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蜂蜜と薫衣草

作者: 詠夜 月


 /蝶・papillon


 昔から可愛らしいものが好きだった。厳密に言えば、可愛らしいもの“も”好きだった。

今の時代、男らしい、女らしいという言葉が、まるで悪しきものかのように語られているが、僕はそうは思わない。男らしい、女らしいという指標は、現実として存在しているのだから、それを欺瞞することに意味はない。むしろ、それを悪し様に語るのは、安い責任逃避だろう。


 僕は男らしいものも好きだったし、女らしいものも好きだった。僕は戦隊ヒーローに憧れたし、魔法少女にも憧れた。本質的なものと形骸的なもの。その両方を、共に好きだった。それでも、嗜好が徐々に“女性らしい”ものに寄ったのは、周りの否定に対する反発からだったのだろうか?


 僕は自分がひねくれものだという自覚がある。幼子だったときから、ずっとそうだ。だから、親や周りの子は、僕の不規則な嗜好や言動を、初めは子供特有の天邪鬼のようなものだと気にしていなかった。それでも。時間の流れと共に、次第に、“そうじゃない”と親は気付いた。


 ここで一つ、両親の名誉の為に弁明しておくと。僕の両親は極めて寛大でむしろ、当時の人間としては、先進的な思考を持っていて、善良だった。そして、その善良さと聡明さ故に、僕と両親は分かり合えなかったのだ。


 別に。僕は、女の子になりたいわけではないのだ。男でいるのが嫌なわけでもない。強いて言うのであれば。僕はそのどちらでも居た“くない”。


 両親の言い分は、分かるのだ。今思い返しても、父も母も、何も間違っていない。だから、いつも心の中で謝っている。善良な戒め。健やかなる束縛。道徳。倫理。誠実さ。硝子の櫃。親という存在の、なんて報われないことか。


 母は兎も角。父には一層の謝罪を。社会のアバターとして、斯く在れかしと要請される、決して報われることのない断罪のシステムである貴方に。貴方だけが、真実、誠実に僕のことを想っていたのを、知っています。僕の半分、肉親にして、他人である貴方に祈りを。全ての娘と息子の、最初の想い人である貴方が報われますように!


 *


 肌寒いある日、ジャングルジムの横、幼稚園の塀の傍、積もった落ち葉を引っ繰り返して、ダンゴムシを探しながら、僕達は寄り添っていた。落ち葉が積もるような時分だと言うのに、僕たちは互いに半袖半ズボンで、白い太腿を触れ合わせていた。僕はダンゴムシが嫌いだったので、彼の手を握り締めて、半分身を引いていたけれど。


 どうして子供はダンゴムシが好きなのだろう。哀れな小さな命よ。幼さ故の無頓着に翻弄され死した命よ。どうか赦してほしい。僕達も、お前達と同じように小さな命だったのだから。そして、僕達も、お前達と同じように、より大きな命の無頓着さに翻弄されていたのだから。違いと言えば、死んだか生きたかだけなのだ。ポケットの中で干からびるか、潰されるか。それとも。這い出た先のアスファルトの上で。一人孤独に死に絶えるのか。僕達も同じようなものだった。


 僕もダンゴムシであったなら。どれだけよかったことだろう。ポケットの中で息絶えるとしても。きっと幸福だったに違いない。その指先で摘ままれて、持ち上げられたなら。


 ダンゴムシ! と。良く通る声が、透き通る空気を震わせ、白い吐息が、消えていく情景を今でも覚えている。落ち葉と土の匂い。汚れた指先。汚れた運動靴。汚れた靴下。赤らんだ頬と、土の欠片。そしてダンゴムシ。サビて塗装が剥がれかけていたジャングルジムの破片をむしり取って、手の中で潰しながら、彼が僕の方を向くのを待っていた。


彼の手と僕の手を一緒のポケットに入れて暖が取れたあの時を懐かしむ。ああ、ダンゴムシは遠慮しておくよ。それは筆箱に仕舞っておくれ。カマキリの卵と一緒に。


彼は何時でも、幼き小君主だった。人気者で、優しくて。紙飛行機を折るのが一番上手かった。彼はいつも僕に紙飛行機を下賜してくれた。筆箱の中から小さなカマキリが溢れ出して大騒ぎになったことなど些細な問題だったとも。その証拠に、彼はいつも女の子たちから、白い花の冠を戴冠していた。そして僕は、必死に運動場を駆けまわって、青い花輪を編んで──は難しかったから、白詰草の花輪に、青い小さな花を挿して彼に渡した。


ああ、君は覚えているだろうか。忘れているだろうか。青い花が好きだと君が言ったから。僕だけがそれを知っていたから。君は花輪についていたダンゴムシの方が嬉しかっただろうけど。


 *


 小学校に上がってからも。僕と彼は同じ時間を共にしていた。彼は、小学三年生辺りから、背が伸び始めたけれど、僕はあまり背が伸びなかった。それが良い事だったのか、悪い事だったのか、一概に言うことは出来ない。どちらかといえば、悪かったことの方が多いだろうか? 確かにかわいい、かわいいと持て囃されることはあったけれど。僕自身の美的感覚と照らし合わせるのなら、背は高い方が嬉しかった。


 それから。その時期の僕は、女の子の格好をしていた。別に、特別な理由があったわけではなく。そうしたかったから、何となく。そうしただけなのだけど。或いは、僕は失望されたかったのかもしれない。彼に。そうすれば、諦められるから。


 僕の服装を最初に見た彼は、顔色一つ変えずに、ただ、『かわいい』とだけ言った。勿論。その“かわいい”が、モンシロチョウやアゲハチョウ、テントウムシ、それこそ、ダンゴムシに対するそれと同じ“かわいい”だということは幼い僕にも分かっていたとも。付け加えるのなら、そもそも、あの時期の彼にはそれ以外の“かわいい”は存在していなかったということも、きっちり分かっていた。


