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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第二章
19/67

2-1

※柊影視点

 「それで、どうだったのですかな?」


 その晩、久しぶりに部屋を訪ねてきた老人は、開口一番にそう言った。興味津々とばかりに、その眼が光っている。

 柊影はこれ見よがしにため息を零した。普通の人間なら、それで口を(つぐ)ませるのに十分だった。しかし、長年師弟として接してきた目の前の老人には、全く効果が無い。


「わしがせっかく気を利かせたのじゃ。少しくらいは貴妃様との仲が進展したのではないですかな?」

「先生、おふざけになるのは止めてください」


 こちらも効果が無いとは知っていても、柊影は欧陽先生を睨まずにはいられなかった。欧陽先生はやれやれとばかりに首を振る。


「その様子では、何も無かったのでしょうな」

「あるはずがないでしょう」


 そう、貴妃とはこれと言ったことは何も無かった。ただ、他愛もない話をしただけで。

 だが、何かを強いて挙げるなら、貴妃が以前よりも少しだけ大人びたことを発見したことだろうか。

 婚儀の晩、取引の対価として何でも与えると言ったとき、柊影は貴妃が、若い娘が望みそうな服や宝飾品を要求すると思っていた。

 ところが、貴妃が望んだのは勉強を見てくれる教師であり、沢山の本だった。

 それは柊影にとって新鮮な反応であり、小気味よいことだった。

 故に柊影は後宮への道すがら、貴妃に何気なく「勉強はどうだ」と訊ねたのだ。その問いに、貴妃は花が綻ぶような笑顔で、とても楽しいですと答えた。

 見るつもりなど無かったと言うのに、彼女の笑顔を見てしまったその瞬間、柊影は息をすることさえも忘れて魅入っていた。


「――陛下は、貴妃様をどうなさるおつもりなのですか」


 先ほどとは打って変わって真剣な口調で、欧陽先生が聞いた。辺りの空気が一気に剣呑なものに変わる。


「どう、とは?」

「わかっておいででしょう?」

「……彼女にはこのまま貴妃として、品位を貶めない程度に生活してもらうだけです。その代わり、本だろうが、教師だろうが、彼女の望むものはいくらでも与えるつもりですが」

「なんと愚かな。陛下、あの方は後宮という籠に押し込めておくべき鳥ではない。貴方ご自身が慈しまないと仰るのならば、解放し、広い空を自由に飛ばせてやるべきです」


 柊影は欧陽先生の言葉に答えなかった。言われなくても、今日、貴妃を間近に見た柊影には、十分に分かっていた。

 貴妃は、繭から抜け出し今まさに羽を開こうとしている蝶なのだ。瑞々しく可憐な羽を持つ美しい蝶の、その羽を手折ることもできずに、柊影は狭い虫籠の中に留めるしかない。


「まだ、過去に囚われていらっしゃるのですか?」


 欧陽先生は、静かにため息を吐きながら言った。


「わしが気付かないとでもお思いですか?弟君のことも、そして、雪華(せつか)のことも――」

「先生!」


 柊影は唸るような声を上げた。それでも、欧陽先生は話を止めない。


「貴妃様は、死んだ者のために生きているのではありません。……陛下、貴妃様を後宮へ招いた本当の理由は、雪華の御霊を鎮めるためなのでございましょう?」


 柊影は唇を噛み、険しい表情のまま何も言わなかった。


「その昔――」


 欧陽先生は唐突に話題を変えた。


「榛国はこのような大国となるために、大小様々な国を攻め滅ぼし、取り込んできたと言います。そしてその際、滅ぼされる国の王族は根絶やしにされたとか。後の憂いとなる禍根を断つためなのでしょうな。

 しかし、それは正確ではない。実際は史書に残らないだけで、王家の血を引く者を少なくとも一人、力を与えないようにしながら、あえて生かしてきたのです。それは何故か、陛下はご存知でしょうな」

「……ああ」


 欧陽先生の話がどこへ向かうのか、柊影は気付いていた。しかし、それをこのように暴かれるのはたまらない。


「死者の御霊を祀る最善の方法は、神官が祭祀を行うのでもなければ、方士が祈祷を捧げるのでもない。同じ血を受け継ぐ一族の末裔に祀らせることなのです。そうすることによって初めて、死者の御霊は安寧を得ることができ、生者は死者の怨恨に怯えなくてよくなるのです。

 滅んだ国の王族たちが、怨霊となって榛国に害をもたらすことを防ぐために、どうしても血を受け継ぐ一族の者が一人は必要だった。その者に一族を祀らせることで、榛国は怨嗟の鎖を断ち切って来たのです。

 陛下。……貴妃様は、謀反の際に一族全てを処罰された雪華の、遠い血縁にあたるのではありませんか?陛下が、弟君の墓参りに貴妃様を伴ったことは聞いています。それは、弟君の奥方であった雪華を貴妃様に祀らせるため、ですな?そして、雪華を祀ることができる娘を陛下のそばに留め置くには、後宮と言う場所はうってつけだった」


 しばしの沈黙の後、柊影はようやく頷いた。最早、隠し立てしても無意味だと悟っていた。


「雪華の一族は皆、処刑されるか国外追放となった。それは、先生もご存知でしょう?だから、彼女の魂の安寧を祈る者が、この国にはいなくなってしまったのです。

 それなのに……。もう六年も経つと言うのに、私の中から、彼女の影が消えないのです。――雪梨の散る、真っ白で無垢な世界の中で見た、美しい彼女の姿が」 

「……初恋とは、なんとも厄介なものですな」


 欧陽先生は先ほどの勢いを失い、ほろ苦く笑った。彼は、柊影が雪華を皇后にと望んでいたことを知っているのだ。そして、その思いを胸に秘めたまま、弟のために身を引いたことも。


「……まるで、今でも彼女の魂魄が、地上を彷徨っているように思えてなりませんでした。そしてそれは、彼女を祀る血縁の者がいないせいだと思ったのです。それ故に貴妃を――雪華の縁者を探しました」

「しかし、ならばなおさら、貴妃様をおそばに置くのはお辛いでしょうに。わしも、この目で貴妃様を見た時には驚きましたぞ。死んだ雪華が、生き返ったのではと」

「……そう、ですね。私も本当に驚いたのです。……雪華を祀ることができる人間を探して、ようやく見つけ出したのが、しがない田舎貴族の娘だった楊梨香でした。六年前の謀反の際に裁かれなかったことから考えても、貴妃と雪華は本当に遠い縁者なのでしょう。それなのに、まるで生き写しのように彼女は雪華に似ていたのだから、これが驚かずにいられるでしょうか。見えない意思のようなものさえ感じました」


 柊影は苦しそうに息を吐き出した。自分のしたことが間違っているとわかっていても、そうせざるを得なかった。独りよがりな考えだと知りつつも、それを選んだのだ。だからこそ、貴妃に本当のことを、死んでしまった者のために彼女の生を縛るのだということを、伝えることができなかった。


「……私は、貴妃に与えられるものは、何でも与えるつもりです。それが、私の身勝手な考えによって、何も知らずにここへ連れてこられた貴妃への償いです」

「陛下は貴妃様を、本当の妻になさろうとは思わないのですか?」

「その資格が、私にはありません。ただ彼女が傷つかず、安らかに生活できることを祈るだけです」


 柊影は力なく言って、眼を閉じた。瞼の裏では、雪華なのか、梨香なのかわからない娘が、朧気に微笑んでいた。



 

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