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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第三章
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1-1

第三章です。

 その日、雪華は梨園にいた。

 雪梨は青々と葉を茂らせ、程よい木陰を作っていた。その木陰で、雪華は本を読もうと腰かける。

 最近、彼女の周りは慌ただしくなっていた。彼女の父が、本格的に動き出したのだ。

 国が、胎動している。雪華はそれを肌で感じていた。彼女たちの前には大きな希望と、そして、大きな障害があった。

 雪華は正直なところ、不安だった。

 父が、物事の本質を洞察し、決して失敗などしない人物であることは、娘であるからこそよくわかっていた。人の全てを見透かすような父のあの視線は、思い出すだけで背筋が凍る。

 しかし、そうとわかっていても、権力と言うものの前で自分たちは無力なのだと思わずにはいられない。それが不安のもとだった。

 ため息を吐きながら、雪華は本を開いた。今は読書に集中しよう。そうすれば、一時とはいえ、この不安を忘れられる。

 雪華が本に集中し始めた頃、誰かが隣に腰かけた。その気配で、一気に集中が途切れる。

 隣の人物は、確認するまでもなく、誰なのかわかっていた。


「柊影、いらっしゃい」


 彼に笑顔を向ける自分の声が弾むのを、雪華は確かに感じていた。


「済まない、邪魔をしたな」


 深い海のような、すべてを見通すことはできない不思議な色味を帯びた眼が、やさしげに細められた。


「いいの。ねえ、それより」


 雪華は本を閉じて柊影に顔を近づける。


「わたしがまた抜け出してきたこと、父には内緒にしてね」


 雪華の言葉に、柊影が声を上げて笑った。雪華は柊影が笑ってくれるだけで、なぜかとても嬉しくなる。


「ああ、わかった」


 柊影が頷いたあと、しばしの沈黙が二人の間に広がる。

 互いに言葉を探している気配がある。でも、柊影が相手なら、その無言の時間も悪くなかった。


「最近、都はどんな具合なの?」


 先に口を開いたのは雪華だった。


「表向きは何も変わっていない。静かなものだ」


 柊影は答えながら、視線を頭上の雪梨の梢に向けた。


「だが、鷹翔のおかげで、私たちがどうにか左右羽林軍を掌握した。このまま、北衙軍をすべて掌握できればいいのだが」


 柊影は、左右羽林・左右龍武(りょうぶ)からなる禁軍北衙(ほくが)四軍を完全に勢力下に置こうとしている。

 禁軍は皇帝直属の北衙禁軍と、国軍としての南衙(なんが)禁軍に分けられる。

 北衙禁軍は榛国建国の際に皇帝一族について戦った軍団が淵源にあり、その軍を左右羽林軍としたのが始まりである。そこに、後に左右龍武軍を加えて増強したのが、今の北衙禁軍である。そのため、その性質から近衛軍として捉えて良いだろう。

 また、北衙禁軍の特徴として、その構成員が、代々武官を輩出する軍閥の出身者が多い点が挙げられる。

 禁軍左羽林軍の朱鷹翔将軍もその一人だ。彼の生家、朱家は建国の功臣の一族なのだ。そのため、鷹翔は武科挙を受けずとも北衙禁軍に徴用されたはずである。ただ、本人が腕試しのつもりで武科挙を受けたに過ぎないのだ。

 この親兵たる北衙禁軍が押さえられれば、宰相の管轄下にある南衙禁軍に対抗することが可能になる。柊影や、彼の仲間である朱将軍は、それを狙っているのだ。

 柊影はたぶん、相当に高い位の武官だ。

 彼は人目を避けて雪華たちのもとへ訪れているためか、決して自分の身分を明かそうとしない。しかし、羽林軍の将軍である朱鷹翔や、最年少で科挙を状元及第した鄭啓と交流があるのだから、柊影の身分が自ずと高いものだと知れる。

 ――身分が違いすぎる。

 雪華は胸が痛むのを隠すように、俯いた。


「どうかしたのか?」


 気付けば柊影が心配そうにこちらを見ていた。身分など彼は気にせず、こうして優しくしてくれる。その優しさがひどく嬉しい反面、辛いと感じてしまう。

 好きになってはいけないのだ、と心の声がする。でも、許されるならもう少しだけ、彼と一緒にいさせて欲しい。

 

「ちょっと、考え事」

「そうか」


 二人は再び無言になる。と、柊影があくびをした。よく見れば、彼は疲れた顔をしていた。きっと、彼は国を変えるために寝食を忘れて働いているのだ。


「柊影、少し休んだら?」


 雪華の言葉に、柊影は頷いて、ごろりとその場に横になった。そして、彼は目を閉じた。

 心地よい風が吹いて、頭上の雪梨の梢がさやと揺れる。それに合わせて、柊影の少し日焼けした肌に落ちる梢の影も揺れた。

 雪華は泣きそうだった。なんでもないこの瞬間が、とても愛しく感じられた。柊影が、自分に気を許して、こうしてそばで眠っているだけで、幸せだった。

 出会ったころの柊影は、とても寂しい目をした青年だった。今でこそ、その目を見ることは無くなったが、出会った時は、本当に空虚な冷めた目をしていたのだ。

 見目麗しく、高い身分もあって、本来なら何もかも望むものが手に入りそうなこの青年が、なぜか不幸の真っただ中にいるように思えた。

 柊影と話をしても、彼が自分のことを語るときはいつも、彼の幼いころの話ばかりだった。 

 雪華は柊影を放っておけなかった。

 一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、柊影は徐々に無関心ともとれる頑なな態度を軟化させていった。たぶん、この真面目で心優しい青年が、彼の本来の姿なのだ。

 穏やかな柊影の寝顔を見つめながら、雪華はこのまま、時が止まってしまえばいいのにと思った。








※ちょこっと補足

話の都合で、北衙禁軍を左右羽林・左右龍武の四軍にしています(今後、神索・神武が加わるかも)が、中国史の史実とは異なりますので、ご注意ください。官職や制度などはあくまでフィクションです。

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