 確かに。白いワンピースの裾の広がりとはためきは、モンシロチョウに似ている。ラベンダーのシャンプーはきっと良く香ったことだろう。君がそれを好きだと言ったから。


 僕が蝶であるのなら、彼は花だった。小学五年生にもなると、もう子供と言えど、色気づいてくるもので、インターネットで猥褻な映画など見た子供なんかは、その猥褻さを隠しながらも、無邪気な暴漢宜しく、異性の身体に興味津々だった。彼はその対象に良くされていた。


否。暴漢というのは正しい表現ではないだろう。どちらかといえば、女子の方が、その手の知識に対する直球さと品のなさと浅慮さは顕著だった。とある女子のせいで、クラスメイト間での接吻行為が気軽に蔓延し、致命的な品行の欠如を齎したのを今でも覚えている。


 僕? 僕はそれほど。というのも、その手の知識自体は、当然のように知っていたものの(知ろうと思えば、誰だって、なんだって知れるのだ。子供であっても)、実際の行為に対する興味は非常に薄かった。彼も同じだったことだろう。猥褻本よりも理科の教科書、男女の性交より、蝶の交尾の方がよっぽど興味があったに違いない。


 僕と彼は互いを守る壁だった。煩わしい外界を遮断する。


 ある夏の日、校庭に在る温室の中で、彼は青虫を探していて、僕はそれに付き添っていた。汗で張り付いた前髪。頬を伝う雫。温室の中は尋常ではないほどに、蒸し暑く、僕は直ぐにでも出たかったけれど。彼にとっては、あの程度の暑さは何の苦でもないらしかった。


「なあ……」


 ふと。黙っていた彼が急に口を開いた。


「俺さぁ……隣のクラスの女子に告られたんだけど」


 それで? と。僕は返した。なんともない風を装って。彼は振り返って僕の方を向くと、つまらなそうな顔で、溜息を吐いた。僕は彼の汗で張り付いている前髪を指先で整えながら、そのある種傲慢とも言える態度に肩を竦める。


「話したこともない相手の何が好きなんだろうな」


 顔じゃないの。と。僕は返す。実際、彼は当時からクラスメイトの誰よりも綺麗で、誰よりも格好良かった。今思い返してみれば、子供達の幼い活発さは、生物的な美醜を超越して誰であれ星のように輝いていたけれど。それでもやっぱり、彼は金星だった。


「ふーん……。でもさ。顔しか好きじゃないなら、一緒にいる意味はないだろ? 顔だけ好きなら、別に見てるだけでいいじゃん」


 実際のところ。小学生同士の好きだ嫌いだ、なんてものには、そもそも、大した意味も実態もなく、その内実を真剣に考えたところで、分かるわけはない。心底不思議そうな、どころか、少しばかり不快そうな表情で彼は首を捻る。その表情に僕は確かな安堵を覚えていた。

彼が、他者の好意に浮かされて、軽薄に飛び去ってしまうような、蝶でないことに。


「お前はさぁ……。されないの? 告白とか」


 実を言えばされたことはあった。それが例え、一番上等の花があまりにも高嶺に在り過ぎて、土手に咲いている花で妥協した結果であったとしても。けれど、それを彼に言うのはあまりにも恥ずかしく思え、当時の僕はそのことを隠していた。


「なんでだろうな。俺なんかより、綺麗なのに」


 なんてことを。彼は何とはなしに言う。その言葉がどれだけ僕を喜ばせ、そして、傷つけるかを知らずに。


「俺は話したこともない奴より、お前の方がいいよ」


 *


 僕が彼に抱いた最初の恋慕がいつだったのか。それは分からない。僕はそれこそ幼い頃のことまで記憶している質ではあるけれど。記憶に残っている幼い日々の情景には必ず彼の姿があり、幼い記憶というのは、砕かれた玻璃の絵画に似て、物事の繋がりを読み取るのは難しく、その始まりは見つからない。


 それでも。自分がそれを明確に意識した日、ということであるのなら。今でも覚えている。


 小学校六年生の時。僕の家族と彼の家族の共通の知り合いが、結婚した。その式場でのことだ。花嫁は長い黒髪が美しい人で、純白のドレスとのコントラストが映えていた。幸福そうな笑顔。僕は表面上の態度ではそれを冷笑していたけれど。ああ。それを羨ましいと思ったことは否定できない。そして、彼は。僕のその冷笑を見透かしていた。


「俺もいつか結婚するのかな」


 ──ああ、君なら相手には困らないだろうな。


「そうかぁ? 俺、女子って、あんまり……。好きじゃないんだよな。うるさいし。好き嫌いが多いし……。直ぐに悪口を言うし」


 ここで言う“うるさい”は騒々しい、という意味ではなく、余計なお世話、という意味だ。人気者には人気者なりの悩みがあるものらしい。


 ──じゃあ、もし君が……大人になるまでに相手を見つけられなかったら。僕がドレスを着てあげてもいいけれど。なんて。


 それは、なんてことはない、他愛のない冗談で。笑い飛ばされると思っていたのに。だけど、彼は少しだけ口元を緩めて、真面目な顔で頷いた。


「それ、いいな。お前はうるさくないし。ドレス、似合いそうだし」


 無邪気で残酷な王子様はそう言って、ショートケーキを頬張る。

 その肯定が。その残酷な肯定が。僕の呪いとなったのは間違いない。

現実が淀んだ水の中で見る夢のようだとして。その目覚めを口付けを誰がしてくれるだろうか。呪いを掛けたのは魔女ではなく、王子様なのだ。


「ああ、でも。お前、最近人気だし。案外、先に結婚したりして」


 それはない。それはないんだよ。僕に声を掛けてくる女子の大半が君目当てだったというのに!


