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書庫を後にした梨香は、煌娟を引き連れて白遥宮へと向かっていた。明日から本格的に授業を始めると言った欧陽先生の言葉に胸を躍らせながら。
手には一冊の本があった。書庫から借りてきた榛国の史書だ。
書庫の本は歴代皇帝が集めた蔵書で、皇帝の収蔵品だけあって内容は充実しているという。貴重書も多いと欧陽先生が仰っていた。
内廷に出入りする者ならば、誰でも自由に書庫の本を借りられるということだった。皇帝が皆に開放しているのだそうだ。
けれどその割には本に手が付けられた形跡が無い。それを梨香が指摘すれば、欧陽先生も頷いた。
「外朝の図書室の方が蔵書が多く内容も充実しているゆえ、皆そちらに行ってしまうのでしょうな」
梨香はその言葉に驚いた。この書庫でも十分に本が揃えられていると思っていたのに、外朝の図書室はそれ以上だと言うのだから、驚かずにはおれまい。それに、人に読まれない本がもったいないような気がしてしまい、せっかくだからと借りてきたのだ。
本を借りたいと梨香が言えば、陛下からお許しが出ているから好きなだけ借りるといいと、欧陽先生から言われた。
皇帝は、梨香も自由に本を借りられるように取り計らってくれたようだ。
梨香は本の虫とまではいかないものの、読書が好きだった。それ故に、有難く借りることにしたのだ。
梨香が白遥宮へ戻る途中、庭で他の後宮の住人に出会った。昭媛の位を賜った李家の娘だった。
華やかな青い襦裙姿の李昭媛は、門下侍郎の娘であり、名門李家の出身である。こちらに気が付くと、李昭媛は小ばかにしたような笑みを浮かべた。
「これは貴妃様、お散歩ですか?」
本来ならば自分よりも位が高い梨香に礼を取り、脇に避けるのが作法であるのに、李昭媛は脇に避けるどころか、礼すらとらなかった。
「昭媛様、無礼ですよ」
梨香付きの侍女である煌娟が窘めると、侍女は黙っていなさいと李昭媛が煌娟を叱った。それでも煌娟は何か言おうとしたが、梨香は侍女を庇うようにそっと前に出た。
「昭媛様、ご機嫌いかがですか?」
「ええ、よろしくてよ。貴妃様はいかが?貴妃様はお身体が丈夫でないとお聞きしておりますが」
李昭媛の言葉に、梨香は目を瞠った。しかし、すぐになんでも無いというように微笑む。
「お気遣いくださるのですか?ありがとうございます」
「そうですわ。お身体が弱ければ、健やかな赤子を生むこともできないでしょう?きっと陛下もそうお考えになったのね。まあ、貴女にとっては本当にお可哀想なお話だけど」
李昭媛の言葉に、彼女の取り巻きの侍女たちが声を上げて笑った。暗に、梨香のもとへ皇帝が訪れないことを揶揄しているのだ。同時に、女として失格だと言われているようで、梨香は内心ではひどく傷ついていた。しかしそれを悟られないように気丈に振る舞う。
お飾りの貴妃といっても、その品位を貶めないだけの努力が必要だった。そして、お飾りではない貴妃になるには、それ以上のものが必要なのだ。
「陛下はお優しい方ですから、私を気遣ってくださるのでしょう」
梨香が微笑めば、李昭媛は息を飲んだ。まさか切り返されるとは思ってもみなかったのだろう。その顔はさっと紅潮し、忌々しそうにこちらを睨んでくる。
「ふん、強がりは見苦しくてよ。あなたは陛下がどれほど冷徹な方かご存じないようね。陛下が気遣うなんてこと、決して無いわ。あの方は、気に食わない者ならば、例え実の弟でも容赦なく殺してしまう方なのよ」
梨香は李昭媛の言葉に何故か憤りを覚えた。そう言えば、と梨香は思い出した。後宮に上がった最初の日に、陛下を冷徹だと言った嬪の一人が、この李昭媛だったのだ。
「いくら貴妃の位を頂いたからと言って、本来なら陛下のおそばに上がることすら憚られるような田舎娘が、いい気にならないことね。あなたはたった一日で寵を失った、哀れな貴妃なのだから」
無言になった梨香をみて、李昭媛は気を取り直したように高らかに笑うと、取り巻きを引き連れて去って行った。
もうすっかり馴染みになった嫌味な言葉だった。そこここで囁かれる「哀れな貴妃」という言葉に、初めの頃はそれこそ外へ出るのでさえ嫌になった。でも、もう頑張ると決めたのだ。決めたからには乗り越えていくしかない。
「私たちも戻りましょう」
梨香が苦笑交じりに言って歩き出すと、煌娟が「貴妃様」と声をかける。
「なあに?」
梨香が振り返ると、煌娟が優しく笑っていた。
「煌娟?」
「貴妃様、お強くなられましたね」
「そうかしら?」
梨香はくすぐったくなって、手にしていた本で顔を隠した。
「煌娟、あのね、聞いてほしいのことがあるの。私はまだまだ至らないところが多くて、そのせいで先ほどのように、あなたたち侍女も周りから詮無いことを言われて嫌な思いをすると思う。でも、それでも厭わずに私を支えて欲しいの。私も、これからいっぱい勉強して、陛下に認めてもらえるような立派な貴妃になってみせるから。だからどうか、お願いします」
梨香が頭を下げると、煌娟は慌てて頭を上げさせた。
「もったいないお言葉です。私たちは貴妃様にお仕えできることを幸せと思いこそすれ、厭うことなどありえません。さあ、もうこんなところで立ち話をせずに、お部屋に戻ってお茶にしましょう。貴妃様のお好きな梨茶をお入れしますわ」
「ありがとう」
二人は李昭媛に会う前のように、何事も無かったかのように穏やかに歩き出した。




