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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第二章
20/67

2-2

※柊影視点

「柊影」


 艶やかな黒髪の美しい娘は、柊影を見つけると微笑んだ。その微笑みが、柊影の胸を甘く焦がす。


「雪華、また屋敷を抜け出したな……。侍女たちが探していたぞ」


 柊影がそう言えば、雪華は頬を膨らませた。


「父のせいね。未婚の女子が外を出歩くなんてはしたないと思っているのよ。それで侍女たちがいつも目を光らせているの」

「それは気の毒だな、侍女たちが」

「ちょっと!柊影はどっちの味方なのよ!」


 雪華は腕を上げて、柊影を叩く素振りを見せる。それが柊影には愛らしくてたまらない。



 二人が出会ったのは、春先のことだ。

 寒さが和らぎ、日の光がまろやかになっていた季節、南の皇室の狩猟地で、その年最初の狩りが行われた。それは高位の貴族や官僚たちが参加した、華麗な社交の場でもあった。

 柊影は形式的に参加していたが、いざ獲物を追って林野に踏み入れる段になって、取り巻きからわざとはぐれた。

 一年前に帝位についた年若い皇帝は、老獪(ろうかい)な貴族や官僚たちにとって、御しやすい傀儡(かいらい)だった。

 皇帝と言う絶対的な地位にいながら、何一つ思い通りにできない己の無力さを自覚していた柊影は、醜い政の世界に、絶望しか感じていなかった。

 民のためと言いつつ、利己的な政策をとるよう圧力をかける貴族たち。そして、そうした貴族と癒着した官僚たち。

 しかし、なによりも許せなかったのは、強い後ろ盾も無く、言いなりになってただ頷くことしかできない自分だった。やり場のない感情は、暗い澱となって心の奥に深く沈んでいった。

 いっそのこと、すべてを投げ出してしまおうか。そう思ったこともあった。けれど、柊影にはそれさえも許されていなかった。

 貴族たちは柊影を帝位に留めるため、弟を人質にとったのだ。

 実際に栢影の身に何かがあったわけではない。だが、いつでも彼の命を奪えるのだと、脅迫された。おそらく、その言葉は偽りでは無かった。皇室をも凌ぐ力――財力や兵力を、当時の貴族たちは確かに持っていたからだ。

 柊影は、そうしてただの操り人形として生きているうちに、徐々に心を失っていった。何に対しても感情を抱くことが無くなり、表情は消え、その瞳は何も映さなくなった。

 柊影が守ろうとしていた弟でさえ、そんな兄に戸惑い、距離を置くようになっていた。

 全てが虚しく、自分などどうでもよかった。

 だから、宮中の恒例行事となっていた狩猟も、適当に社交をこなして、一人身を引いた。そのうち皇帝の不在に気付く者もいるだろうが、実際は飾りの皇帝などいなくても何も変わらないのだ。少しくらい姿が見えずとも、慌てて探す者などいなかった。

 貴族たちは高を括っているのだ。無力な皇帝が、弟を見捨てて逃げることは無いと。そして実際その通りだった。どんなに逃げたいと思っても、逃げることに、ただ一人の家族を見捨てるほどの価値を見いだせなかった。そして次第に、逃げたいと言う気持ちすら、霞んでいった。

 柊影はぶらぶらと、何も考えずに野山を歩き回った。

 春の芽吹いたばかりの草いきれが、むせるように体に纏わりついた。それでも、体は疲れることなく動き続けた。弟との、最早習慣となった武術の訓練が、こんなところで効果を見せてくれたのだ。けれどそれは単なる事実の一つであって、喜びなど湧いてはこない。

 柊影はどんどん山深くへと進んだ。そして、見つけたのだ。白い、穢れの無い世界と、心奪われる娘を。

 景色を美しいと思えるだけの感性が、自分の中にまだ残っていたこと、そして、人を美しいと思えるだけの心が、自分の中に存在したことに、柊影は打ち震えた。

 自分はまだ、人でいられたのだ。決して、心を持たぬ人形などでは無かったのだと、泣きたいほどに安堵した。

 しばし呆然と佇んでいた柊影に、娘が気付いた。そしてその眼が驚きに見開かれる。だが、次の瞬間にはその瞳に険しい色を浮かべた。


「ここは私有地です。立ち去りなさい」


 凛としたその声は、まるで娘の魂の気高さを表しているようだった。


「……済まない。道に迷ったんだ」


 なんとも心もとない声が自分の口から出たことに、柊影は苦笑した。

 娘は警戒心を露わに、こちらをつぶさに観察しているようだった。だが、柊影の身なりの良さに、不審者ではないと判断したようだ。肩の力を抜いて、ゆっくりと近寄ってきた。


「ここは、楊家の梨園よ。あなた、どこから来たの?その恰好からして、狩りでもしていたの?もしかして、皇室の狩猟地から迷い込んできたのかしら。今は皇帝陛下と上流貴族や高級官僚たちが逗留していると聞くし」


 柊影が弓と矢筒を背負っていたため、そう見当を付けたようだ。


「ああ」


 柊影が頷くと、娘は瞳を輝かせた。


「ねえ、狩りって面白いの?何か獲物は取れた?」

「……いや」


 柊影はどちらの問いの答えにも取れる返事をした。


「ふうん」

「君は、ここで何をしていたんだ?」

「わたし?わたしはこの花を見ていたの。綺麗でしょう?雪梨と言うのよ。わたしと同じ、「雪」の字を持つ花なの」

「君の名はなんと言うんだ?」

「雪華よ。貴方は?」

「柊影だ」

「柊影?素敵な名前ね」


 そう言って、雪華は柊影に屈託のない笑顔を向けた。すべての憂いを消し去る、光のような笑顔だった。




 

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