 *


 中学校に上がってから、僕は女の子の格好をするのを止めた。別に、特別な理由があったわけじゃない。クラスメイトに揶揄われた、とか。恥ずかしくなった、とか。そういうわけでもない。ただ、中学校から制服となり、私服を着る機会自体が少なくなったというだけのことだった。勿論。今の時代、男女どちらの制服を選ぶことも出来たのだけど。過去の自分を救いたいが為に今生きている人間を利用しようとするような馬鹿げた思想の大人に対する細やかな反発から、僕は素直に男子制服を選んだ。


 我らが残酷な花にして、王子様は、中学校でも相変わらずの人気者だった。優秀で、然し、それ故に意外にも怠け者な彼にしては珍しく、バスケ部に入った。まあ、確かに。似合ってはいた。彼は中学生になってから、背が伸びた。


 彼がどれだけ人気者だったかを簡潔に述べることは出来ない。そして、簡潔に述べることが出来ないことを語る気にはなれない。


 花には虫が集るもので、彼はいつも煩わしそうにしていた。


「お前がまだ女子の格好をしていたら、少しはマシだっただろうに……」


 彼はいつもそう愚痴っていた。仮に僕が女子の格好をしていたとしても、そんなことで身を引くような慎ましさを、思春期の女子が持ち合わせているものだろうか? いや、そんなことはありえない。ああ、バレンタイン! クリスマス! ろくな思い出が存在しない。お前たちに聖女のような慎ましさがあったなら! 女とは自分の罪を誰かにお裾分けしなければ気が済まない性なのだ。肋骨、二番目の妻、その子供達。お前たちの罪がいつか赦されますように。アーメン。


「今からでも、女子の制服に切り替えないか?」


 なんてことを。彼は平気で言うのだ。ああ。中学に進学して、最初のバレンタインの日。君にチョコレートを手渡し、健気にして剛毅な告白をした尊敬すべき女子が、最終的にどんな悲惨な目に遇ったことか! 可哀そうな娘! たとえ娼婦だとしても、あのような目に遇う理由にはならないだろうに。


「いや、そんな心配をしなくても、大丈夫だろう。結局のところ。お前は男なんだし。……うん。多分な」


 *


 中学については、まだもう少し語ることがある。三年の夏、僕たちは二人で海へと行った。彼が僕にプレゼントしてくれた水着を着て。彼がどんな水着を選んだのか? 実に中学生の男子が好きそうな水着を選んだ。上下に分かれたセパレートタイプの水着で、上は質素なキャミソール型で、下は腰回りに付いたフリルのスカートが辛うじて鼠径部を隠していた。まあ、今考えてみれば、露骨なビキニを選ばなかっただけ僕は褒めてあげたいと思うのだが。当時の僕は、彼に一言二言罵声を浴びせた記憶がある。


 それでも結局のところ。僕はその水着を着たのだけど。


 夏の海というのは、どこも例外なく、混んでいるもので、僕達が行った近場の海も、様々な年齢の人で溢れていた。そのおかげで、初めの内は、女物の水着に少しばかりの恥ずかしさを覚えもしたけれど、直ぐに気にならなくなった。というのも。水辺の人間と言うのは誰も彼もが自意識過剰で、水面に映る自分の姿さえ見えていないものなのだ。誰も彼もが自分を白鳥だと思っているが、実際には、ペリカンが関の山だ。


 自分を白鳥だと思い込んでいるペリカンの群れに辟易した僕達は、早々に海で遊ぶのを諦めて、人の少ない海岸の端へと隠れるように移動していた。高い壁と積まれたテトラポット、そして、立ち並ぶ防風林によって道路からは完全に隠れた場所で、僕達の他には、カップルが数人いるだけだった。


 紳士的な手つきで僕の腰を触ろうとする手を叩きながら、それでも僕に触れようとした事実に免じて、身を委ねた。筋肉質で、無駄毛のない太腿に頭を乗せて、空を飛ぶ白い鳥──何の鳥かは分からないけれど、多分、ペリカンでないことだけは確か──を眺める。ところで、男性の無駄毛処理に文句を言う女性がいるが。男らしくない、だとか言って。そういう彼女達自身は、“女らしさ”の為に処理をしているのだろうか? だとしたら、その惨めな自尊心を果たして笑ってあげるべきなのか。判断に困る。誰かが言うべきなのだろうとは思う。貴方が“猿人”らしい姿で生きると決めても、誰も気にしませんよと。結局のところ。そういうところが原因で、僕も彼も女性から距離を取っていた。自分がどう在りたいかという単純な話を、なんでも好き勝手に“問題”にしてしまえる軽薄さと“特権”に、辟易としていたのだった。


 

 彼は時折僕のお腹を撫でながら、延々とフナムシの蘊蓄を語っていた。フナムシの蘊蓄になど微塵も興味はなかったけれど、彼が楽しそうに話すので、僕は黙って聞いていた。フナムシはワラジムシの仲間だとかなんとか。そんなことは見れば大体分かるとは言わなかった。


 彼の生き物好き(特に昆虫や虫)は僕にはいまいち理解出来ないことの一つだった。思うに生物は複雑過ぎて、複雑なものはそれ自体が醜い。それでも、僕と彼は同じ意見の合意に達していて、それ故に、同じ絆で結ばれていた。つまるところ、大概の生き物は人間よりは単純で、それ故に、美しいということだ。そう考えれば、フナムシなど可愛いものだ。人間の内側に比べれば。複雑であることは醜さの免罪符ではない。複雑さというのは大体の場合、単純であることが出来なかった故に発生する。人間が崇拝する知能とやらは、能力の欠如故の産物であるし、多様性というものは、個の不完全性故に生まれるものだ。そして、その言い訳の為に世界が複雑であってほしいと、人々は願っている。


 言わば、社会というものは、人類の不能と言い訳によって生まれた複雑さの鎖である。ああ、そして。それに反する生物的な単純さ、とでも呼ぶべき力の引力が、あの夏の海には働いていた。


 先も言ったようにその浜辺には、僕達の他に二、三組のカップルが居た。その内の一組が、あろうことか、行為に及び始めた。つまり、動物的な単純さが社会的な複雑さを超越した。勿論、当時の僕にはそんなことを考える余裕はなく、うろたえ、その場から立ち去ろうと身体を起こした。けれど、彼は僕の胸元に手を当てて、それを制した。


