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栢影は、それから頻繁に雪華を訪ねるようになった。そして、それに反比例するように柊影が来ることが減っていった。
柊影は忙しいのか、と雪華が問えば、栢影は申し訳なさそうに頷いた。
「兄上がとても忙しいのは事実だ。都には、兄上にしかできない仕事が山のようにあるから。それに、俺たちが同時に抜け出すのは色々とまずくて、兄上が都に留まざるをえないんだ」
いつの頃からか、栢影は雪華に対して打ち解けた言葉遣いになっていた。
「そうなの」
柊影に会えないのは寂しくて、たまらなかった。柊影はいつの間にか、そばにいるのが当たり前の存在になっていたから。
けれど、柊影がここに来られないのは、彼が雪華たちのために働いているからだということも、ちゃんと理解していた。だから雪華は何も言えなくなってしまう。
柊影に会えない時間は徐々に増え、山々が紅葉に色づき始めた頃には、柊影はもう一月以上も顔を見せていなかった。
そんな時、雪華を訪ねて、栢影が梨園にやってきた。
すっかりおなじみになった明るい彼の笑顔は、一時とはいえ雪華の不安を掻き消してくれた。それに、栢影は話が上手で、いつも雪華を気遣って、楽しませようとしてくれた。
「雪華、君は梨園が好きだね」
すでに栢影とは何度かここで会っているので、彼にとっては雪華がここにいるのがお決まりのことになっているようだ。
「ええ。ここにいると落ち着くのよ」
雪華は笑って答えた。もともと花の季節の梨園が好きだったのだが、ここで柊影に出会ってからは、梨園は雪華の大切な場所になっていた。ここにいるだけで、柊影と過ごした時間が思い出されるのだ。
「俺も、ここが好きだよ」
栢影は雪華の隣に腰かけながらそう言った。
「そうだ、今日は兄上から君に、本を預かってきたんだ」
栢影は手にしていた小さな包みを開けた。中から出てきたのは一冊の本だった。それを受け取った雪華は、思わず顔が緩んでしまった。
ずっと欲しいと思っていた、本草学の名著だったのだ。まさか、柊影がそれを覚えていてくれたとは、嬉しい驚きだった。
雪華が柊影にこの本が欲しいのだと告げたのは、確か初夏の頃だ。貧救院で何かの足しになればと、子供たちと野菜の種まきをしたことがあった。その時に、せっせと荒れ地を耕す柊影に、何の気なしに言ったのだ。本草の勉強がしたいと。
それはずっと前から考えていたことだった。本草学の知識があれば、旱魃などに強く、多くの実りが期待できる野菜や穀物を植えられるし、病に効く薬草だって栽培できるのだ。
雪華はそれまでにも何冊か本草学の書籍を持っていたが、どれも実用的な内容でなかった。それを柊影に零したところ、彼が、良さそうな本に心当たりがあると言ったのだ。それが、雪華が今手にしている本、『杏林本草』だった。
雪華は、嬉しそうに頁をパラパラとめくっていた。すると、本がかなり新しい物だとわかった。紙は梳いたばかりで、しかも、梳き縞が細かい上等なものだ。使われている墨も質の良い黒々としたもの。
改めて表紙を見れば、『新修杏林本草』となっていた。
「これは……」
思わず口を付いて出た疑問の声に、栢影が答えた。
「欧陽俊が、自身の『杏林本草』に加筆修正したものだ」
「――本当に?」
「ああ。兄上が欧陽先生に『杏林本草』が欲しいと言ったら、新たに得た知識を加えた、もっといい本を再執筆してくださると仰ったそうだ。だから、それが出来上がるのを待っていたら、こんなに遅くなってしまったんだそうだよ」
栢影はさらっと言ったが、欧陽俊と言えば、この国で知らぬものはいない知識人だ。彼は様々な典籍に通じているだけでなく、医学や薬学まで修めているという。
また、先王の代から王の教師を務める、この国の太師なのだ。彼を師と仰ぐものは多いと聞くが、柊影たちもそうだったのか。しかし、それにしても、わざわざ新しい書を執筆してくださるなんて……。
