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三度目の家庭教師(後編)

「絶対あやしい!!」

 ジークの向かいに座るアンジェリカは、思いきり眉をひそめて力説した。白いテーブルの上で、小さなこぶしをぎゅっと握りしめている。その前に置かれた紅茶の水面には、小さく細波が立っていた。

「二人とも幸せそうな顔して、まったりお茶なんか飲んで……魔導の訓練とか言ってるけど、本当だかわかったものじゃないわ」

 ジークは休憩時間にアンジェリカに会いに行ったのだが、なぜか、彼女はわざわざこの王宮内の喫茶店へジークを連れて来た。いつもはアカデミーの仕事部屋でお茶をするのに、いったいどうしたのかと思ったが、理由は彼女の話を聞いてすぐにわかった。サイラスもいるあの部屋で、こんな他言無用の話をするわけにはいかなかったのだろう。ただ、ここに他の客はいないが、カウンター内の店員が少し気にしてそうな素振りを見せている。興奮しきっているアンジェリカは気付いていないようだが——。

「落ち着けよ」

「ジークは他人事だから落ち着いていられるのよ!」

 とりあえず宥めようとしたジークに、彼女は間髪入れずに切り返す。ジークにとって「他人事」と言われたことは甚だ不本意だが、今はそれを議論するときではない。感情をぐっと抑えて言葉を繋ぐ。

「そうじゃねぇよ。レイチェルさんのことを信用してるんだって。おまえ、自分の母親だろ?」

 アンジェリカの顔に翳りが落ちた。複雑な表情を見せながら、それでも強気を失うことなく言い募る。

「そうだけど、あの二人には前科があるんだから」

「前科、ねぇ……」

 その前科でおまえが生まれたんだけど、とジークは思ったが、もちろん口が裂けてもそんなことは言えない。カウンター内の店員に聞こえたか気になったが、アンジェリカが声のトーンを落としたので、離れたところにいる彼には届いていないようだ。ジークはさらに声をひそめて尋ねる。

「でも、サイファさんは二人を信用してるんだろ?」

「お父さんは甘いのよ。現に一度寝取られてるじゃない」

「……おまえ、そんな言葉どこで覚えてくるんだよ」

 ジークは深く溜息を落とすと、テーブルに肘をついて額を押さえる。

「ああ、もうっ! こうしている間にもお母さんたちは密室で二人きりなのよ! 焼けぼっくいに火がついたらどうしてくれるの?! もしかしたらもう手遅れかもっ!!」

「心配しすぎだって」

 ジークがそう言っても、アンジェリカが落ち着くことはなかった。苛ついたように、眉を寄せて唇を噛みしめる。やがて、いてもたってもいられない様子で、バンと勢いよくテーブルに両手をついて立ち上がった。

「ジーク! 偵察にいくわよ!!」

「……へ?」

 目をぱちくりさせたジークの腕を、彼女は強引に掴み、引きずるようにして喫茶店をあとにする。テーブルに残した紅茶には、まだ口もつけていなかった。


 二人は王宮を抜け出し、ラグランジェ本家に向かう。アンジェリカはともかくとして、ジークはそろそろ仕事に戻らねばまずいのだが、とてもそんなことを言い出せる雰囲気ではない。

 アンジェリカは持っていた鍵を使い、重厚な扉を、ゆっくりと音を立てないように開いた。

「あら、お嬢様」

 気配に気付いて出てきた年配の家政婦が、不思議そうに声をかけた。が、アンジェリカが険しい顔で人差し指を唇に当てて見せると、彼女は慌てて口を閉じて片手で押さえる。

「行くわよ」

 アンジェリカは抑えた声でそう言い、ジークの腕を引っ張りながら屋敷に入る。ジークは気が進まなかったが、振り切って逃げるわけにもいかず、渋々ながら彼女に従って足を進めた。

 二人は抜き足差し足で、地下へ続く階段を下りていく。

「なあ、やっぱやめねぇか?」

「しっ! 静かに!」

 多分ダメだろうと思いつつ提案してみたが、やはり彼女はまったく聞く耳を持たない。ジークはもう諦めた。訓練の様子を聞いて、真面目にやっているとわかれば、それでアンジェリカも納得してくれるに違いない。

 階段を下りきったところに扉がある。だが、その前に立っても中の音は聞こえない。魔導の訓練場はたいてい防音になっているのだ。場所自体が狭いため、二人は身を寄せたまま、冷たい扉にそれぞれ片耳を押しつける。何だかんだいっても、ジークも完全に信じているわけではなく、真実を確かめたい気持ちは少なからずあった。


「始めましょうか」

 レイチェルの声だ。どうやらこれから訓練を始めるところらしい。アンジェリカは少しも聞き漏らすまいと、小さな口をきゅっと結び、ますます真剣な顔になって耳に神経を集中させる。

「やはり椅子だとやりづらい。今日からは床でやることにする」

 もうひとつの声は当然ラウルである。だが、話の内容がいまいち掴めず、ジークは僅かに眉を寄せた。

「えっ……でも冷たいわ」

「すぐにあたたかくなる」

 戸惑いを含んだレイチェルの声と、感情の窺えないラウルの声。

 どういう訓練をしようとしているのか、これだけではまだわからない。ジークには椅子を使った訓練など覚えがなかった。椅子ではやりづらいということなので、椅子を使うのは特殊な方法なのかもしれないが——。

「あっ、何も服を脱がなくても……」

 そのレイチェルの声に、ジークは全身の毛が逆立つのを感じた。胸元で耳を寄せるアンジェリカは、小さく息を呑み、大きく目を見開いて固まっている。杞憂だと思っていた彼女の懸念が、まさか現実になっているというのか?

