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気まずい、というのは、こういうことを言うのだと梨香は思った。
隣には、不機嫌そうに腕組みをしながら、禁軍兵たちの訓練を見つめる皇帝がいた。
欧陽先生はいない。彼は西瓜を食べに行くと言って、梨香を置いて素早く立ち去ってしまったのだ。しかも去り際に一言、「陛下が彼女を送り届けてくだされ」と言い置いて。
その言葉に、梨香と皇帝の二人は「は?」「え?」と同時に呟いて、固まった。
「……とにかく、そなたを送るのは、今すぐには無理だ」
相変わらずこちらを見ずに、皇帝が言う。言葉の端々に、面倒だと思っていることがはっきりと表れていた。
「……はい。訓練の途中にお邪魔した私が悪いのです。帰り道は覚えていますから、一人で――」
「ダメだ」
気を利かせたつもりで言った言葉は、すげなく却下される。
「では、どなたかを共に付けてください。陛下のお手を煩わせるわけには……」
「悪いが、そなたには私の手が空くのを待ってもらう。私が送らねば、あの狸じじいに後で何を言われるか分かったものじゃない」
「た、たぬき?」
梨香は思わず聞き返して、そのままクスリと笑っていた。
一見、老いた先生を馬鹿にしたような皇帝の言葉には、むしろ先生に対する率直な親しみが感じられたのだ。それが、梨香は何故か無性に嬉しかった。
皇帝は梨香の漏らした笑い声に、思わずといった感じで振り向いていた。しかし、その顔はバツが悪そうにすぐに逸らされる。
「訓練はあと半時もすれば終わる。それまで待っていろ」
「はい」
梨香が頷いたのを目端で確認した皇帝は、さっさと訓練中の兵たちのもとへ戻ってしまう。
訓練中なのだから仕方がないとは思いつつも、彼が離れてしまうことがどこか寂しい。
立ち去る皇帝の後ろ姿を梨香が眼で追っていると、不意に背後から男の声が聞こえた。
「あー、遅くなっちまった。しかも柊影がいるし」
皇帝の名を軽々しく呼び捨てにしたその声に、梨香は驚いて振り返っていた。
そこには、官服こそ着ていないが、一目で武官とわかる青年が立っていた。
青年は上背があり、鍛えられていることが一目瞭然のがっちりとした広い肩と、引き締まった筋肉のついた太い手足をしていた。無造作に結われた髷は青年の性格の荒さを物語り、顔に真一文字に走った刀傷と思われる傷は、彼が歴戦の猛者だいうことを窺わせた。
それなのに、青年がちっとも恐ろしくないのは、目じりに刻まれた笑い皺があるからだろうか。
青年はその皺のある目をつと細めて、梨香を見た。
「――これは。こんなところでお会いするとは」
彼は改まった口調になると、周りに気付かれぬよう、そっと梨香に礼をとる。
「貴女様にお会いするのは二度目なのですよ。覚えておいででしょうか?」
青年の言葉に、梨香は小さく首を傾げる。はて、どこで会ったのだろうか。そう考えていると、すぐに思い出した。
婚儀の日、皇帝の弟の墓参りから帰ってきた梨香たちを出迎えた者の中に、彼がいたのだ。彼には申し訳ないが、顔の傷が印象に残っていたのだ。
「確か、婚儀の日にお出迎えくださいましたね」
梨香の言葉に、青年は相好を崩した。
「覚えておいででしたか。これは嬉しいな。俺――じゃない、私は羽林軍大将軍を拝命しております、朱鷹翔と申します」
「どうか、そのようにかしこまらないでください。今の私はただの侍女、ということになっているのです」
苦笑する梨香のその服装を見て、鷹翔は察したようだ。人の良さそうな笑みを浮かべて頷いた。
「いやあ、そう言っていただけると有難い。俺は堅苦しいのはどうも苦手で」
目じりの皺を深くして笑う鷹翔につられるように、梨香も思わず微笑んでしまう。
「へえ。これは面白いな」
不意に鷹翔は声を上げたかと思うと、前方を注視した。その視線を訝しく思いながら梨香が辿れば、そこにはこちらを睨む皇帝がいた。
「鷹翔!遅いぞ!」
皇帝の声は冷やかで、周りの兵たちを怯ませるのに十分だった。ところが、梨香の隣に立つ大将軍は、全く意に介していない。
「はいはい、すみませんね」
そう謝りつつも、肩を竦めている鷹翔は全く悪びれる様子が無かった。
それどころか、大将軍を足止めしていたことを内心で焦る梨香とは対照的に、鷹翔は口笛まで吹いて何故か楽しそうだ。
「来たのなら、さっさと代われ」
冷気を感じさせながら皇帝がこちらにやってきて、鷹翔に訓練用の刃を潰した剣を押し付けた。
「ああ、もう。そう急かさなくてもわかってるって」
軽く口答えをしたあと、鷹翔は梨香を振り返った。
「また、機会があればお話しいたしましょう」
そう言うなり、鷹翔は梨香の手を取って、なんとその甲に軽く口づけを落としたのだ。
梨香は驚きのあまり体をびくりと震わせ、手を引き抜こうとした。だが、次の瞬間にはその手を別の手に掴まれた。皇帝が梨香の手を取ったのだ。そして、彼は梨香の手を引くと、梨香を庇うように背後に隠した。
「鷹翔、殺されたくなければ、さっさと仕事をしろ」
梨香からは皇帝の表情は窺えなかったが、その静かな怒りはひしひしと感じられた。
兵の誰かがヒッと息を飲む音が聞こえた。陛下はよほど恐ろしい顔をしているに違いない。氷の美貌というのだろうか、陛下は見目が良すぎるだけに、怒った時の表情も凄絶なのだろう。
それなのに、鷹翔と言う男は全く動じない。
「そんなに怒るなって。夏だってのに、吹雪が吹き荒れたみたいに寒気がするぞ」
「とっとと行け」
「はいはい。ほら、お前ら、休んでないで手を動かせよー」
大声を上げて鷹翔は兵たちのもとへ行ってしまった。
「陛下、申し訳ありません」
広く逞しい背中に声をかけると、皇帝は掴んでいた梨香の手を離し、振り返った。
「そなたのせいではない。それどころか、不快な思いをさせたのなら済まない」
皇帝は、鷹翔に口づけられた手を梨香がとっさに引いたことに気付いていたようだ。
「……いえ」
恥ずかしさのあまり俯く梨香に、皇帝は「送っていこう」と静かに告げた。




