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「永良さん。もう、戻りましょう。」
疲れましたよね、と少し心配そうな色をその薄茶色の瞳に浮かべ、月島はタクヤを案じる言葉を落とす。
「戻る?」
戻る、とはタクヤが目蓋を開ける前まで居た、月島の診察室に、か。
「どうやって、戻るのですか?そもそも、戻れるのですか?ココがどこかもわからなくて、僕はどうやってココにきたのかすら、わかっていないのに。」
心の変調による、感情の乱れ。
普段なら、タクヤはこのように他人に自身の感情をそのままぶつけることはしない。
感情に任せて言葉を吐いていたのは、中学2年生くらいから高校2年生くらいまでの、所謂、思春期真っ只中の反抗期の頃だけだ。20歳を迎える前には、感情の起伏も随分と落ち着き、また感情を制御する術も自然と覚えていた。感情をそのまま身内にもしくは他人に、叩きつけるようなことはしなくなった。
それは、そのような行動は青臭く未熟で、恥ずかしい行動だ、と思うようになったからだ。
「センセ。」
橘が少し焦った声音で月島を呼びながら、不安そうに空を見上げる。
けれども月島は、
「大丈夫です、コトネさん。これくらいなら私はまだ、支えていられますから。」
橘の焦りに動じることなくいつもの穏やかな雰囲気のままだ。
そして、
「さぁ。永良さん。私が永良さんをここまで誘ったのですから。」
月島は掴んでいるタクヤの腕を引っ張り上げ、しゃがみ込んでいるタクヤを立たせる。
「私となら、戻れます。一緒に戻りましょうか。」
目蓋を閉じてください、と月島は片手のひらをタクヤの目蓋の上に置き、強制的に閉じさせた。
「大丈夫ですよ。」
月島の、いつもの穏やかなトーン。
「落ち着いて。」
カウンセリングを受けているときと同じ、柔らかな声音。タクヤの混乱状態だった頭や心が、落ち着いてくる。
「目蓋を開ければ、永良さんもよく知っている『月島』の診察室です。」
独特の、月島の抑揚。
タクヤの、先ほどまでの混乱と錯乱が入り混じった、心の酷い乱れが嘘のように、凪ぐ。
「さぁ、ゆっくり目蓋を開けてください。」
月島の声に誘われて、タクヤは素直に指示に従いゆっくり目蓋を開けた。
そこは。
最初に目蓋を閉じる前まで見ていた、見慣れた月島の診察室だった。先ほどまで見ていた、立っていた、緑色が鮮やかな草原ではなかった。
タクヤはぐるりとあたりを見渡し、確かにこの場は月島の診察室だと確認する。確認したとたん、知らず詰めていた息を吐いた。
「いろいろと、性急に進めてしまいましたね。申し訳ない。」
気が付くと、月島がタクヤの座する椅子の前で跪き、タクヤの手を取り、先ほどの不思議な空間で月島から強制的に目蓋を閉じられる前の、タクヤの身を案じたような心配そうな色を、その薄茶色に瞳に宿していた。
「永良さんにどうしても、私の仕事の手伝いをお願いしたくて、焦って私のペースで話を進めてしまいました。…落ち着きましたか?」
月島のいつもの穏やかな口調で静かに訊ねられ、タクヤはゆっくりとうなずく。
頭の中の混乱による、精神的な変調は今は、ない。
「今日はここまでにしましょう。」
そう言いながら月島は立ち上がる。
「また、明後日の午後に来てもらえますか?」
そのように続けた月島の言葉に、タクヤは弾かれたように顔を上げ、月島を見た。