「そそくさと逃げたら、子供みたいでかっこ悪いだろ」


 というのが彼の意見で、一理あるとは思い、僕は再び身を横たえた。他のカップルが立ち去るときと一緒に逃げればいい。と思っていたのだけど。


「信じられない。馬鹿が二組になった」


 困ったことに、もう一組までもが獣のように盛りはじめ、残りは卑しい野次馬根性からか、立ち去ろうとしなかった。僕達は完全に立ち去るタイミングを失った。女の喘ぎ声がどうしてあんなにも不快に聞こえるのか。僕なりに考えたのだけど。思うに、その演技の裏に隠された肥大した自尊心が滲み出ているからではないか? 傲慢な見下しが、その媚びた声に滲んでいるから。お前は獣なのだから、獣のように鳴けばよいものを。


 そして、獣は僕の傍にもいた。僕は獣の膝に頭を乗せて寝転んでいた。我らが純情の獣。可哀想に。彼は己の持てあました劣情を、然し、その真摯さ故に、見ないふりをして、僕から視線を逸らしていた。僕はそれが何となく、気に入らなかった。花にも王子にも獣にもなる君。君が花なら僕は蝶で、君が王子なら僕は姫で、そして君が獣であるのなら、僕は哀れな獲物でいい。単純な関係性。それでいいというのに。


 僕は、彼の頬に手を伸ばし、その輪郭を指でなぞった。


 *


 骨ばった長く、白い指先が、なだらかな丘の先の小さな蕾を摘む。

 砂の寝台。太陽のカーテン。潮の香。水面の反射。

 空気穴を取り囲む肉の傷口の厚い襞。滴る雫。

 浅い呼吸を掻き消す波の音。

 獣の爪が肌に食い込んでも、その身体を抱き寄せたままでいた。


 *


 高校生になってからも、僕と彼は同じ時間を共有していた。

 彼は相も変わらず完璧な王子様で、女子達は彼に夢中だった。言い換えるなら、彼の偶像に。そういう意味で言うのなら。彼は崇拝される神であり、支配者であり(神のような無自覚さによる)、そして、獣だった。


 僕はと言えば。巫女であり、司祭であり、祝福者であり、解釈者であった。不可解なことに、誰も彼もが、僕を通して彼と話そうとするのだ。酷いときには、僕を通じて彼に告白する女子さえいた。会話さえ儘ならない相手に告白するというのは、どういうことなのか。付き合った後も、僕を通して会話をするのか? 僕を召使として? 馬鹿げてる。


 好きだとか、嫌いだとか。彼女達が軽々しく使う言葉に、僕達は辟易していた。彼女達の言葉は、真綿のように軽い。



 放課後、いつものように僕達は、教室に二人、残り続けていた。彼は高校では部活に入らなかった。中学で同じ部活だったバスケ部は惜しんで、高校でも部活に入るよう頼んでいたけれど、彼はにべもなく断った。なんでも、飽きたらしい。その言葉を聞いたバスケ部員は酷く怒っていたけれど。彼は気にもしなかった。毎回、体育の時間、彼に対抗心(或いは、復讐心)を燃やしたバスケ部にちょくちょく絡まれて面倒そうにしていたけれど。今のところは、誰であれ、一度たりとも、彼に土を付けることは出来ていない。



「今日も告白されたのか?」


 窓際のでっぱりに座る彼に聞くと、彼は煩わしそうに、肩を竦めた。


「名前も知らないやつに」


「……君が忘れているだけじゃないのか?」


「だとしても。その程度しか関わりのない相手に、恥知らずにも告白なんてするか? まあ、今日の奴は直接自分で話しかけてきただけマシだったけどな」


 確かに。珍しく、今日の僕の昼休みは平穏だった。優雅に図書室で読書が出来たのは、久しぶりだ。


「仕方がないんじゃないか。好きになってしまったのなら」


「あいつらが好きなのは。俺ではなくて。自分自身だろう? そうでなければ、大して知りもしない相手に告白などするか」


 辛辣な言葉だが。僕には哀れな少女たちを庇ってやることは出来ない。彼の言葉は恐らく真実であったから。彼女達は自分自身の理想の残像に愛を囁いている。そして、自分自身でそれに気付いていないのだ。哀れむべきか、蔑むべきか。僕には良く分からない。


「そんなことより、ほら」


 そう言って、彼は両腕を広げた。


「……」


 彼が座っているでっぱりに膝を置いて、よじ登る。膝の間に座ると、腕を回され、抱き寄せられた。放課後、耐震補強用の柱に背を預けながら、僕を膝の間に置いて、窓の外を眺めるのが、彼の日課だった。一体、何を見ているのか。僕には分からない。同じ場所を眺めていても、同じものが見えるとは限らない。夕暮れが照らすアスファルト。女バスのランニング。木陰に隠れて煙草を吸っている数学教師。野球部の掛け声。吹奏楽部の演奏。下品な替え歌を叫ぶように歌って、笑っている男子。女子特有の甲高い嘲笑の声。僕には何一つ、愉快なものは見付けられなかった。きっと彼は違うのだろう。


「毎日、此処から何を見てるんだ?」


 僕の問いに、彼は答えなかった。返事の代わりとでも言うように、服の中に入り込もうとする手を叩き、溜息を吐く。


「怒るなよ。別に、何も見てない。強いて言うなら……全部だ。この景色そのもの」


「愉快なものでもあるのか?」


「ない。なにも。この景色は、全くの無価値だ。醜い。コーチの自己満足に過ぎない無意味なランニング。校則には厳しいくせに自分の欲求には甘い数学教師。監督も選手もやる気のない、なんら将来に寄与しない、惰性で行われている部活動。下手糞な演奏。自分が歌っている内容を実際に行う機会も目にする機会もない馬鹿な男子。自分が見下してるものよりも、より低俗であるという事実から目を背ける為に、甲高い声を上げる女子。何もない。世界の何処を探しても、この風景より無価値な風景を探すのは難しい」