「上に乗れ」

「……ええ」

 上に乗るって、何の上に乗るんだよ?!

 ジークの全身から汗が噴き出てきた。額にも、背中にも、握った手のひらにも、じわじわと気持ち悪い汗が滲んでくる。アンジェリカも全身をこわばらせているようだった。だが、ジークには掛ける言葉など見つからないし、そんな余裕すらなかった。

「いくぞ、力を抜け」

「だめぇええぇっ!!!」

 悲鳴のような絶叫を上げながら、アンジェリカは扉を乱暴に開いて、訓練場の中に飛び込んだ。扉に寄りかかっていたジークは、いきなりのことでバランスを崩して中に倒れ込む。

「二人ともやめて! どうしてこんな……え? あれ??」

 アンジェリカは困惑の声を漏らす。それにつられ、ジークもおそるおそる顔を上げる。

 そこにあった光景は、脳内で再生された映像とは似ても似つかないものだった。

 ラウルは上衣を脱いでいたものの、シャツとズボンは身につけている。レイチェルもまた服を着たまま、ラウルの上衣がひかれた床の上で正座をし、祈るように両手を組み合わせていた。その額にはラウルの右手が当てられている。

「……おまえら、何をしている」

「何って……えっと……」

 ラウルが怒りをたぎらせた目を向けると、アンジェリカは顔を火照らせたまま、迫力に気おされたように一歩後ずさった。彼女にしてはめずらしく、しどろもどろになっている。

「魔導力を引き出す訓練をしていたのよ」

 レイチェルは正座したままそう言い、小さく笑って肩をすくめた。その笑顔は、申し訳なさそうにも、困惑しているようにも、どこか寂しそうにも見える。ジークは耳元を赤らめたまま立ち上がり、レイチェルでなく、ラウルに向かって勢いよく噛みつく。

「紛らわしいんだよ!!」

「勝手に聞き耳を立て、勝手に誤解をしておきながら、随分な言い草だな」

 ラウルは迫力のある低い声でそう言い、ゆっくり腕を組むと、ジークたちを凍りつくような眼差しで睨み下ろした。二人は顔をこわばらせて身をすくませる。

「ごめんなさい、私、ちょっと心配だったの……」

 アンジェリカはしおらしく言って、しゅんとうなだれた。ちょっとどころじゃなかったけど、とジークは思ったが、あえてこの場を掻き回すようなことは口にしない。

 ラウルはじっと二人を見下ろしていたが、やがて小さく溜息を落とした。

「私は一家庭教師としてここへ来ている。それ以上でも以下でもない。レイチェルがそう望むからだ。アンジェリカ、おまえが心配するようなことは一切ないし、今後もないと誓う。おまえが不快に思うなら、訓練後のお茶はやめてもいい」

 ジークがちらりとレイチェルを窺うと、彼女は微笑を湛えたまま頷いて見せた。何の迷いもなく頷けるのは、ラウルの言ったことが事実であり、そして何よりアンジェリカを大切に思っているからだろう。ラウルの言葉が嘘になることはない——彼女を見ていると、そう信じていいような気がした。

 アンジェリカは胸元に手を当てて口を引き結び、そしてゆっくりと顔を上げた。

「ごめんなさい、私、ラウルのことを信じるわ。だからお茶は飲んでいって。お父さんがタダ働きさせているみたいだし、お母さんとのお茶がせめてもの報酬ってことで……でも、お茶までにしてね?」

 そう言って悪戯っぽく小首を傾げる。

 ラウルは面食らったように目を大きくし、それから深く溜息をついた。

「おまえ……サイファと言うことが同じだな。呆れるくらいよく似た親子だ」

 今後はアンジェリカがきょとんとした。が、すぐに満面の笑みを浮かべると、肩にかかる黒髪をさらりと揺らし、屈託なく力いっぱい頷いた。

「二人とも仕事をサボって来たんだろう。早く戻れ」

「おまえには関係ねぇだろ!」

 ラウルに命令されると、ジークは無条件に反発したくなる。だが、もう休憩時間は終わっており、本当に早く戻らないと大変なことになるかもしれない。慌ててアンジェリカの手を引き、訓練場をあとにしようとする。が、扉に手を掛けたところで、ふいにその手を止めた。

「俺は二人を信じることにする。けど、もしアンジェリカを傷つけるような真似をしたら、そのときは絶対に許さないから」

 たいした力を持たないジークが言ったところで、あまり意味はないかもしれないが、それでも釘を刺しておかないと気が済まなかった。呆気にとられたアンジェリカの手を握り直すと、返事も待たず、わざと乱暴に扉を開いて階段を駆け上っていく。その途中で、彼女はくすっと小さく笑い、そっと力をこめてジークの手を握り返した。

 地上からは、二人を導くかのように眩い光が射し込んでいた。


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