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穏やかな時間は、不意の人物の登場で終わりを迎えた。
ガサッと梨園の脇の茂みが揺れ、そこから若い男が姿を現したのだ。
寝ていたはずの柊影は、いつの間にか剣の柄を握って、雪華を背後に庇うように立っていた。ピリピリと緊張に張りつめた気配が、柊影の背中から伝わってくる。
「……兄上?」
若い男の第一声はそれだった。
「栢…影…?」
そう言った柊影は、とたんに弛緩し、剣から手を離した。
「なぜ、お前がここにいる?」
当惑と疑念が混ざった声音で、柊影が若者に訊ねる。どうやら、彼の名前は「栢影」というらしい。栢影が柊影を兄と呼んだこと、さらに二人に共通の「影」の字があることから考えて、二人が兄弟だということは明らかだった。兄弟は名前に同じ文字か、或いは同じ部首の漢字を用いていることが往々にしてあるからだ。それにしても、兄弟そろって山の中から突然現れるのだから、なんとも可笑しいものだ。
栢影は無駄のない、すっきりとした身なりをしていた。だが、彼が纏っている衣はやはり上質なもので品がある。それが鍛錬を積んでいるのが一目でわかる引き締まった体によく合っていた。
栢影の体型や立ち姿、さらに顔立ちまでが柊影にどことなく似ていたが、二人の雰囲気は全く異なっていた。
柊影が絶対に見せないような満面の笑みで、栢影は二人のもとにやってきた。
「……実は兄上を付けて来たのです。途中でうまく撒かれてしまいましたが。それで山中を彷徨っているうちに、ここに出たのです」
栢影の言葉に、柊影は大きなため息を吐いた。
「あれはお前だったのか。だが、どうしてこんなことを?」
「俺なりに、心配していたんです。貴方が近頃、妙に姿を消すことが増えたから、変なことに巻き込まれているんじゃないかとね。幸い、俺は兄上よりも自由に抜け出せるので、思い切って兄上を追いかけてみたのです」
そう屈託なく笑う栢影は、視線を雪華に転じた。
「兄上、こちらは?」
「――ああ、雪華だ。雪華、こいつは私の弟の栢影だ」
柊影の紹介を受け、栢影がにこやかに笑んで軽く礼をした。
「栢影です。雪華さん」
「雪華、と呼び捨てで構いません」
雪華も笑顔で礼を返す。
「なら、俺のことも栢影と呼び捨てにしてください。――それで、兄上はなぜここへ?あ、雪華に会いに来ているのですか?」
何気なく発せられた栢影の言葉に、雪華は自分の顔が一瞬で上気したのがわかった。だが、それもすぐにシュンと萎れてしまう。隣にいた柊影が絶句している姿を見てしまったからだ。
よほど想定外の言葉だったのだろう。それが雪華をいたたまれなくさせた。
――わたし、何を期待していたんだろう。
柊影はそんな雪華をよそに、栢影に険しい表情を向けた。
「栢影、余計なことは詮索しない方がいい」
「何か、色々と事情がありそうですね」
「ああ。これ以上のことが知りたければ、それなりの覚悟がいる」
「それは、俺のために言っているんですね。本当は俺を巻き込みたくない?」
栢影の問いに、柊影は答えなかった。けれど、柊影の固い表情が、肯定を示している。
栢影は人を惹きつける爽やかな笑顔になった。
「兄上、俺も何かのお役に立てるかもしれませんよ」
柊影は再びため息を吐くと、苦笑した。
「お前は、変わらないな」
「兄上もね」
そう言って笑い合う二人は、本当に仲の良い兄弟のように思えた。だから、自然と雪華の顔にも笑みが浮かんだ。
それから三人は雪華の屋敷へ向かうことにした。流石に侍女の目を盗んで来ているため、雪華はそろそろ戻らなければならなくなったのだ。二人に暇を告げようとする雪華を、彼らは送っていこうと申し出てくれた。
いつもならば柊影と二人で歩く小径を、今日は三人で歩く。柊影と栢影は二人で何か重要な事柄を話しているようだったから、雪華は少し距離をとって歩いていた。
時折、先を行く柊影が雪華を振り返る。彼女がちゃんと付いてきているか、心配しているのだろう。雪華を見て、柊影は安堵したように微笑む。同じように栢影も時々振り返ったが、彼は雪華と目が合うとニコッと笑った。やはり、対照的な兄弟だと雪華は思った。
屋敷に付くと、珍しく父が戻っていた。父は最近、屋敷を留守にしていることが多かったのだ。
父は、雪華を送り届けて辞そうとしていた兄弟に顔を見せ、柊影の弟がいることに驚いたようだった。
父の密かに探るような視線が、栢影に向けられる。たぶん、柊影と同じで、栢影も父に「評価」されていることには気づいているはずだ。
だが、栢影はそんなそぶりは見せず、持ち前の人懐こい笑みを父・楊真に向けた。
「山南の楊家の長にお会いできるとは、光栄です」
父は栢影も合格だと思ったのだろう。すぐに相好を崩した。
「滅相もございません。都の方から見れば、取るに足らない小人です」
「ご謙遜を」
そんなやり取りをする二人を、雪華は驚きを持って眺めていた。柊影だけでなく、この栢影もまた、父と対等か、或は、それ以上の気骨のある人間に違いない。
栢影と柊影は父娘に丁寧に暇を告げて去って行った。
彼らがいなくなると、楊真は雪華に向き直り、参ったとばかりに唸り声を上げた。
「あの二人、あれだけの若さで相当な切れ者だ。全く、卧龍鳳雛の類だろうが、それが兄弟だと言うのだからなおさら驚かされる。いや、それとも、兄弟だからこそ、というべきか。――とにかく、彼らが敵でなくてよかった」
父の心から出たと思われる言葉に、雪華は目を見開いた。父が、ここまであからさまに人を褒めるのは、本当に珍しいことなのだ。
父の言葉が、自分たちが起そうとしている変革の良い兆しのように思えた。