「なら、なんでわざわざこんなところに座って……」


「無価値なものの価値って、何だと思う?」


「はぁ?」


「価値のあるものに、より多くの価値を与えてくれることだよ」


 *


 高校に入ってから、僕は一人暮らしを始めた。大学で一人暮らしをする練習に、今からしておけと、親に言われたからで、これは僕にとっては有難い申し出だった。駅近くのアパートは、それなりに良い家賃だったけれど、親が支払ってくれている。その代わり、それ以外の仕送りはない。


「相変わらず、殺風景な部屋だな」


「失礼だな。仕方ないだろ。金がないんだよ」


 一応、バイトはしているけれど。そこまでシフトには入っていない。世の中には時間とお金を天秤に掛けて、お金さえ手に入れば自分の時間は大して必要のないという種類の人間がいるけれど(もしくは、その天秤の存在に気付かない馬鹿な人間。僅か数十円の差の為に一時間以上遠くのスーパーに向かう主婦とか。尤も、彼女達は時間が有り余っているから、そんな馬鹿げた考えを起こすのかもしれない)僕は、時間とお金なら時間を選ぶ。


 彼はまるで自分の部屋かのように鞄を投げ捨てると、ベッドに腰かけた。両手を広げて、いつものように、僕を呼ぶ。



「蜂蜜とラベンダー。あの時から変わらないな」


「……変態みたいだぞ」


 首筋に顔を寄せてくる彼を叩く。蜂蜜のボディーソープとラベンダーのヘアオイル。別にこだわりがあるわけではないけれど。昔から使っているものを敢えて変えようとも思わない。考えてみれば、これは、僕の人生に似ているのかもしれない。きっと、このまま、僕は何も変わり映えしない人生を送るのだろう。そして。……置いていかれるのだ。


「それで? 話ってなんだよ」


 実際のところ。クラスメイト達がしている噂話とは裏腹に、僕達の間に、それほど多くの会話はない。僕達にあるのは、自由な沈黙と、自由な接触、そして、自由な解放。気紛れに話し、気紛れに触れ合い、気紛れに別れる。気紛れな舌。気紛れな指先。気紛れな絶頂。なんであれ。彼も僕も、鳥籠の小鳥ではない。なので彼が神妙な顔をして、話があるなんて言い出すのは珍しいことだった。


「この前、お前の誕生日だったろ。先ずはおめでとう。ほら、誕生日プレゼント」


 そう言って、彼は投げ捨てられた鞄を指差した。取って来いと言うことだろうか。まあ、いいけれど。けれど、何故か立ち上がろうとした僕を、彼の腕が引き留める。


「まあ、待て。誕生日プレゼントは後でいいだろ」


「なんでだよ」


「そんなことよりさ。お前、いつになったら、俺のものになってくれんの?」


 僕が彼のものでなかった時期など、実際のところ、存在しないのでは、と思ってしまうけれど。それは隠しておくことにした。確かに僕は、彼に言った。“君が大人になるまでに相手を見付けられなかったら、僕がドレスを着てもいいよ”と。それで、大人というのは、何時のことなんだ? ああ、それはね、自分が大人になったと思ったらだよ。子供らしい自惚れ。でも王子様ってそういうものだ。


「君は大人か?」


「交通機関は大体、大人料金だ」


 ああ、なるほど。じゃあ、あの夏の出来事は全くの合法だったわけだ。良かった良かった。合法な接触。合法な愛撫。合法な抱擁。合法な王子様。その割に、手付きは詐欺師そのものだったけれど。


「それは結構だな。大人な君。だけど……その。冷静になるべきじゃないか? あの約束は……そんな熱心なものだったか? あの約束は、いわば、諦観と冷笑によるもので……熱心に果たすべき契約だっただろうか? 誠実さという欺瞞によって君が、全ての契約は須く遂行されるべしと思っているのであれば、それは────」


「pacta sunt servanda」


 我らが語学堪能な王子様。“合意は守られなければならない”。まあ、確かに。一理ある。気取ったラテン語は鼻に付くけれど。我らが優秀な王子。将来は外交官にでもなるのだろうか? 君が何でも出来ることは知っている。そうでなければ、良かったのに。そうでなければ。


「君、恋人なんか要らないと、嘯いていたじゃないか」


「お前が“誰も相手がいなければ”と。そう言った。違うか?」


 違わない。違わないのだけど。


「君なら、相手なんて、幾らでも選べるだろ。女であれ、男であれ」


「だから今、選んでいる」


 何たる傲慢。そして、最悪なことに。その傲慢を、僕は好ましいと思っている。


 *


 開け放たれた窓から吹き込む風が、カーテンを揺らして、白いシーツに影を作る。太陽に嫌われた白い肌と、太陽に抱かれた褐色の肌。真夏の昆虫採取の何がそんなにも君を惹き付けるのか。肌を焼いて、不快な虫に刺されて(そして、その痒みと痛みに)も。君は気にしないのだろうね? 寛大にして、残酷な王子様。蝶の羽を無邪気に摘まんで、籠に仕舞い込み、そして、何れは、標本にするのだろうか? ピンを指して? なんて羨ましいことだろう。


 彼は、幼虫に触れるような注意深さと繊細な手つきで。白くなだらかな丘を撫で。その頂上にある小さな蕾を愛でた。膨らんだピンクの蕾。


「前から思ってたけど。女子みたいな胸だな」


 幼い頃から使っていたラベンダーのオイルのせいなのか。もしくは、幼い頃から飲んでいた豆乳のせいなのか。それとも、幼い頃に罹ったとある病気のせいなのか。はたまた生まれた時から受容体が多いのか。或いは、その執拗な愛撫のせいなのか。膨らんだ小さな二つの丘。小さな突起。彼は女子みたいというけれど。女子の膨らみを見たことがあるのだろうか? 