自身の掌中にある本が、どれほど貴重なものなのかを改めて理解した雪華は、手が震えてしまうのではないかと思った。
「何かお礼をしないと……」
「それなら、本人に礼を言ってあげるといいよ。兄上も喜ぶだろうし、欧陽先生も、君に会いたいと言っていたから」
「え?」
「――ああ、俺たちこう見えて、欧陽先生と直接的な交流があるんだ。兄上が先生に君のことを話したらしいんだけど、そうしたら先生は君をいたく気に入ったみたいで、俺にも君のことを聞いてくるんだよ。だから、いつかゆっくり時間が取れる時にでも、会うといいよ」
「そんな。欧陽俊先生と言えば、この国の学問の第一人者だわ。わたしのような者がおいそれと会える方ではないわよ」
滅相もないと困惑する雪華に、栢影はカラリと笑った。
「気にする必要は無いよ。会いたいと言っているのは向こうなんだからさ」
栢影の自信に満ちた顔を見ていると、雪華の心は軽くなった。抜けるような空の青さを持った瞳が、大丈夫だと言っている。それが、安心感につながる。
最近では、柊影といても不安ばかり感じるようになっていて、ここまでの安心感を得られることは無くなっていた。柊影といると、切なくて、胸が苦しくなるのだ。それでも、会えないのはもっと苦しかった。
「それから、こっちは俺から君に」
栢影はそう言って、懐から小さな包みを取り出した。彼が慎重にその包みを開くと、中から美しい細工の翡翠の髪飾りが表れた。緑色の羽の蝶を象ったものだ。
「栢影、これは……」
「雪華、どうか受け取って欲しい」
「でも、こんな高価なもの、いただけないわ」
雪華は慌てて固辞したが、栢影は譲らなかった。
「都の土産だと思ってくれればいいよ」
「でも……」
「君がもらってくれないと、こいつは行き場が無くなってしまう。男の俺がつけるわけにもいかないし、そうなったら捨てるか骨董品屋に持っていくしかないが……」
「……ずるいわ。そんな風に言われたら、受け取らないわけにはいかないじゃない。……ありがとう、栢影」
雪華が観念したように受け取ると、栢影は満面の笑みを浮かべた。
「そうだ、雪華、貸してごらん」
栢影は再び髪飾りを手に取ると、器用に雪華の髪に挿したのだった。
そうして髪飾りを付けた雪華をまじまじと見つめると、にっこりと笑んで見せた。
「うん、良く似合ってる。やっぱり翡翠にして良かった。君の瞳の色にぴったりだから」
あまりにも眩しい笑顔を向けられて、雪華は恥ずかしくなって俯いた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。さてと、悪いけど、雪華。俺は今日はもう帰らないといけないんだ」
栢影は立ち上がって、残念そうに肩を竦めた。
「今はもう、すごく重要な時期になっているんだ。今年も作物は不作で、冬が来る前に対策を取らなきゃいけない。それと同時進行で、貴族勢力を押さえるための準備を進めなければいけないんだ。
俺たちは宮廷では少数派だし、一人でも動ける人間が必要だ。だから、しばらくは、ここへ来れないと思う。俺も、兄上も」
「そう」
雪華は気落ちして、項垂れた。その雪華を栢影がいきなり抱きしめた。
「はっ、栢影!」
雪華は慌てて腕の中から逃れようとするが、逞しい腕にはさらに強く力が込められる。
「雪華、そんな顔をしないでくれ。君が辛そうにしていると、俺まで辛くなる」
「……栢影」
「なあ、雪華。俺は、君が好きだよ」
突然の告白に、雪華は驚いて彼を見上げた。
いつもは明るく透き通っている彼の瞳が、今は切なげに揺れている。
「次に会うときに、君の返事が欲しい。たぶん、春になったら戻ってこれるから」
雪華はどうにか頷いた。けれど頭は混乱したままだった。
栢影はそんな雪華をそっと離すと、ゆっくりと考えて欲しいと言って、静かに去って行った。




