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しかし彼が纏う雰囲気が、変化したようにタクヤは感じる。
タクヤは知らず、腰を掛けている椅子を引いた。それはいつでもこの場から逃げることができる、体勢だった。
「イヤだなあ、永良さん。私は何もあなたに身体的に、もしくは精神的に危害を加える、なんてことはしませんよ。そのような怯えた目で、私を見ないで下さい。」
これでも傷つきますから、とおどけた感で月島は言う。
月島の口調が今までと違い、ぐっと、砕けたものへと変化したような、気がする。
それは、タクヤとの面談が終了したからか。治療が終わったからか。治療する者と治療される者の関係ではなくなったからか。
先ほど、月島を纏う雰囲気が変化したとタクヤが感じたのは、彼のこの口調の変化のせいか。
それであればタクヤの本能に近い感覚が、この場から逃げようとはしないはずだ。ただたんに月島が、職業的な立場から知人への立場へとなって、タクヤに対して親愛的な対応をしているくらいなら、身体が勝手に腰掛けている椅子を引いたりしない。
けれどもタクヤの身体は、足は、この腰掛けている椅子から立ち上がり、出口へと向かいたがっている。
そのように思うタクヤ自身、なぜ自分はこの場から立ち去りたいのか、理由はわかっていない。
職業とはいえ、ここまで親切にタクヤのカウンセリングに当たってくれた月島に、タクヤのこの今の態度は、とても失礼なのではないかとも思う。
単純に月島の言葉使いが少し砕けた感になっただけで、それ以上のモノはない。ただ、それだけだ。
月島のカウンセリングは、タクヤにはとても合っていた。カウンセリングの途中でぼんやりすることについては、不思議さがあったが、何か実害があったわけでもなく、その日のカウンセリングが終了するときには、頭も心も清々しかったので、このカウンセリングを続けたい、と希望し、継続して受診してきたくらいだ。
「ここからは永良さんと、ビジネスの話をしようかと思っていましてね。」
お時間ありますか?と、月島が訊ねる。
突然の、全く想像のなかった話題の提供に、タクヤは椅子を引きかけたその動作を止めた。
「ビジネス?」
と、タクヤは月島の言葉をなぞり、疑問符を呈する。
今の今までタクヤは月島の披支援者の立場だった。その者に、ビジネスの話とはどういう意味か、理解できないゆえの、思わず発した疑問符だった。
それにタクヤは現在、一般企業に所属する会社員だ。月島はタクヤの支援者として、タクヤの個人情報を掴んでいるはずだから、タクヤがしがない一会社員だということは知っているはずだ。それとも、この月島からの話は、まさか引き抜きや副業の話、ではないだろう。もしかしたら、タクヤの会社絡みのビジネスの話だろうか。けれどもタクヤの現所属は内勤の課であり、外勤ではない。しかも、ここ数か月は月島も知っての通り、病気休暇中だ。商談を持ちかけられても、応えられない。
タクヤは、あの、と、
「僕はたぶん、月島さんが望まれる話には応えられないと思うのですが。僕は内勤勤務で、しかも職階も独断で何かを決めることができない主任級ですし。」
それに、と、
「月島さんもよくご存じのはずで、僕は病気休暇でここしばらく出勤していなくて、今はたぶん所属は総務課付けになっているんじゃないかと、思うのです。」
月島のカウンセリングが終わったからといって、心療内科の受診はまだしばらく続くだろうし、主治医からの出勤の許可がないと働けないだろう。心療内科の次回の受診は、2週間先だ。タクヤの職場復帰は早くてもその受診後だろう。それに今はまだ、毎日の職場勤めがこなせる自信がタクヤにはない。
タクヤのその言葉に、月島は、わかっています、と答える。
「少し落ち着いたと言っても、まだ眠れない日もあるようですしね。私のビジネスの話というのは、永良さんの職場関係のビジネスの話ではないんです。」
誤解させてしまいましたね、と月島は申し訳なさそうにする。
その、月島の様子から、
「誤解、でしたか。」
と、少し安堵の色の入ったタクヤの返答に、
「いえ。まるっきりの誤解でもなくて。」
と、月島はタクヤにとって意味を汲み取ることができないような発言を続けた。
どういうことか、とタクヤの疑問の心の声が表情にでたのだろう。月島は、
「少し落ち着いて、お話しをしましょう。紅茶も冷めてしまいましたし。」
そう言いながら立ち上がると、ローボードの上に月島がタクヤとのカウンセリング前に置いたトレイを持ってくる。そして、月島がそのトレイにテーブルにあるティーポットと二人のティーカップを載せたそのタイミングで、隣室からティーポットと三人分のカップを載せたトレイを持った女性が入ってきた。そのタイミングの良さに月島は驚くことなく女性に対して礼を述べ、自身が持っているトレイを持ったまま女性と入れ替わりに女性が入ってきた隣室へと消える。
月島と交代する形でタクヤとともに部屋に残った女性は、手にしていたトレイをテーブルに置き、三人分のカップをそこから下ろす。そして手馴れた所作でティーポットから紅茶を、それぞれのカップに注いでいく。
突然、月島と交代し、この場に登場した女性は、タクヤを気にかける様子がない。タクヤに声をかけるどころか、タクヤの方も見ず、ティーカップに紅茶を静かに注ぎ淹れていく。
彼女は誰で、どのような位置にいる人なのか。訳の分からないまま、それでもタクヤはその女性に声をかけることができず、ただ彼女がティーポットから3人分のカップに注ぐその横顔を、そっとうかがい見た。