 

 慎ましい二つの丘。その中央を通る途を下り、辿り着くカルデラの周囲を回り、更に南へと。我らが猥褻な冒険者。尊大な詐欺師。


「君のせいじゃないのか。君が何度も触るから」


「そうか? お前自身の“期待”のせいではなく?」


「期待に膨らませているのは君だ。尤も、膨らませているのは上半身ではなくて下半身だが」


 *


 僕は別に自分が男に生まれたことを忌まわしく思ったことはない。むしろ、女性に生まれなかったことを幸運だとさえ思っている。女性特有の陰湿で傲慢な振る舞い(弱者に対する社会的要請とそれに関する当事者意識のなさ、無関心、無自覚、無知に起因する特権的傲慢さ)と、それが持て囃されるコミュニティに属することは、僕には耐えられそうにない。


 それでも、たった一つの点に関して言えば、女性のことが羨ましいと思うこともある。


「……花嫁」


「お? なんだ、待ちきれなくなったのか?」


「馬鹿を言うな。というか、僕はまだ、着るとは言ってない」


「そうだな。まだ裸になっただけだ」


 床に投げ捨てられていた薄い毛布を拾い上げ、身体を隠す。


「あの時のこと、覚えてるか?」


「あの健気な告白の時のことを? 勿論」


「それは忘れていい。……あの時の二人は、果たして幸せになったのか。君は知っているか?」


 幸せそうな二人。鐘の鳴る教会で、舞い散る花びらの中で祝福された二人。厳かな誓いを立てた二人は果たして、その誓いを守ったのか。答えはノー。


「知っているとも。彼女は可哀そうなオフィーリアになってしまった。彼女にヘンルーダを」


「“私にも少し”」



 /花・fleur


 お前は覚えているだろうか。冬の凍てつく世界の中で、二人の間に流れていた穢れなき空気のことを。幼い二人はいつも一緒で。見えない絆で繋がっていた。渇いた空気と土の香り。一緒のポケットで使ったカイロ。ダンゴムシ。お前はいつもダンゴムシを怖がっていた。俺は、本当は、お前が怖がっているのを知っていたけれど。気付かないふりをしていた。


 冬の日の吐息のような白い肌に、朱が差す光景をずっと見て居たかったから。


 穢れのない純白なブラン・コム・ネージュ────、可愛いパピヨン。紫色の羽に、雪の斑点。ラベンダーの香り。お前は何時の日か、俺に花の冠を掲げてくれた。白詰草の花冠に、青い花を添えて。青い星の花。お前が先生に頼み込んで花壇から切って貰ったことを、勿論、俺は知っている。誠実な君。今度はお前が青を身に着けてくれるのだろうか? 聖母マリアのように。花嫁のように?


 *


 うだるような暑い夏の日、俺達は学校帰りにある寂れた私設図書館に来ていた。白いワンピースにサンダル。あいつは、夏の蜃気楼に見る幻覚のような姿で、道行く人々の視線を集めていた。夏の風に漂う蝶。


 図書館のオーナーはいつものようにカウンターで気怠そうに本を読んでいた。俺達の姿に気付くと、軽く手を振って、奥の扉を指差す。オーナーは俺の親と知り合いらしく、いつも奥の書架を個人スペースとして使わせてくれていた(このオーナーは後年、とても酷い冤罪の為に訴えられ、無実を勝ち取ることは出来たものの、傷心のままに何処かへ引っ越してしまったという。ああ、彼は、無垢なものを愛でていただけだというのに)。尤も、そんなことをしなくても、大体の場合、図書館の中に殆ど利用者はいなかったのだが。


 俺は昆虫の図鑑を。あいつは、小難しそうな小説を。隣同士の席に座って、ただ読み進める。言葉は少なく、時折、目を休める為に視線を外したあいつが、俺の読んでいる図鑑を覗き込み、一言二言言葉を発するだけ。崇高な沈黙。言葉なき会話。例えば、絡み合う指先。重なり合う吐息。頬と頬による愛撫。


「『ローズマリーがあるわ。思い出の為に。お願いね。愛している。忘れないで』」


「俺は、レアティーズ()ではない」


「ああ。確かに。では君にはオダマキを」


「もしかして、なんだが。昨日、俺が告白されたのを、まだ根に持っているのか?」


 そこで漸く、俺はあいつが、どこか不機嫌そうな顔をしていることに気が付いた。尤も、あいつは大体の場合、不機嫌そうな顔をしている。太陽が眩しいかのように。目を細め、眉を寄せて。それでも、その日はより一層不機嫌そうに見えた。


「君が告白されるのなんて、別に珍しいことじゃないだろ。自惚れも大概にするんだな。虚栄は、大罪だぞ」


「嫉妬もじゃなかったか?」


「……してない」


 我らが可愛い嫉妬深い蝶。そんなに花に集う虫たちが気に入らないのなら、その羽搏きで蹴散らしてみせればいいものを。お前なら、それが容易く出来るのに。そうしてくれる方が、俺としても助かるのだが。蝶よ? お前が俺に集まってくる蜂共を蹴散らしてくれるなら。どんなにいいことか。慎み深いのは美徳だろうか? 果たして? 俺は毒虫に刺されてうんざりしているのに!


「蜂に、刺されたのは俺だぞ。お前じゃない」


「どうかな。僕は──いや、そんなことはどうでもいい。別に、僕は、嫉妬なんかしてないし。怒ってもない。そんなことで怒っていたら、僕は毎日、怒らなくちゃいけないだろ」


「言わせてもらえば、俺の目には、お前は毎日、怒っているように見えるな。うん。……ああ! なるほど。悪かった。そうだな……気を付けるとも。そんなに毎日、お前が俺のことを想っているとは知らな────」


 殴られた。可愛らしい上段の仕草から繰り出されたそれは、あまりにも早い初速で俺の頭を打ち抜いて、目の前が白くなる。こいつはいつもそうで、こういう時に手加減が出来ない奴なのだ。テキサスで竜巻が起きそうな勢いで、人の頭を叩いてくれた。暴力的な羽搏き。


「……」


「そんなに、睨むなよ。痛……」


 不機嫌な蝶を抱き上げて、膝の間に座らせる。正しく、羽を摘ままれた蝶のように藻掻いていたが、胴に回している腕の力を強くして、首筋に顔を近付けると、観念したように大人しくなった。


