第三十二章:親の「メンタル・お手上げ」をデバッグする
療育の待合室。真依は、他の子がお母さんと楽しそうに絵本を読んでいる姿を、遠くからじっと見つめていた。そのお母さんは、自分の子が椅子に座れない時も、ニコニコと笑って「また後で座ろうね」と優しく声をかけている。
(……それに比べて、私は。毎日玄関で裕太と格闘して、怒鳴り散らして、最後は泣き叫ぶ裕太を抱きしめて私も泣いて……。私はなんてダメな母親なんだろう)
真依の目から、こぼれ落ちそうになる涙。自分の中の「理想の母親像」というプログラムが、現実の裕太との生活とのあまりの乖離に、システムエラーを起こしていた。
そんな真依の肩を、大きな手がポンと叩いた。美佐子ばあちゃんさね。
「ガハハ! 真依さん、あんた今、自分の心に『バツ印』をつけてるだろう?」
「……ばあちゃん。私、裕太に怒ってばかりで。他のママたちみたいに、余裕なんて持てなくて……」
美佐子ばあちゃんは、真依の顔をグイと覗き込んだ。
「他のママたち? あんたが見ているその『余裕』は、ただの『その瞬間の切り抜き』さね。みんな、あんたと同じように、家では髪を振り乱して戦ってるのさ! それを外で見せないだけのこと。それを『理想』だなんて思い込んで、自分を追い詰める必要なんて、これっぽっちもない!」
美佐子ばあちゃんは、療育施設を指さした。
「そもそもね、ここに来ているのは『完璧な母親』になるためじゃない。裕太くんと、あんたが、『今の二人にとって一番楽な生き方』を見つけるための場所さね。玄関で怒鳴った? それはあんたが、裕太くんの命を全力で守ろうと必死だった証拠さ! それの何がダメなんだい?」
「あんたが泣いてしまうのは、それだけ本気でこの子と向き合っているからだよ。冷たい人間は、そもそもこんなに悩まない。あんたのその涙は、立派な『母の勲章』さね!」
純一パパも、真依の横に座って優しく言った。
「真依。僕も一緒に悩むよ。君一人で背負うことなんて何もない。僕たち親だって、毎日アップデート中の『初心者』なんだから」
真依は、張り詰めていた心が音を立てて崩れるのを感じた。でも、それは壊れたのではなく、「無理をして自分を鎧で固めていた」場所が、ようやく外れた音だった。
「私、裕太と、もっと泥臭く生きていこう……」
「ガハハ! その意気よ! 完璧な母親なんて、AIにでも任せておけばいいのさ! あんたは裕太くんのお母さん。世界でたった一人、この子のドロドロの感情も、叫び声も、全部受け止められる唯一の存在なんだよ! さあ、胸を張りな! 大極楽のハグを!!!」
美佐子ばあちゃんの笑い声が、待合室を温かく包み込む。
真依は、自分と裕太の姿を鏡に映した。目は腫れているかもしれない。でも、その瞳は、さっきまでよりもずっと深く、裕太という存在を映し出していた。




