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初恋

作者: 響戸桃

おや、わざわざこんな牢にまでいらして下さるとは、さすがは《《元》》当主様、お優しいこと。

お酒、頂いてよろしいので?

ええ、ありがとうございます。あなたも飲みます?…え、いい?ああ、仏門に入られた身でしたね。失礼しました。

わたしとあなたもずいぶん長い付き合いになったものですね。

実はあなたはずっとわたしのあこがれだったのですよ。…ふふっ、やはりお気づきでなかったようで。

今夜はわたしとあなたの最初で最後の夜ですし、少し語らうのもようございますね。

 初めて会ったのは、まだあなたが赤子のときでした。わたしもまだほんの子供で、父に連れられた祝いの席で、ご当主の腕に抱かれたあなたを皆が囲んでいるのをぼんやりと眺めていました。


 次に会ったのは、あなたとわたしの縁談が持ち上がったときでした。

 齢十を過ぎたあなたはたいそう美しくなっておりました。ああこの家系は美形揃いだったな、と一人合点したほどでした。

 わたしの家も遡れば天下一の美女と繋がるのに不公平なものと思いましたよ。…恥ずかしながら、今でさえ少し思っております


 見合いの席でわたしに向けた不機嫌そうな顔さえ芸術品のように美しく、つい無遠慮に見つめてしまいました。それでさらに歪んだあなたの顔をわたしは未だに忘れられないのです。


 そう、これがわたしのあこがれの始まりです。


 しかし今思うと、それより前、あなたが弓矢の稽古をするのを見かけたとき、その時からあこがれていたような気もいたします。

 わたし、男らしい方が好みですから。…趣味が悪いだなんて、酷い方。


 その後、あなたはわたしとの縁談を二度、拒絶しました。


 普通二度も断われたら引き下がるものですが、我が父はどうやらそうでなかったようで、今川の太守様のめいまでとってきて、三度目の縁談を申し込みました。

 ああ、でも当然かもしれませんね。もともと決まっていたあなたの許婚を追いやってまでして作った機会なのですから。…何か不愉快な事でも?


 わたしは父の権力欲に少し辟易しましたが、目的は一緒です。あなたと一緒になれるならと、むしろ喜んで協力していました。


 …ええ、仰せのとおりです。三度目の顔合わせの最中、あなたは寺に駆け込み、出家なさいました。


 …謝らないでください。流石にもう根に持ってはいませんよ。


 あなたが寺に入ってからは、なにかと理由をつけて会いに行くようになりました。当主の子より、寺の法師に会うほうがはるかに簡単でした。

 初め、私はあなたと会って話ができる、それだけで十分満足していたのです。あなたは嫌がらせだと思っていたようですが。

 髪を下ろしたあなたもそれはそれは美しかった…。

 それに、領民には決して見せないであろう冷たい顔をわたしだけに見せて下さる、これ以上の幸福がございましょうか。


 しかし、欲というのは満たされれば満たされるほど大きくなるものでございます。

 あなたをわたしのものにしたいと思うまで、あまり時間は掛かりませんでした。


 ええ、それにはあの元許婚が邪魔でした。

 はい、確かにあの方はすでに他の方と結ばれていました。でも、あの方がいる限りあなたは寺から出てはくれなかったでしょう?


 しかし、わたしはあなたのように武芸に秀でてはおりません。直接殺すなど不可能でございました。

 それで、わたしはそっと機会を伺いました。

 ああ、謀に優れた父の血を引いたことがこれほどうれしかったことはありません。

 そうして案の定、あの方は早々に尻尾を出しました。裏切りです。わたしはそれを密かに今川の当主に伝えました。

 ご存知の通り、そうしてあの方はまだ幼い息子を置いて死にました。


 わたしは明日、その咎で極刑に処されるのでしたね。


 ああ、そこまでしたのに、あなたはなかなか寺から出てはくれませんでした。まずは還俗してくださらないとわたしも手の出しようがありませんでしたのに…。


 ですから、あなたの曽祖父が殺されてとき、あなたが還俗されて本当に、安心いたしました。もしあなたではなくて、和尚であるあなたの大伯父が還俗して当主になられたりしたらどうしようかと思っていたのですよ。

 そうしたらあとはあなたを追い込んで当主の座から引きずり下ろし、わたしのものにしてしまおう、そう謀を立てたのです。


 しかし、流石と言うべきかあなたはしぶとかった。縁戚や手駒を全て使っても、なかなか堪えてくれない。


 やっと引きずり下ろせたその時には、あなたをわたしのものにする余裕などなくなっていたのでございます。

 これはわたしの生涯で一番の失敗で誤算で御座いましょう。


 あっという間に、武田や徳川がここに攻め込みました。徳川はわたしを罪人として捕らえました。

 わたしは同僚たちに嫌われていたのでしょうね、当然ですが。

 そうして、今わたしは牢のなか、刑に処されるのを待っているというわけです。

 ああ、最後のさいごにあなたに会うことができるとは、わたしはなんという果報者でしょう。


 え?もちろん、あなたの元許婚を殺したこと、悔いておりません。

 身内の裏切りを報告するのは褒められたことではありませんが、間違ったことではないと自負しております。まして決して讒言ではありません。裏切りは事実でした。


 ならばなぜ弁明をしないのか?つまらぬことを聞きますね。

 あなたはわたしのものにならなかった。なら、あなたの印象に少しでも強く残るように死にたい、そう思ったのでございます。

 それで息子二人を巻き込むことになってしまいましたが、致し方ないでしょう。


 命乞い?いりません。


 第一、不可能でしょう、今のあなたでは。ねえ、次郎殿。

 …ああいや、今は祐円尼殿でしたか。

 筆頭家老から罪人になったわたし、井伊家当主からただの尼になったあなた。

 程度は違えどお互い落ちぶれたものですね。

 その牢では井伊次郎直虎と名乗っていた尼と小野但馬守道好だった罪人が内格子を挟んで向かい合っていた。 

(今更、なんだというのだろう。)

 尼は自分の部下で敵だった、慇懃無礼で女々しい男を見下ろした。

「そうだな、お前の言う通りだ。私もお前も、もはや権力など持ってはいない。対等に話そうじゃないか。」

 罪人は驚いたように尼を見つめた。汚れた顔の中には勝ち誇るような表情があった。

「お前は私にあこがれていたのだといったな。うれしいことだ。私もお前にあこがれていた。確かにお前は武士だというのに武功を立てたことは一度もなかった。しかし、交渉や内政は家臣の中の誰よりもそつなくこなした。そこは私も尊敬していたし、ああならなくてはとあこがれていたよ。」 


 尼は罪人から酒の入れていた瓢箪を受け取ると、屈んで罪人と目線を合わせた。

 そして尼は領民に向けるよりも優しい、慈愛の籠もった笑みを浮かべた。 

 しかし、罪人はこけた頬を恐怖に引き攣らせる。それは罪人の見たことない顔だった。


「でも、私はお前が嫌いだ。きっと他の誰よりも」

 そう言うと尼は踵を返した。


 牢には罪人と、静寂だけが残った。

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