「放せ、馬鹿」


「ラベンダーのヘアオイル。まだ使ってるのか?」


「いいだろ、別に。というか、匂いを嗅ぐな、変態」


 変態で結構だとも。花の蜜にどっぷりと浸かっているかのような、人を誘惑するような匂いを漂わせている、お前が悪いのだ。


「機嫌を直せよ。ほら。膝に座り直せ。こっちを向いて……そうそう。素直なのは良いことだ」


 *


 あいつを最初に見た日の事は、今でも覚えている。幼稚園の頃ことなんて殆ど覚えていないが。あいつとの時間だけは鮮明に刻まれている。


 息を忘れるくらいに。整ったその顔に。微かに香るラベンダーに。凍てつく冬の冷気が吐息を凍らせて、白く煌めいていた睫毛に。その赤らんだ頬と白い肌の対比に。冬の外気の冷たさと張り裂けそうな鼓動の熱との落差に。全てが奪われた。


 今でも断言出来る。俺の初恋は、その瞬間だった。


 *


 開け放たれた暗幕の隙間から差し込む光が、宙に浮く埃を照らし、柱となって地面を差している。古書特有の甘い匂い。薄いシャツから透ける白い素肌。赤らんだ頬に口付けをして、その横の言葉を話す“傷口”に触れる。


「ほら。結局、お前は逃げない」


「まるで……強姦魔のような物言いだな」


「沈黙と不動は常に同意の意なのだと、人は素直に認めるべきだというのが、俺の持論だ」


「……だとしても、問題なのは何に対する同意であるかだ。僕が君から逃げないのは……僕自身の弱さに同意したからであって……君の強姦魔さながらの振る舞いに対してじゃない」


「卑怯で可愛い奴」


 俺達は強姦魔の膝に娼婦のように座って首筋にキスし、甘えるように腰を揺らすような存在の妥当な実在性について語るべきだろうか? 我が愛しい蝶よ? 


「……んっ……」


「相変わらず、おねだりの仕方が下手だな」


「……うるさい、ばか」


 熱っぽい視線と吐息。尤も、確かにそれだけでも十分と言えば十分ではある。指先を絡めあい、“傷口”と“傷口”を重ね合う。埃っぽい部屋を(プシュケ)が舞う。邪魔な衣を剥ぎ取って、その白い肌に爪で赤い流線刑を描いた。なだらかな膨らみの輪郭をなぞりながら、その甘美な形状を確かめる。先端の小さな蕾を指先で押し潰しながら、丘を降り、その穢れなき大地を思うままに彷徨う。


 白い大地。穢れなき白生地。雪原に舞う蝶。


 何時になったら、お前は俺を求めてくれるのだろうか。俺が思う心の半分でもこの指先から溶け出してお前に伝わればいいのに。白い雪のような肌を赤く溶かすことが出来るなら? それがどれだけ喜ばしいことか。


「今日もお前の家に行っても?」


「……好きにすればいい」


 *


 母が不倫していると気付いたのは、小学校四年生の頃だった。特別なきっかけがあったわけじゃない。母の父に対する話し方。服装。何かを誤魔化すような嫌に媚びるような態度。その他諸々。女は常日頃から社会の忖度を受けているが故に、自分の嘘が、相手にばれているのか、いないのかさえ、分からない。自分が周りから何も言われないのは、自分が正しいからだと、素朴に思い込んでいる。


 父の苦しそうな微笑など気付きもしないで。良き母という幻想を維持する為だけの媚びるような態度を続けた愚物。女の愛など全て自己愛の延長にしかないのだと悟った。悟らざるを得なかった。父のあの顔を見たら誰であれ! 子の為に怒りと嫌悪を抑えて、取り繕った笑みを浮かべる哀れな男を見たら、誰であれ! 女が男を愛すのも。母が子を愛すのも。結局は同じものでしかない。


 言い訳、言い訳、言い訳、言い訳。自分の過去の不幸を自分の罪の言い訳に使う者は、物皆滅び去ればいい! お前が父に愛されなかろうと。お前がろくでなしばかりを恋人に選ぶ盲しいだろうと。お前が日常にどれだけ薄っぺらな不公平を感じていようとも! そんなものには何の価値もない! お前が他人の不幸に小指の先ほどの関心もないのと同じように! お前が自分の不幸を通してしか他人の不幸を理解できないのと同じように! お前が俺の、父の、その苦痛のどれだけを理解できるというのか。お前は、自らが負うべき役割を不当だと投げ捨てて、その全てを押し付けたというのに。その自分の行いさえも裏切って! 新しい役割を望んだのだ! 汚らわしい売春婦。性の奴隷。


 惰弱、お前の名は女。そして裏切り、軽薄、欺瞞、虚構、無価値、無知、蒙昧、寄生。


 自己愛は結構だが、それを隠し聖者を気取る者は悍ましい。聖母を気取る売春婦。穢れている。自分がその胎から生まれたと思うと反吐が出る。それでも生まれた以上は、父の血が母の穢れを払うと信じて生きるしかない。 


 だから。俺は女が嫌いだ。そして、それから生まれる全てが。


 *


 窓から覗く黄昏色のアスファルト。雲のない空。汗ばんだ前髪。汗に透けるシャツ。皴の寄ったシーツ。


「今日、泊まってもいいか?」


「……別に、いいけど」


 あいつは、不貞腐れたように薄い毛布を被って、ベッドに横たわっていた。俺はあいつの腹に手を差し込んで、抱き起す。


「拗ねるな、拗ねるな」


「拗ねてないが」


「お前は頑張ったよ。その小さな……ふっ」


 小さく、可憐で、可愛らしい我らが姫君は、然し、その“小さな”自身を好ましく思っていないらしい。然し、“大きさ”なんて気にする必要があるのだろうか? お前は受け入れる側だというのに。なんてことを前に言ったら、大変ご立腹だったので、勿論、口には出さないが。


「殺す」


「そんなことを口に出すべきじゃあないな。怒るなよ。ほら、今度は俺が……」


「触るな、馬鹿!」


 *


 一緒のお風呂に入り、一緒に身体を洗い、一緒に■■■した頃には、我らが気難しい透かし細工の君も機嫌を直した。直したというよりは、疲れ果てて、怒る気力もなくなっただけかもしれないが。俺の右手がお前の恋人で、お前の左手が俺の恋人だったわけだが、お前の左手はやはり、か弱いお姫様の手だった。痙攣する熱さに耐えられずに怯えていた。


