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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第三章
28/67

1-5

 今年の冬は、昨年ほど冷え込むことは無かった。それが雪華たちには小さな救いとなった。

 雪もほとんど降らなかったため、飢えを凌ぐために山に分け入って、木の根や、冬でも生えている野草をとることができたのだ。

 さらに、欧陽俊の『新修杏林本草』が、そうした食材を探すのに大いに役立っていた。

 「新修」というだけあって、『新修杏林本草』にはこれまで食用とされていなかった植物が食用として載せられており、どの部分をどのように調理すれば食べられるのかといった具体案まで付いた、実用性の高いものになっていた。

 雪華はせっせと『新修杏林本草』を書き写して写本を作り、近隣の村々に配布した。また、父の伝手を使って、できるだけ多くの、遠方の地域にまで行き届くようにしようとしたのだが、なんと、父が動くより先に、それらの地域には既に『新修杏林本草』が回っていることが判明したのである。

 父は、お前と同じことを考える者が他にもいたのだなと、感心したように雪華に報告をしたが、雪華は、それが誰の仕業かわかっていた。

 柊影が、一人でも多くの命を救おうと動いているのだ。それが、雪華の心に希望という名の明かりを灯した。

 しかし、その一方で、相変わらず県や郡の役人の搾取は続いていた。北の州では、それがより苛烈だとも聞いた。その理由は、単に北の方が寒さが厳しいからというだけではない。

 榛国の北には、騎馬遊牧民族の国家がある。北狄(ほくてき)と呼ばれる彼らは、度々国境を侵して攻め入ってくるのだ。

 彼らが侵攻してくるのは、何も領土拡大を狙ってのことではない。遊牧民の生活は、気候変動に大きく影響されるのだ。

 榛国で二年も連続して不作が続いたということは、遊牧民たちの遊牧地でも牧草が育たなかったはずである。もともと大した植物が生えるわけでもないから、遊牧地になっているような場所なのだ。土地の力が弱く、農耕にはむかない。そして、土地の力が弱いということは、自然環境の変化にも弱いということだ。自然環境のちょっとした変化で牧草が生育しなければ、彼らの生命線である家畜は当然死んでしまう。家畜が死ねば、彼らは生きていけない。だから安定した食料を求め、榛国に攻め入ってくるのだ。

 当然、榛国とてみすみす侵攻を許すはずがない。騎馬遊牧民を迎え撃つために、国境沿いには軍が配備される。その負担は国が負うが、北方の地方領主は自分の領地を守るために兵を雇わねばならないし、それは公地である県や郡でも同じである。

 それ故に、北方の州に属する地域では搾取が起きているのだ。

 僅かな賃金と食料で戦う兵たちと、兵を養うためだと言って搾取される農民。苦しい立場にあるのはどちらも弱い民だ。結局、皺寄せは民にくるのだ。

 本来ならば、国が外交をこなし、騎馬遊牧民との争いを回避しなければならないはずだが、腐敗した中央の行政機構にそれを期待することはできなかった。

 風の噂では、ついに皇帝自らが北伐軍を組織して北の国境沿いへ遠征したという。藩屏たるべき貴族の不甲斐なさが、そうさせたのだろう。

 だが、皇帝が前線に出て戦ったところで、戦況はあまり芳しくないと聞く。どうにか膠着(こうちゃく)状態を保っているそうだが、それ以上の攻勢に転じることができないのだとか。

 自己保身に走る貴族たちが、国を守るために戦うことなどなく、皇帝は騎馬遊牧民に対するための十分な兵力を得られないのが原因だろう。

 貴族たちは自分たちの安全を確保するために、都の防衛を司る南衙禁軍を削って北伐軍を編成することに反対したそうだ。貴族たちには私兵がいるのに、さらに南衙禁軍も動かす気がないのだ。

 彼らは自分たちが安全なら、北の地が奪われてもいいのだろうか。流石にそこまでは考えていないかもしれないが、責任は自分たちが飼い殺しにしてきた皇帝一人に擦り付けるつもりでいることは明らかだ。

