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確かに、感情の素直な表出は、高校生くらいの自分がしていたことだ。世間が広がるにつれ、感情を押し込み、相手を慮り、思ったこと感じたことを素直に口にする場面が少なくなっていった。
それがオトナなのだと思っていたし、今もそうだと思っている。要らぬ摩擦を産む必要は無い。
そう、今のように。
タクヤの今まで見せたことのないその強い口調に、月島本人ではなく、月島の隣に立つ橘の顔付きがキツくなった。
その橘の様子から、また、彼女から苦言を喰らうのか、とタクヤはげんなりする。
そのタクヤの感情も、素直に表情に態度に現れてしまった。
彼女が大きく息を吸い込むのが見て取れる。
彼女が放つ諫言も説教も、至極当然の内容だと、タクヤは心底では納得している。タクヤがもし反対の立場なら、コレがタクヤの職場での出来事ならば、タクヤも同僚や部下に、このようなキツい口調でなくとも窘めている、タクヤの今の態度だ。だから、彼女からの砲火は甘んじて受けなければならないと納得し、タクヤは身構えた。
そのとき。
「コトネさん。」
静かな、月島の橘の名を呼ぶ声。
特に咎めの色や窘めの色は無い、ただ、静かに名を呼ぶ声音。
「…はい。センセ。」
なのに、橘はその内に抱えたタクヤへの怒りの矛をたちまち納めた。橘は何事もなかったかのように、先ほどまでと変わらない、凛とした雰囲気をまとって、タクヤは眼中にないかのように月島の隣に立つ。
橘のその態度の変化から、つくづくこのふたりの関係性は、不思議だ、とタクヤは思う。
橘はツカサ医師の伴侶だと月島から聞いている。月島とツカサ医師は友人だとも。友人の奥方をファーストネームで呼び、橘は夫の友人を心酔している。現に、橘は月島の諫言には必ずといって良いほど聞き入れ、従う。
この三者の関係は、特に月島と橘の関係は、どのようなものなのだろう、とやはり下世話な想像がタクヤの頭を掠める。
けれども、橘が月島を慕ってはいるが、彼らの関係が男女のものかといえば、その微妙な空気感はない。
強いて言うならば、やはり教祖と信者といったもののように見える。橘が一方的に月島に傾倒しているように、タクヤには思えた。
月島から名を呼ばれ、その、タクヤへの態度を軟化させた橘に、
「永良さんの、この素直な彼の感情の表出は、悪い内容ではないと、私は受け取っています。」
月島は、カウンセリング時にタクヤへ向けるのと同じような、爽やかな笑顔を向ける。
「他人や自分を傷つけようといった攻撃性があるものではないですし、どちらかといえばオブラートに包まない、瑞々しい感性の素直な意見です。」
月島のその言葉から、そう言えば、と。
タクヤは反論、口答えを素直に表出はしているが、10代のあの頃のような理由のないイラつき感や反抗心は芽生えていないな、と気づく。尖った感情が、無い。相手を傷つけることで自分自身が傷つかないように、自身を守ろうといった防御体勢でもない。たんに、思ったこと、感じたことを吟味せずそのまま素直に言葉に表情に態度に表出してしまっているだけだ。
ただ。
それだけであっても、相手を傷つけない、とは限らないことも、現実のタクヤは経験し、理解している。タクヤのこの思索もせずに発言したことで、月島が傷ついていない保証は、ない。
月島がタクヤの言動を前向きに捉えてくれているのは、彼のその職業柄からくるものでしかない、のかもしれない。本心は、本音は、違うところにあるかも、しれない。社会人として責を持って仕事を、生活をしているのなら、それは十二分にあり得る。
少なくとも現実のタクヤなら、もし月島の立場であったなら、取り繕い波風が立たないように対応している案件だ。しかも相手は、成年に達していない、まだ子どもだ。
「それに、私が永良さんの心情をきちんと受け止めることができていなかったようです。」
だからなのか月島は続けて、月島自身の対応に非があったと言う。
そうではなくて。
と、タクヤは言い出しかけたその言葉を、今度は寸でのところで呑み込むことができた。その代わりに、
「月島さんには、僕は、ホントウに感謝しているんです。」
消え入りそうな小さな声で、うつむきながら言葉を落とした。
今の彼の言葉や態度はタクヤを一見受け入れているように見えて、実のところは受け入れていない。少なくとも、タクヤ自身が自身を否定されていると感じ取っている。その、月島のオトナの対応へのこれは、イラつきだ。タクヤは相手の対応や態度に何故か、敏感になっている。感情が、動く。
現実のタクヤなら、これ位のことなら流している事柄だ。
それなのに何故か今は、負の感情が動く。
いかな心理のプロであっても、相手の心底の些細な感情や思いまではわからないだろう。なにせ、その感情を湧き出させ、抱えているはずの当人でさえ、己が感情や思考が理解できずに迷走しているのだから。
現実のタクヤなら現実の年齢に達するまでにそのようなことを体験し、経験上の理解から、タクヤを慮ってだと思われる月島のその言葉を聞き流しているはずだった。
けれども。
この場に立つタクヤは、聞き流すことができなかった。
心のどこかに引っかかりを覚えての、反論。
口をついて出るのは、反論だ。
いや、これは口答えか。
もしくは子どもの駄々、といったところか。




