむ、と一声つぶやき、雪華をしげしげと眺め出した。
「こちらは……」
父が栢影に訊ねると、栢影が二人に老人を紹介した。
「こちらは俺の師である欧陽俊太師です」
栢影の言葉に、楊真と雪華は慌てて頭を下げた。
「先生、こちらは俺の婚約者の楊雪華と、そのお父上の楊真様です」
「なるほどの。ささ、立ち話もなんですから、席につきましょう」
欧陽太師は皆に着席を勧めると、早速雪華に声を掛けてきた。
「貴女が、あの本草に興味のある雪華殿か。なるほど、思っていた通り、賢そうな娘さんじゃ。栢影は、良い方を選んだものじゃ」
欧陽太師の口調は、嬉しそうな反面、どこかやるせなさを感じているようだった。
雪華はそれを疑問に思いながらも、せっかく会うことができた欧陽太師に、以前いただいた本のお礼を述べた。
欧陽太師は見る間に顔をほころばせ、自慢げに頷いた。
「あれは、以前からずっと陛下に書き直せと言われておりましてな。そこに丁度貴女が本をご所望と伺いましたので、良い機会とばかりに筆をとりましたのじゃ」
「陛下は、わたしが本を望むより先に、先生に本を書き直すようにおっしゃっていたのですか?」
「ええ。確か一年以上も前になりますかな。南方の猟地から戻られた折に、地方の現状にいたく心を痛められたご様子で、不作を人工的に改善できないかと考えられたようですな」
「そうだったのですか……。本当に素晴らしい本をくださり、ありがとうございました」
再び礼の言葉を口にした雪華を、欧陽先生は、労わるような温かい視線で見ていた。
雪華と太師の話がひと段落したところで、楊真が「そういえば」と口を開いた。
「栢影殿はなぜ皇位継承権を放棄なさったのですか?」
「ああ、それは」
栢影は苦笑しながら答えた。
「それが相応しいと思ったからです。俺は兄上が類を見ないほどの英明な皇帝であると確信しています。そして、もし自分が兄上の位を継いで帝位に就いたとしても、兄上のようにはできないということも確信しているのです。ですから、それを知っていながら帝位を継ごうとは、どうしても思えなかったのです」
「ですが、陛下にお世継ぎの太子がいらっしゃらない今、後継者の問題は国の問題ではありませんか。せめて、陛下にお世継ぎがお生まれになってからでも遅くはなかったのでは?」
楊真の言葉に、栢影は「いいえ」と首を振った。
「兄上は既に複数の側室を持つ身。慌てずとも、そのうち継嗣も生まれましょう。ですが、俺が皇位継承権を持ち続けるのは決して国のためにはならないのです。……楊真様は、貴族勢力が強かった折、兄上が上流貴族の傀儡となっていたことは、もちろんご存知でしょう?
あの時、兄上が貴族たちの意のままになっていたのは、俺にも原因があるのです。貴族たちはいつでも皇帝の首を挿げ替えることができると脅し、また同時に、俺が人質となっていたために、兄上は貴族の言うことを聞かざるを得なかったのです。
実を言えば、山南の地へと足を運ぶのも、容易ではありませんでした。兄上にも、俺にも、常に監視が付けられていて、撒くのも一苦労でしたからね。
とはいえ、貴族たちは俺たちを侮っていましたし、監視の者も同じだったようです。俺たちのどちらかの姿がしばらく見えないくらいであれば、報告すら上がらなかったようです。こちらとしては、楊家と連絡を取るのには好都合でしたが。
とはいえ、自由など本当に限られた時間しかなかったのです。迂闊に動けば、俺に害が及ぶとわかっていた兄上は、これまで貴族たちに従うほか無かったのです。俺たちは本当に無力な子供でしたから。
それでも、兄上は変わられた。本当の意味で皇帝として立つと決められたのです。
しかし、それは容易なことではありませんでした。力を持った貴族勢力に対抗するためには、密かに信頼できる味方を集めなければならず、それには半年もの時間がかかりました。それからその味方を動かし、貴族勢力を追い詰める確たる証拠を集めるのに更に半年」
栢影が一旦言葉を切ると、後を受けて欧陽太師が話し始めた。
「そうしてやっと旧来の貴族勢力を打破したものの、政の中枢は未だ定まったとはいいがたい状態なのです。この不安定な時に、新たに権力を握ろうと画策する者がいたとして、彼らはどうすると思いますかな?既に鄭啓や朱鷹翔といった側近によって、身の回りが盤石なものになりつつある皇帝に新たに取り入るより、依然として勢力を持たない皇弟に取り入る方が、遥かに容易いとは思いませんか?そうして皇弟を取り込み、皇帝を弑せば、自然と手元に大きな権力が転がり込んでくるのです。もちろん、これは極端な話ですが、もし今陛下が不慮の事故や病で亡くなったら、結果は同じこと」
欧陽太師に頷き、再び栢影が口を開いた。
「事実、兄上が反乱を鎮め貴族勢力を排した時、すぐに俺に打診してくる輩が数名いたのです。彼らは直截的な言い方はしませんでしたが、持ちかけてくる話の内容は、俺には「帝位に就くに相応しい才能がある」とか、「このまま皇帝に子供ができなければ」と言った、兄上を貶めるような、聞いているだけで不快極まりないものでした。そして、そうした権力に群がる蟻のような者たちに利用されるのが、俺は嫌でした。貴族の傀儡となっていた兄上を知っていれば、尚更です。だから、実質上皇位継承権を放棄し、俺の地位を政の道具にできないようにしたのです。そうすれば、弟と帝位を争うことになるかもしれない、という兄上の後憂も同時に断てますし」
栢影は、ふうと軽いため息を吐き、しゃべり続けて乾いただろう喉を潤すため、茶を一息に飲み干した。




