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※柊影視点
花の季節は終わろうとしていた。
柊影は馬を駆り、山南の地に赴いていた。絶地飛燕のごとく疾駆する馬の背で、柊影の心もまた先へ先へと急いていた。
やっと、雪華に会えるのだ。
もう半年以上も顔を見ていない。彼女に会えないのはひどく辛いことだったが、瞼を閉じれば浮かぶ無垢な彼女の笑顔が、どんなに苦しい時でも柊影を支えてくれた。
それに、会えないからこそ、はっきりと気付いたのだ。自分には彼女が必要なのだと。
いつからか、好きという気持ちが深い愛情に変わっていた。彼女がいてくれたら、皇帝という孤独な道も歩いて行けると思った。だから柊影は雪華に会って、自分の気持ちを伝えるつもりだった。そして、自分が皇帝であることも。
そんな柊影の思考を、欧陽先生は敏感に読み取っていた。都を立つ前に片づけようと反乱の事務処理に追われる柊影を訪ねた欧陽先生は、人の悪い笑みを浮かべていた。こういう時の先生は、大概何らかの悪戯心を抱いているのだ。
柊影は無視することに決め、書類に目を通す。すると、それを遮るように欧陽先生が声をかけてきた。
「陛下、陛下が即位されて早二年が経ちますな。乱も治め、陛下の治世は盤石なものになりつつあります。ですから、そろそろ皇后を迎えられてもよろしいのではありませんか?わしとしては、一人、心当たりがございますが」
柊影はピタリと手を止め、欧陽先生を見た。欧陽先生は横目で柊影の反応を窺いながら、話を続ける。
「楊家の娘、はて、名前はなんでしたかな?……ああ、そうそう、雪華様とおっしゃいましたな」
はて、と首を捻るそのわざとらしい演技に、柊影は盛大にため息を吐いた。そんな柊影を無視して、欧陽先生は芝居を続けた。
「本草に興味を示す、聡明な娘さんだとか。まだまだ若輩者の陛下を、しっかりと支えてくださりそうじゃ。これほどうってつけの方は他にいないような……。わしも早くお会いしたいものですな」
柊影は呆れたように、苦笑を浮かべた。
「私だって、一刻も早く雪華に会いたいですよ」
柊影の言葉に、老人は呵呵大笑し、ついで目を細めて柊影を見た。
「では、陛下は彼女を皇后として迎えるおつもりと、そう考えてよろしいのですな」
「ええ。ですが、それも雪華に想いを伝えてからです。雪華に断られる可能性もあるので」
そう言ってから、柊影は自分の言葉に不安を覚えた。欧陽先生はそのわずかな陰りを見逃さなかった。
「女性は贈り物に弱いと聞きますぞ。何か贈ってみてはいかがかですかな?しかし、陛下は娘に野草の本を贈るような、女心をわかっていないお方ゆえ、心配ですな」
欧陽先生に案じられるというのは、どうも馬鹿にされている気がする。柊影はムッとしながら、では何を贈ればいいのかと訊ねていた。
「そうですな。お話を聞く限り、雪華様は宝石や美しい衣など、身を飾る物には興味がなさそうですな。かと言って、年頃の娘が美しい物、愛らしい物を好まないはずがありません。ですから、雪華様が喜んで使ってくれそうなもので、美しい細工を施したものを贈ってみてはいかがかな?」
「それは、なんとも難しい注文だな」
柊影は真剣に悩んでいた。そんな柊影を欧陽先生は嬉々として見つめていた。こんな風に、この若者が若者らしくある姿を見たのは、初めてのことだったからだ。
その後、どうにか雪華への贈り物を用意した柊影は、こうして雪華に会いに来たのだった。
しかし、いざ山南の地に来た柊影は、楊家の屋敷を訪ねる前に梨園に立ち寄った。
一年前、この花が散る季節に雪華とここで出会ったのだ。それを思うと、もう一度、雪梨の白い花が咲く梨園を見ておきたかったのだ。
あれから一年。長いようで、あっという間に過ぎてしまった一年だった。そして、自分を取り囲む世界のすべてが変わってしまった。
それなのに、柊影の目の前にはあの日と同じ、美しい白い世界が広がっていた。
「年年歳歳花相似たり…か」
柊影はポツリと呟いていた。自分がこんなに感傷的な人間だとは思っていなかった。
「――歳歳年年、人同じからず」
不意に背後から人の声がして、驚いた柊影は声の方を振り返った。そこには、雪華が立っていた。
半年以上も会っていなかった彼女は、以前と変わることなく、こちらが切なくなるほどに美しかった。
しかし、雪華は何故か泣きそうな顔で、柊影を見ていた。
「雪華……久しぶりだな」
柊影が声をかけると、彼女は苦しそうに無理矢理笑顔を作った。
「柊影、久しぶり」
雪華は力なく答え、俯いた。
「どうした?何かあったのか?」
訝しく思った柊影が訊ねると、雪華は言いにくそうに唇を噛んだ。そのまま、沈黙が続いた。
ザワリと風が吹き、二人の間を駆け抜けた。雪梨の花弁が一瞬激しく降りしきり、その後は雪のように静かに、はらはらと散った。
「栢影から、何も聞いていないの?」
ついに雪華は顔を上げ、声を震わせながら言った。
「栢影から?」
雪華の様子は明らかにおかしかった。何か、良くないことがあったのだろうか。何とも言えない嫌な予感がして、心がぞくりと粟立った。
「わたし、栢影と結婚するの」
――雪華が、何を言ったのかわからなかった。いや、違う。頭が、理解することを拒んだのだ。
「雪華、今、なんて言ったんだ?」
「栢影と結婚すると言ったの」
雪華は顔を背け、こちらを見ようとしなかった。柊影も、彼女を見ていられなかった。胸が抉られたように痛くて、何も考えられなかった。




