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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第二章
16/67

1-4

 欧陽先生に教わるようになってから、一日一日があっという間に過ぎるようになった。

 知識とは、知っても知っても先があり、果てが無いものだった。そしてそれが面白いと、梨香は思っていた。

 毎日やるべきことがあるというのは、忙しくて疲れる。けれど、余計なことを考えている暇がないのは有難かった。

 ふとした瞬間に、このままでいいのだろうかと思うことがあるのだ。自分の前に広がる「将来」という名の時間が、ひどく空虚で茫漠としていて、それが恐ろしくてたまらない。

 けれど、忙しさに日々を費やしていると、不安という感覚を知覚する感覚器が麻痺するのか、考えに耽る時間は睡眠に取って代わられ、不安を感じている暇は無い。

 遠い将来を考えないのは逃げなのかもしれない。けれど日々やるべきことをこなすだけで精いっぱいの梨香は、焦らずにできることをしていくつもりだった。


 

 季節は盛夏を迎えていた。蝉の鳴き声が、じわりじわりと染み込むように庭から聞こえてくる。

 欧陽先生はお歳のせいか、夏の暑さに辟易していた。


「……暑いのう」


 冷茶を啜りながら零す言葉には、うんざりとした様子がありありと浮かんでいる。


「……本当に暑い」


 その様子に梨香はクスリと笑う。


「先生、冷茶をもう一杯いかがですか?」

「おお、ありがとうございます」


 先生は梨香が注いだお茶を一気に飲み干した。


「しかし暑い。こう暑くては勉強する気も起きませんな。今日は休講にして、ぶらぶらと城内を散策して、それから西瓜でも食べましょうぞ」

 

 そう言うなり、すくっと立ち上がった欧陽先生は、先ほどまでとは打って変わって意気揚々と講義部屋を出ていこうとする。梨香は慌ててその背に声をかけた。


「先生、私は勉強のために後宮を出ることを許されていますが、城内を歩き回るわけには――」

「固いの。貴妃様はお若いと言うのに。まるで誰かさんのようじゃ」


 欧陽先生は遠い目で、皇帝陛下を思い出していた。しかし、そんなこととはつゆ知らず、梨香は困惑していた。


「か、固いでしょうか?」

「ふむ。勉強勉強と詰め込むことも大切ですが、たまの息抜きも大切ですぞ。それほど気になるようでしたら、そちらの侍女と服を交換しなされ」


 思ってもみなかった欧陽先生の提案に、梨香は驚いて煌娟と顔を見合わせた。だが、煌娟の方がすぐに状況を飲み込んで、梨香を誰もいない書庫に連れて行く。


「こ、煌娟!ダメよ、こんなことをしては」

「大丈夫ですよ。欧陽太師がいらっしゃるのですから、問題ありません」


 そう言いながら、煌娟は梨香の衣よりもはるかに簡素な侍女のお仕着せの服を脱ぎ始める。後宮と書庫の往復で日々を費やす貴妃に、少しは違う景色を見せてやりたいと日ごろから思っていたのだ。

 そのため、煌娟は戸惑う梨香をどうにか説得して、着替えさせた。

 侍女の服に着替えている間に、梨香も徐々にドキドキし始めた。もしかしたら、ずっと諦めていた後宮の外の世界を垣間見ることができるかもしれないのだ。


「煌娟、変ではないかしら」


 服を着替え終えた時には意外とその気になっていた梨香に、煌娟は笑いながら相槌を打った。


「変ではないのですが、これほど見目の良い侍女もおりませんね。そうだ、少しだけ髪型を変えてみたらいいかもしれません」


 煌娟はさっと手を伸ばすと、あっという間に梨香の髪型をきっちりとした女官らしい結い方に変えた。内心では、髪型を変えたところで、この若い貴妃の内面から溢れる輝きを押さえることなどできはしないと、確信していたが。

 

「さあ、できましたよ」


 煌娟の言葉に、梨香ははにかみながら「ありがとう」と礼を言った。

 そうして二人はいそいそと欧陽先生のもとにもどった。

 先生は梨香を見ると眼を細め、愉快そうに笑った。


「うむ、これならば外朝へ行っても問題ありますまい」

「外朝ですか?そんな遠くまで」

「そうですとも。外朝なれば、これまで貴妃様が学んでこられたこの国の行政を、肌に感じることができましょう。では参りましょうか」


 欧陽先生は暑さなどすっかり吹き飛んだ様子で、揚々と歩き出したのだった。 




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