 暑い夏の夜。水滴の滴る窓。正体不明の虫の鳴き声。不快だが心地良い体温。


 狭いアパートも、我が家に比べればどれだけ幸福なことか。此処が楽園の東だとしても。楽園そのものよりもずっといい。或いはソドムであったとしても。


「それで。そろそろ、俺の告白に答えてくれるのか?」


「……。思うに。君は、女性に対する諦観から、僕のことを──」


「それは、一理ある。きっかり、一理だけだが。確かに。女の恋人を作らない理由としては、そうだ。女なんてくだらない生き物に寄り添うことは俺には出来ない。だが、そもそも、俺がお前を好きになったのは、幼稚園の頃だぞ。男も女もない時期だ」


 驚いた顔。見開いた目。高揚した頬。可愛らしくて結構だ。風呂場で致した後で良かった。そうでなければ、真面目な話がすぐさま中断されてしまうところだった。


「……。そうだとして。……。いや、そんなわけはない。幼稚園の頃の君は、僕にダンゴムシを押し付けたり、引き抜いた地蜘蛛の巣を押し付けてきたり、意地悪ばっかりしてたじゃないか」


「嬉しかっただろ?」


「……。……。そうだとしても」


 我らが被虐趣味の小さな羽搏き。まあ、公平な話をするのなら。勿論、幼い自分にも下心があったことは言わなければならない。怯えた指先が繋がるのを。何かを堪えた口元を。楽しんでいなかったと言えば嘘になる。尤も、凡その理由としては、口下手で、恥ずかしがり屋で、自分からは話しかけてこないシャイな想い人に行動を促す為だったと弁明しておこう。ああ、多分、きっと。


「本当に、僕が好きなのか? 信じられない。合理的な思考だと思えない」


「何故そう思う?」


「君は女嫌いだが……それ以前に、人間が嫌いだ。君が女性に対して抱いている諦観は僕にも一定の理解は出来るけれど……僕に言わせれば……男も女も大差ない。勿論、性質の差は在るにしても。総合的な……言わば、本質的な、誠実さという観点においては」


「俺に言わせれば、お前の方がよっぽど人間嫌いなんじゃないか?」


「うるさい。君が誰かを好きになるということが……僕には理解出来ないし、信用も出来ない」


 無理もない。何せ、それ自体は、俺自身もそう思っている。だが。


「だが、恋とはそういうものじゃないのか? 恐らくは」


「……」


「おい。黙るな。俺が寒いこと言ったみたいだろ」


「湯冷めするかと思った」


 おい。


「というか、じゃあ、なんだ。お前、まさか……俺がお前にしてきた数々の愛情表現を何だと思ってたんだ?」


「愛情表現というのは、些か、取り繕い過ぎな言葉じゃないか?」


「世間では欲望を取り繕うことを愛情と呼ぶらしい」


「含蓄のある言葉だな、君。……まあ、正直に言うのであれば。君の“取り繕い”に期待していたものがない、とは……言えない。だが、君は……期待されるのが嫌いだと思っていた。違うか?」


 違わない。思わず肩を竦める。


「違わないな。だが、何事にも例外はあるさ」


 例外、そう例外だ。あいつは、いつも、俺にとっての例外だった。


「……。ああ、分かったとも。君の言ってることが冗談でも気の迷いでもないと。認めるよ。だけど……だったら……もう少し、ロマンチックな言葉が欲しいものだな」


「乙女だな」


「うるさい。いいだろ、別に。ほら。そんなに僕が欲しいなら。身を委ねたくなるような言葉を投げかけてみたまえよ」


 そう言ってあいつは、芝居がかった仕草で、両腕を広げた。


「いいとも。……『我が命の光、我が腰の炎。 我が罪、我が魂──』」


「それ、『ロリータ』だろ。引用するにしても、もっと、他に……」


「いいじゃないか。別に。奇遇にも俺はH・Hで、お前はD・Hなんだから」


「そもそも、その二人、結ばれないだろ」


「やっぱり結ばれたいのか?」


 顔を赤くして、喚いている可愛いドロレスを抱き寄せて、ベッドへ押し倒す。幸いにも、睡眠薬は必要ない。哀れなH・H氏も。想い人と同い年であったなら。きっと何の葛藤もなく、悲劇もなく救われただろうに! 逢瀬を邪魔さえされなければ。海辺の王国で。


「車の免許を取ったら、旅をするか」


「……何処に」


「何処へでも。そして、結婚式を挙げる」


「馬鹿みたいな夢想だな。……まあ、悪くない。それで、どっちがドレスを?」


 それは勿論、お前だとも。


 *


 全ての恋と夢が破れるものであるというあいつの提唱する説には一定の理があることを認めなければならない。そして認めた上で、何れ破れて散ったものを、必ず拾い集めることを誓うのだ。夢と恋の残骸を、それでも愛すると。愛すことが出来るという確信。それこそが唯一信頼出来る愛というものだ。


 何れ、老い、醜くなることを恐れている、お前の気持ちは理解しているとも。その恐れは無意味だと、どれだけ俺が説いても無駄だということも。確かに、あの日見た二人の結婚は残念ながら悲劇に終わったとも。人は常に、何かを手に入れた途端に、もっと良いものが手に入ったのではないか、などと、ありもしない可能性に疑念を抱くものであるから。


 だから、今は黙っておこう。口ではなく指先で、その不安を解いてやろう。


 どうかお前が、出来るのならば永遠に、肩に止まっていてくれることを願って。


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― 新着の感想 ―
書き忘れ 何回も送ってすいません。今でも何回も読んでます。そのくらい好きです。これからも作品作り頑張ってください!
語彙力のない感想になるのですが、二人の考え方にハッとなる考え方が、たくさんあり新しい見方ができるようになりました。今まで読んだ作品の中で1番好きです。
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