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「初めてだったので、お疲れでしょう。」
いつの間にか橘がタクヤの眼前に立ち、タクヤへ彼女が両手にしているマグカップのひとつを差し出していた。
「わたしがそうなんですけど、自分の深層で力を発揮するのと、他人の深層で力を解放するのとは、勝手が違いますから。」
橘をぼんやりと見上げたまま、彼女が差し出しているマグカップを受け取ろうとしないタクヤへ、どうぞ、と彼女は気分を害した様子はなく、再び差し出してきた。
その橘へ慌てて礼を述べてタクヤが受け取ったマグカップからは、温かな湯気が立っていて、いつも口にする紅茶とは違う香りがした。
「身体が温まるように、ジンジャーティーにしました。ベースはアールグレイです。」
ふわり、と笑んで彼女は先ほどまで座っていた、タクヤから少し離れたところに位置する椅子に腰を下ろす。そして手にしていたマグカップを両手で抱えるようにして持つと、ゆっくりとソレに口を付けた。
彼女のカップに口を付ける様を見て、タクヤも手渡されたマグカップにゆっくりと鼻を近づけた。
「コレ、アールグレイって言うんですね。」
よく聞く香り。
アールグレイという紅茶の名もよく耳にしていたが、タクヤは香りと名前が一致していなかった。橘の今の説明で、この香りとアールグレイの名がタクヤの中で初めて一致した。
「良い香り、ですね。」
そう感想を述べる。本当に良い香りだ。
「このアールグレイはセイロンがベースなんです。」
橘のゆったりした動作で紅茶に口を付けながらの、その発言は、紅茶にも疎いタクヤには意味がよくわからなかった。
アールグレイとセイロンは、それぞれ個別の茶葉の名前ではないのか。アールグレイは茶葉の種類ではないのだろうか。
説明を請うべきか。
けれども紅茶に拘りがあると思われる橘に説明を請う行為は、なんとなく地雷のような気がする。それくらいも知らないのか、と常識の無さを呆れられるか、または延々と説明を受けることになるか。
とは言え、現実の橘は深層の橘とは違い、タクヤに対して、冷えた態度にはならないとは思う。
が。
そうは思うものの、先ほどまで居た深層の橘が、タクヤの中で今の橘と重なってしまう。
そもそも美味しいか美味しくないか、くらいならタクヤは興味はあるが、紅茶そのものにあまり興味はわかない。
だから、そう、なんですね、と、タクヤはとりあえず無難な答えを返そうとした時。
「お疲れさまでした。」
診察室に続く扉がスライドされ、月島が茶器を載せたトレイを片手に入ってきた。
「ちょうど、紅茶が入ったところです。どうですか?センセ。」
橘は立ち上がり、手にしていたマグカップを事務机に置くと、ありがとうございます、と笑顔で礼を述べる月島からトレイを受け取り給湯室へ戻っていく。
その後ろ姿を追うように、ぼんやりと視線を動かしたタクヤが座るその隣に、月島は静かに立つ。そして、タクヤへ、
「慣れない作業で疲れたでしょう。」
大丈夫ですか?と、タクヤを気遣う言葉をかけてきた。
「あ。いいえ。」
タクヤは反射的に、月島からの気遣いの言葉に否定をしてしまった。タクヤのその反応に、月島は少し首を傾げる。そして彼は床に片膝をつき、座っているタクヤの目線に合わせてきた。その彼の様子は、タクヤの体調に変化がないか探っている、いつもの体勢だ。
「ホントウに。疲れるまでのことが、僕はできませんでしたから。」
その月島への、頭を振りながらのタクヤのその返答に、月島の表情が少し動く。
卑屈な物言いになってしまった。
自分の能力の非力さに、勝手に打ちのめされただけだ。これは月島から、今までのような心の変調の心配をされる類ではない。タクヤが勝手に自分は月島たちの期待に、初手から応えることができるくらいの能力保持者だと、勘違いをしていたことに恥じ入る気持ちを抱いているだけなのだから。自分はもう少し『浄化』ができ、降り立った深層にタクヤ自身がわかるほどの変化をもたらすことができる、と思っていただけだ。
「永良さんが、自身が思っていたほどに、できなかったということですか?」
タクヤが卑屈になって思わず口走ってしまった言葉を月島は受け止めると、タクヤに視線を合わせながら訊ねる。
その月島からの問いにタクヤは一拍置いたが、そのまま正直にうなずいた。どのみち、月島にはタクヤの心は読まれてしまう。下手に取り繕えば、彼を心配させるだけだ。
「わたしは、永良さんは上手にできていたと思っています。センセ。」
給湯室からマグカップをトレイに載せ、タクヤが気づかない間に戻ってきていた橘が、タクヤたちの会話に入ってきた。
「気持ちの良い、綺麗な風が渡っていましたから。」
橘が差し出すマグカップを受け取るために、月島は跪いていた姿勢から立ち上がり、橘に礼を述べながらカップを受け取ると、
「それでも永良さんは、上手くできなかった、と思っているのですね。」
月島の近くにある椅子をタクヤの斜め前に設置し、座しながらそうタクヤに問うた。
月島のその問いにも、タクヤは正直にうなずく。




