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第二章です。
梨香はぼんやりと外の景色を眺めていた。窓の外には、初夏の風に揺れる緑が広がっている。
婚姻の儀から、すでに一月が経っていた。
皇帝は、あの晩の言葉を忠実に守るように、二度と梨香のもとを訪れることは無かった。
『そなたと取引がしたい』
何でもないふとした瞬間に、梨香の意識はあの婚儀の晩に戻ってしまう。
あの日、初夜がどのようなものかを女官長から事前に聞かされていた梨香は、不安に押しつぶされそうになりながら、皇帝が訪れるのを待っていた。
ところが、やってきた皇帝は梨香を抱くこともなく、淡々と「取引をしたい」と告げたのだ。
彼が梨香に望むのはただ一つ、お飾りの貴妃として、この後宮で大人しく生活することだった。その代り、と彼は言った。梨香に手を出すことはないし、服でも、宝石でも、なんでも欲しいものを好きなだけ与えようと。
『愛や情と言ったくだらぬものでなければ、なんでも望むがよい』
そう言う皇帝の口調は心が凍えそうなほどに冷たく、距離を感じさせるものだった。それなのに、その瞳がひどく傷ついたものに見えたのは気のせいだろうか。
だから梨香は何も言えなかった。皇帝が恐ろしいからではなく、彼に何を言えばいいのかわからなかったのだ。これではまるで言葉を知らぬ亀のようではないか。
皇帝は梨香の無言を返事と受け取り、自嘲めいた笑いを零した。
『今すぐには決められぬだろう。何かあれば、そなたの侍女に言うがよい』
皇帝はそのまま居室を後にした。静まり返った部屋の中、取り残された梨香の頬を、知らず涙が伝っていた。何が悲しいのかわからなかったが、涙は留まることが無かった。
「――貴妃様」
ぼんやりとした視線をそのまま声の方に向けると、煌娟が心配そうにこちらを見ていた。
初夜から一転、皇帝が一度も足を運ばなくなったことは、もはや後宮中に知れ渡っていた。しかし、初夜の晩に何があったのかを知る者は一人もいない。それ故に、やたらな憶測が飛び交い、梨香付きの侍女たちは皆、梨香を案じているのだ。これでは本当に嬪や貴族の牽制になるのかも怪しいところだ。
「貴妃様、顔色が優れませんわ。お休みになられた方がよろしいのでは」
「……大丈夫よ。ありがとう」
梨香は心配させまいと、どうにか微笑んだ。それがなおさら痛々しいのだと自身では気付かぬまま。
「では、何かお飲み物をお持ちいたしましょう」
「そうね。そうしてくれるかしら」
「かしこまりました」
煌娟は一礼して下がっていった。
煌娟を見送りながら、梨香は、自分はまだ笑えるのだと思った。
梨香を政の道具のように言う皇帝の言葉に深く傷ついたのは事実で、これから何のために生きていくのかもわからなくなってしまった。けれど、それでも、皇帝のあの悲しいほどに冷たい瞳を思えば、自分よりも彼の方が傷ついているのではないかと思ってしまう。
どうして、たった一日しか会っていない男のことが、これほど気になるのだろうか。
きっと、彼が不器用な人だと、そのたった一日で気付いてしまったからだ。
足が遅いことを梨香が詫びれば、気の利かない自分に呆れていたのだと言いながら手を取ってくれ、梨香が馬に怯えれば、心配させまいとその広い胸に抱きとめてくれる。
謀反を起こしたと言う弟のために、彼は何度あの場所へ墓参りに行ったのだろう。六年も前に亡くなった人の墓があのようにきちんと維持されているのは、彼が人知れず通い、手入れをしているからに他ならないのだ。
「貴妃様、お茶をお持ちいたしました」
煌娟が梨香の物思いを遮るように、容れたての茶を差し出した。ふわりと香る甘い香りで、それが梨茶だと容易にわかる。
「ありがとう」
茶杯を受け取り口をつけると、まるで労わるかのように梨茶が甘く潤してくれる。
皇帝がこのお茶をさほど好きではないと言ったとき、何となく、梨香は自分を梨茶に重ねていた。梨茶には梨香と同じ「梨」の一字があるからだろうか。甘い茶が嫌いなように、彼は考えが甘い小娘も好きではないのだろう。
(もっとしっかりとした人間だったら、陛下は少しでも信頼してくださるのだろうか。女として見られずとも、ともに生涯を歩む相方として、僅かでも心を許してくださるだろうか。
陛下の瞳がこちらを見つめることがなくてもいい。でもせめて、あの方の瞳が見つめるこの国の行き先を、あの方と同じものを、ともに見つめることを許してほしい)
そこまで考えてようやく、梨香はそれこそが自分が皇帝に望むことなのだと気付いた。
しかし、愛や情をくだらないと言った皇帝に、梨香の望むものを与えて貰うことは、とても難しいように思える。
きっと、まずはこちらがもっと成長しなければならないのだ。皇帝の信を得たいのなら、信ずるに足る人間にならなければいけない。
それならば、できることから少しずつ始めていくしかない。
「煌娟」
梨香は侍女を呼んだ。さっきまで曇っていた心は、今は不思議なほど晴れ渡っていた。
「はい、貴妃様」
「陛下は私に、欲しいものがあればなんでも与えると仰ってくださいました。欲しいものがあれば、あなたに言づけるように言われています」
「そのように仰せつかっております」
「煌娟。私は、先生が欲しいのです」
「先生、ですか?なんの先生でしょう?」
「この国の政や歴史、地理、そう言った諸々にお詳しい方を、先生として付けてくださるように頼んでください」
「承りました」
「それから、本も沢山読みたいのです」
「わかりました。それも一緒にお伝えいたします」
「ありがとう。よろしくね」
梨香が相好を崩すと、煌娟もつられたように朗らかに笑った。
自分がどれだけ勉強したところで、それを活かせる場所など無いのかもしれない、と梨香は思う。それでも、彼が何を考えているのか少しずつ知っていけたらいいと思った。




