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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第三章
27/67

1-4

 ――栢影が、わたしを、好き?

 雪華は屋敷の自室で、栢影の言葉を反芻していた。

 栢影のように爽やかな好青年に好きだと言われれば、どんな娘だって嬉しく思うに違いない。彼はとても整った容姿をしているし、武術で鍛えられた体は息を飲むほどしなやかで逞しい。その上、光のように眩い明るさを持っている。

 それなのに、雪華が彼の言葉を聞いて最初に思ったのは、これが柊影だったら、ということだった。そしてそんな残酷なことを考えてしまった自分に吐き気がした。栢影の真摯な告白に、きちんと向き合うべきなのにと、自分を恥じた。

 けれど、それが答えだとわかっていた。わたしが好きなのは柊影なのだと。

 柊影を好きになってはいけないと、どれほど自分に言い聞かせたところで、心は彼を追ってしまう。ほんの僅かな微笑み一つで、雪華を何物にも変え難いほど幸福にさせ、同時に泣きそうなほど苦しめることができるのは、柊影しかいないのだ。

 人を好きになると言うのは、なぜこんなにも(まま)ならないのだろうか。

 雪華はため息を一つ吐いて、何気なく、卓の上に置いていた本を開いた。柊影から貰った『新修杏林本草』だ。

 パラパラと、中身をぼんやりと眺めながら捲っていると、本の最後の方の頁から、ぱさりと何かが落ちた。どうやら封のされた手紙のようだ。雪華はそれを拾い上げ、ゆっくりと開いた。

 

『雪華へ』


 手紙はそう始まっていた。手本のような美しい文字は、書き手の真面目な性格をそのままに表していた。


『雪華へ

 君が欲しいと言っていた本を漸く手に入れたから、どうか受け取って欲しい。著者の欧陽俊先生に君のことを話したら、ぜひ君に会いたいと仰っていたよ。君が不作の続く中で本草に目を付けたのは、実に良い着眼点だとも仰って、大層誉めていらっしゃった。私は、それが自分の事のように誇らしかった。

 雪華、もうすっかり秋になったから、雪梨の実もきっと実っているころだろう。欧陽先生の新著によれば、梨の実はそのまま食べても美味しい上に、薬としても価値があるそうだ。季節の変わり目の秋は、風邪などを引きやすいという。喉の痛みを覚えたら、梨の汁を飲むと良いそうだよ。貧救院の子供たちは大人に比べて風邪をひきやすいだろうし、苦い薬を飲むのも辛いだろう。だから、きっと君のところの梨園の雪梨が役に立つと思う。』


 雪華は手紙の途中で、思わずクスリと笑っていた。子供は苦手だからと言って、子供の世話は全て雪華にまかせ、一人で畑を耕していた柊影を思い出した。彼は本当は不器用なだけで、子供が嫌いなわけではないのだ。だから手紙でも、こんなにあの子たちのことを心配している。


『本当は、私自身が君のところに赴いて、直接本を手渡したかった。けれど、今はそれが叶いそうに無い。

 今年も各地で不作だったと聞く。この冬が、また大きな試練になるだろう。できるだけ被害を減らすために、私は都でできるだけのことをするつもりだ。

 春のあの日、君に出会って、私は自分がなすべきことを知ったんだ。それは、君が教え諭してくれたことだ。

 けれど私は非力で、二度とあんな辛い思いはさせないと、その場で君に誓えるだけの力が無かった。正直、今だってそれだけの力があるとは思わない。けれど、私には信頼できる仲間ができた。それは権力に匹敵するものだと思うんだ。

 たぶん、今は耐える時期なのだろう。しかし、冬を超えた草木が春に花を咲かせ芽吹くように、我々もいつか必ず政を正道に戻すことができると信じている。

 変革の口火が切られるのは、おそらく春になってからだ。そして、一旦放たれた炎は燎原の火となって国を飲み込むだろう。その時、決して炎が掻き消されることが無いよう、私はこの冬の間に備えておくよ。

 君に次に会えるのも、おそらく春が来てからだろう。その時がきたら、本の感想を教えて欲しい。楽しみにしている。

 最後に、君も風邪をひかぬよう、体には十分気をつけてくれ。    柊影』


 雪華はそっと指で手紙の最後に記された柊影の名前を辿った。彼は、二人が出会ったあの日に雪華が話したことを、ずっと胸に抱いてきたのだろう。きっと、傀儡だと言う皇帝を動かし、彼らは民のために立とうとしているのだ。

 ――柊影。

 自分は、この手紙の返事を出すための宛先を知らない。それどころか、柊影の事は殆ど何も知らないのだ。知っているのは、彼が優しく、不器用で、真面目だということくらい。

 そして、自分はそんな真面目な青年を危険なことに巻き込んでしまったのではないだろうか。今更ながらにそんな考えが浮かんだ。

 心を取り戻した青年に、再び心を失わせるようなことになるのではないかという、暗い予感のようなものが、靄となって雪華の心を覆っていく。

 その靄を払うように頭を振り、手紙を封に戻そうとしたその時、手紙の封から、ひらりと何かが零れ落ちた。

 白くて薄い、小さな切片のようなもの。――それは、花弁だった。

雪華は慌てて封を卓の上で逆さにした。すると封の中からひらりひらりと花弁が幾枚も落ちてきた。そしてしまいには、ぽたりぽたりと押し花にされた花が幾つも出てきた。

 花は、雪梨の花だった。

 不意に、雪華の脳裏に記憶が蘇る。

 柊影と出会ったあの日、梨園を発つときに、柊影は一枝手折っても良いかと聞いてきたのだ。雪華は快く許したものの、なぜ、と聞かずにはおれなかった。男が花を欲するなんて、なんだか不思議だったのだ。

 そんな雪華に、柊影は真面目にこう答えたのだ。穢れの無い、真率(しんそつ)な雪梨の美しさに、救われたのだ、と。

 手紙には、この雪梨の押し花のことなど、何一つ書かれていなかった。でも、だからこそ、この花が柊影の密かな誓いの証のように思えた。真率な雪梨の花のようにあろうとする、その証のように。

 雪華は大切な宝物を扱うように、慎重に花と手紙を本に挟んだ。そうして上げた雪華の顔は、凛としたものに変わっていた。

 春になったら、栢影にきちんと返事をしよう。そして、柊影に、自分の思いを伝えよう。雪華は静かにそう決意した。


  

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