第12話 招待されてやる
翌朝、「淀みのない流れ亭」の一室は、鼻を突く悪臭に満ちていた。
発酵した果実と酢が混じったような、古漬けの匂い。
原因は、老騎士ドン・キホーテである。
昨夜、樽に頭から突っ込んだ衝撃で気絶した彼は、サンチョに引きずられて宿に戻ったものの、染み付いた臭いは、一晩経っても健在だった。
「ぬぅ。儂は一体……? 何やら、胸が悪くなるような酸っぱい臭いがするが」
「爺さん、マジで臭いんだけど。昨日のこと、覚えてないわけ?」
ベッドから起き上がったドン・キホーテが近付くだけで、反射的にサンチョはのけぞり、鼻と口を覆う。
窓はとうに開け放たれているが、入り込む涼風はあっという間に汚染されていく。
「さっさと湯を浴びてきなよ。これじゃあ、ハエすら寄り付かねえぜ」
「むむう。不本意じゃが、手入れがてら入念な洗浄やもしれぬのう」
「こういう臭いって、どうやってとるんだろうなー。あ、アレじゃね。洗剤に漬け置き?」
「馬鹿もん。儂の鎧を、泡漬けにする気か!」
ぷんすか怒りながらも、どこか元気がない老騎士キホーテ。
「まっ、頑張ってね」と、サンチョは気を直して、撮影機の手入れを始めた。布でレンズを拭うその指先は、ひどく丁寧だ。
その横で、リューファスは昨夜の封筒を指先で弄んでいた。
「フム、あの若造が置いていった品。これをどう見る、メッツァ?」
「ただの紙切れではないね、魔術的な拘束力がかかってる。具体的には特定空間座標へのベクトルを示す嗜好性ビーコンが内包され――」
「長い。まとめろ」
「……それ自体が、一種の鍵であり、地図でもあるってとこかな。面白い技術だ。それに、封蝋の紋章を見なよ」
メッツァは解析レンズ越しに、封筒を凝視。興味深そうに、口の端を吊り上げた。蠟には、槌と剣を力強く組み合わせた紋章が刻印されている。
「『ジーク魔剣工房』だね、間違いない」
「工房だと?」
「ああ、この古都ソダルムスを牛耳る三大勢力の一角だよ。武器製造から傭兵派遣まで手掛ける、この街の顔役。とんだ大物が接触して来たものだね」
魔術師の歴史において、工房は源流の一つ。
秘匿された特殊技術の坩堝。怪物蔓延る世界で生き残るために手にした“叡智の炎”の、揺らめく在り方の一つだ。
業と伝統を、脈々と受け継ぎながら、ある種の『カタチ』を世に産み出す。
「面白い。意図は行ってみればわかることだ」
「まさか、この怪しい誘いに乗るわけ?」
「余の『行きたい場所への招待状』などと、抜かしたのだ。舌の根が乾かぬうちに真偽を確かめるのは礼儀だろう。偽りであったなら、その舌を引き抜いてやるのも、な」
メッツァは嘆息する。結局、嘗められたらケジメを付けるの理屈だ。
「でも。まあ、そうだね。僕も昨日の男には聞きたいことがある。なぜ、僕らが『聖杯』を持っていると知っていたのか、とかね」
メッツァは首から下げる、虚数演算宝珠をちらつかせた。
『ベスタルの聖杯』を封じた、魔術触媒。これの情報があちこちに漏れているとしたら――。
「後顧の憂いは、一つでも取り除いておくべきだもの」
メッツァから発せられる声には、いつもよりも硬さがあった。
対し、ふふん、とリューファスはからかうように嗤う。
「魔術戦で後れを取ったこと、よほど気に入らなかったと見える」
「言ったはずだ、僕は研究者であって兵士じゃない。専門外の分野で優劣を競う趣味はないよ。……ないったら、ない!」
ぷい、と顔を背ける姿に、クツクツとリューファスは喉奥を揺らした。「若さよな」と囁き、ゆったりと立ち上がる。
「では、準備が次第……招待されてやろうではないか」
一行は宿を出た。
招待状をリューファスが手に取ると、封蝋の紋章が淡く発光を始める。
生物のように脈動し、進むべき路地を指し示す。されど、一行の目にしか映らないのか、行き交う人々は誰一人、その奇妙な光景に注意を払わない。
導かれるまま、一行は市場を抜け、職人街へと足を踏み入れた。
石畳の道は油と煤で黒ずみ、機械仕掛け設備の稼働音と、あちこちの工房から響く槌音が空気を震わせていた。
そして、この地区は一段と紫色の煙が濃い。
「やはり空気が悪いな」
時折、道端にうずくまる住民の横を通り過ぎる。その病んだ皮膚は、痛々しいまでに紫色に爛れていた。
――観察するリューファスは、なにも言わずに目を細めた。
やがて光は、古びた石造りの倉庫の前で、その指し示す動きを止めた。
蔦に覆われた壁、無造作に積み上げられた瓦礫で塞がれた入口。誰が見ても、打ち捨てられて久しい廃墟。
「どうやら、ここで行き止まりのようだが……」
「待ちなよ、リューファス。こういうのは大概、仕掛けがあるものだよ。この壁、よく見るとレリーフが……」
メッツァが壁に刻まれたかすかな紋様を指した時。リューファスはすでに、足元の瓦礫をこともなげに蹴り飛ばしていた。
ゴッ、という鈍い音と共に、人の頭ほどもある石塊が宙を舞う。
しかし、激突する寸前、石塊は陽炎のように揺らめき、壁の向こう側へと音もなく吸い込まれて消えた。
「なるほど、見せかけの擬態障壁か。小賢しい」
「なんだ、わかっていたのか」
「このような結界、珍しくもない。資格なき者を拒む扉だ。我々には既に通行許可が下りている」
こともなげに言うと、リューファスは壁面へと歩を進める。
水面をくぐるような冷やりとした不思議な抵抗の後、その姿は薄闇の中へと吸い込まれていった。
内部はがらんどうの倉庫にあらず。眼前に広がるは地下へと続く、巨大な螺旋階段。
下から吹き上がってくる風は、溶けた鉄と油の匂いを運んでくる。伴うのは、大勢の人間の気配。
絶え間なく何かが稼働する重い振動が、魔獣の唸りの如く足元から伝わってきた。
「おお。まるで深淵への誘いではないか、滾るわい」
呻く老騎士キホーテ。
確かに、英雄譚――騎士物語染みているかもしれない。メッツァは内心で同意した。でも、この旅は御伽噺ではない。
ゆっくりと。ゆっくりと階段を下りていく。
◎魔術工房
それは、神秘を科学へと塗り替える、知性の熔鉱炉。
ヴェールに包まれた古き幻想は、ここで容赦なく解体される。
不可解な『現象』は観測・解析され、数式に翻訳され、再現可能な『技術』として再定義されるのだ。
魔術師とは、宇宙に秩序と法則を見出し、掌握を試みる者。
なかでも、工房に纏わる者は“叡智の炎”によって、人類の脆弱さを克服せんとする。
自律思考する鉄の巨獣。騎士を人間戦車へと変える強化外装。虚数空間を演算する精密な宝珠。そして、使い手の意志に呼応する魔剣――。
すべて魔術工房の設計思想から生まれる。
師から弟子へと受け継がれるのは、祈りや血統だけではない。
幾世代にもわたる試行錯誤の膨大な記録と、それを体系化した独自の魔導工学理論。
彼らは法則そのものを鍛え、規格化し、時に量産する。
故に、工房が独占する一つの技術特許が、戦の勝敗、国家の興亡、人類の存続すら左右するのである。