 だからといって、雪華にはどうすることもできなかった。それが歯がゆくて仕方がない。

 その一方で、秋ごろまで頻発していた蜂起は、このところ聞かなくなった。みな、目の前の困難を乗り越えることで精一杯なのだろう。

 けれど、冬を超えたその時に、溜まった鬱憤が堰を切ったように溢れ出すのは明らかだった。だから、柊影たちは春が勝負の時だと考えているのだ。

 雪華は冬の間、何かの足しになればと、食べられそうな食物を探しに自ら何度も山に入った。そしてそのたびに、すっかり葉が落ち、寒々しくなってしまった雪梨の木々を見つめた。

 最初はくすんだ色をして寂しそうに見えた木々の枝にも、月日を経るにつれ、小さな蕾ができ、それが徐々に膨らんでいった。

 そして、寒さが緩み暖かな日が続いたころ、ついにその蕾が、一つ、また一つと綻びはじめた。春が、来たのだ。

 その数日後、雪華が山菜を摘んで屋敷に帰ると、一人の客人を父が居室でもてなしていた。客人は、栢影だった。


「雪華、お前もこちらに来なさい」


 茶卓に着いていた父にそう声をかけられた雪華は、ゴクリと唾を飲み込んだ。ついに、栢影に返事をする日が来たのだと思うと、一気に緊張が増した。

 雪華はゆっくりと二人のそばに歩み寄った。


「栢影様、お久しぶりです」


 雪華が挨拶をすると、心なしかやつれた栢影が、それでも相変わらずの眩い笑顔で返事をした。


「久しぶり。元気そうでなによりだ」


 二人の挨拶が済むと、父が徐に口を開いた。


「雪華、お前は栢影君と結婚しなさい」

「――え?」


 一瞬、雪華は何を言われたのかわからなかった。


「栢影君と結婚しなさい。それが、お前のためにも、この楊家のためにも一番良いことだ」

「お父様、わたし――」

「否やは認めぬ」

「そんな。どうか、わたしの話を聞いてください!」


 雪華が悲痛な声を上げたとき、横から栢影が口をはさんだ。


「楊真様。少し、雪華さんと話をさせてください」


 栢影の言葉に、楊真はよかろうと頷いた。


「外で話そう。雪華、おいで」


 栢影は雪華を連れて屋敷を出ると、春めいてきていた庭に出た。人気がない辺りまで来たところで、栢影は話し始めた。


「今日ここに来たのは、雪華の返事を聞くためだったんだ。屋敷を訪ねたら君はいなくて、お父上の楊真様が出迎えてくださった。楊真様と話をしながら君を待っていたら、楊真様が俺に、雪華のことをどう思っているのか、正直に話してほしいと仰った。だから俺は、君と結婚したいと思っていると伝えたんだ。

 楊真様は喜んでくださったよ。ぜひ、俺に娘婿になって欲しいとも仰ってくださった。そこまで仰っていただけて、俺も嬉しかったよ。

 雪華、楊真様は先ほど君にああ言ったけど、楊真様は本当にちゃんと君のことも考えて言ったんだと思う。でも、もちろん俺は君の意見を尊重するつもりだ」


 栢影は、真剣な表情で雪華を見つめた。雪華は唇を噛んで、眼を伏せた。

 栢影は、雪華の意見を尊重すると言ってくれたけれど、この時代、親の決めた結婚に逆らうことなど許されないことだ。父が決めてしまった以上、雪華がどんなに反対したところで、覆ることはない。

 けれど、もし、栢影の方から断ってくれたら、この話が無かったことにできるかもしれない。


「栢影、わたし――」


 涙をこらえながら、雪華は決然と顔を上げた。

  

「わたし、柊影が好きなの」


 雪華が意を決してそう告げると、栢影は苦しそうに笑った。


「やっぱりね。そうじゃないかと思ってた」

「だから、栢影、この結婚の話は――」

「でも、雪華は兄上と結婚しても幸せになれないよ」

 

 辛そうに吐き出された栢影の言葉に、思わず雪華は聞き返していた。


「――どういう、こと?」

「兄上には、既に何人かの側室がいるから」


 栢影の言葉に、雪華は頭を殴られたような衝撃を受けていた。

 

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