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「永良さん。上手く『浄化』ができていましたよ。」
月島の診察室の椅子に腰掛け、自身の深層から戻り目蓋を開けたタクヤへ、タクヤが目蓋を開けたとたん、月島が手放しでタクヤを褒めた。
月島から、『心の浄化』といった荒唐無稽な話をタクヤに持ちかけられてから、3か月が経過した。最初は、月島がタクヤに持ちかけた内容はタクヤにとってはとても胡散臭く、新興宗教関係か怪しげなセミナーの勧誘か、と疑ってかかっていた。けれどもその疑いもなくなり、タクヤはタクヤ自身の心の深層の『浄化』がタクヤ自身でできるようにと、2、3日に一度、タクヤは月島の診察室を訪れて、月島と橘の指南の下、月島曰わくリハビリの名目で練習を行ってきた。
『浄化』というその方法は、タクヤにとっては雲を掴むような内容だった。何をどうすれば良いのか、全くもってわからなかった。先生役でもある橘のアドバイスもタクヤには、さっぱり理解できないものばかりだった。
できている、と今、タクヤの目の前で爽やかな笑顔を浮かべて月島から褒められたが、タクヤには最初の頃と今と何が違うのか、よくわからない。
ただ、あの緑鮮やかな場所で、タクヤの意思で柔らかな風を吹かせることが、少しではあるもののできるようになったことが、唯一の成果だ。とはいえ、微風がタクヤの意思で吹かせることができるようになったからと言って、タクヤの心の深層に何かの変化があるわけでもなく、月島たちが口にする『浄化』ができているのかどうか、実感がない。ただ、その場に立っているタクヤ自身が、その微風が、緑鮮やかな景色が、とても心地が良い、と感じて心落ち着くだけだ。心落ち着ける場所で、あり続けているだけだった。
もしかしたら、それが成果なのかもしれない。月島と橘から聞いた話では、タクヤが月島の診察室の扉を叩いた当初のタクヤの心の深層は、色彩がなく白と黒の死にかけた世界だったらしい。そのことを思えば、タクヤがとても心地良く、懐かしいと感じているあの緑鮮やかな場が保てていることは、タクヤが施している『浄化』がうまく作用しているからかもしれない。
「『浄化』の方法は、人それぞれのようですね。」
月島は跪いてタクヤの体調をうかがう体勢からゆっくりと立ち上がると、
「コトネさんの『浄化』の方法は、くすんでいる膜を薄く剥いで本来の色彩を取り戻していくイメージだと、言っていましたし。」
休憩にしましょう、と言いながらローボードへ向かう。ローボードの上には珈琲をドリップできるように、タクヤが月島の診察室に訪れた時にはすでに準備がされていた。今のタクヤの『浄化』の練習に、橘は立ち会わなかったその状況から、今日は彼女は不在のようだ。
「永良さん。ここ最近、眠れていますか?」
ゆっくりとドリップバッグにお湯を回し入れながら、月島がタクヤの体調を確認する。
えっ?と訊き返すタクヤに、
「橘から、永良さんの前回の受診時に出勤許可を出した、と聞いています。今日はお仕事の帰り、ですよね。」
と、タクヤの体調を訊ねる理由を月島は口にした。
月島が言うように2週間前、クリニックの定期受診の時にツカサ医師から出勤許可が得られた。
時間短縮の出勤から始めるように、との主治医の診断書をタクヤは総務課に提出し、1週間前の月曜日から1時間の早上がりで出勤を再開していた。今日は出勤を再開してからの、初めて訪れた月島の診察室だった。
仕事帰りで月島の診察室に寄ったのだが、今は17時30分をすでに回っている。1時間の早上がりなので16時30分には退社し、タクヤが月島の診察室に訪った時刻は、17時前だった。月島との約束の時間が17時だったのだが、タクヤとの面談の前のカウンセリングが少し長引いたようで、そのカウンセリングが終わるまでタクヤは受付前の長椅子で待機していたため、タクヤの深層での『浄化』の練習が終了したのがこの時間帯になってしまっていた。
「永良さんの深層の状態を見る限り、眠れているようだとは思いますが。」
どうぞ、と月島はドリップ仕立ての珈琲が入ったカップをタクヤの前に置く。淹れ立ての珈琲の良い香りが、タクヤの鼻腔をくすぐってくる。
「今日はあいにく、甘味を切らしているんです。」
と、珈琲だけの提供になってしまったことへ申し訳なさそうな月島に、タクヤはお構いなく、と、
「カウンセリングをしていただいて『浄化』の練習まで付き合ってもらって、尚且つ珈琲までご馳走になっているんです。これだけで、もう十二分です。」
少し恐縮する。
月島はタクヤから治療費とした代金を、一切徴収していない。タクヤから支払いを持ちかけたが、丁重に断られてしまった。
『浄化』の練習を始めた当初に、タクヤはいったん拒否をした同意書に、同意をするサインをした。サインをした重要事項説明書の内容を改めて確認すると、そこには、前回に記載されていたタクヤが他者へ『浄化』を施す旨に関する内容は削除されており、タクヤが月島の診察室へ通うことは、タクヤの社会復帰に向けてのリハビリが主である、といった、リハビリが強調される内容となっていた。つまりタクヤへ再度提示された書類には、タクヤが施すことができる『浄化』の力を、月島たちの仕事の一端を担う旨については、どこにも記載されていなかった。
『浄化』の練習を始めた頃は、月島のこの診察室に9時に訪室し、月島のカウンセリングの仕事がひと段落するまでの間は、橘の指示の下、診察室に隣接している事務を行う部屋で簡単な事務作業や事務室の片づけを手伝っていた。そして、『浄化』の練習の後は必ず、月島のカウンセリングを受けていた。




