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第51話 生涯消えない痕を抱け

 瘴気が霧散し、次第に怨嗟の声が遠ざかる中、ヘカーティアの上半身は力なく倒れ、裂けた紫蛇の群体に半ば埋もれていった。

 血肉で汚れながらも、ヘカーティアの唇には安堵の微笑が浮かんでいた。


「よかった……あなたは変わらないのですね、リューファス王」


 使命を果たせたことへの心の緩みを、ヘカーティアは漏らした。


 ――元通りのリューファスと再会は出来るのか、きちんと元に戻せたのか。


「わたしが変わり果ててしまったように、あなたもそうならないかなんて、わからなかった。ふふ、だって、わたしは人の心が見えないんだもの」


 本当に重荷を下ろし、終えた。

 晴れ晴れとしていて、今にも消えてしまいそうなほど、満足げな笑顔だった。


 ふわりと、闘技場の外縁に黒衣の巫女たちが現れる。

 彼女たちは水晶剣セレスティンと同質のオーラ、即ち魂の炎で形作られた幻影だった。大勢の巫女の幻影が、リューファスとヘカーティアを見下ろしていた。


「これは?」


 トゥイードル冒険者のパーティらが驚愕して、辺りを見渡す。

 ダムとディーの目の前に、佇んだのは双子姉妹とそっくりな女性だった。


 慈愛に満ちた柔和な佇まいの婦人は、眩しいくらいの満面の笑みを見せる。嬉しそうに、婦人は口にした。


《あら、わたしの夢は叶っていたんだわ》

「……あんた、誰よ」


 ダムは不機嫌そうに言い返した。

 混乱したディーは姉に、ぎゅっと寄り添う。


 蘇生を繰り返してきた双子姉妹に、もはや過去の記憶は残っていない。


 双子姉妹は記憶を互いに補完(バックアップ)し続けてきたことで、一見、人格は保たれているように見える。

 が、元の自分と呼べる連続性は薄れ、確かなのは『大事な姉妹』という認識だけだ。


「よくわからないけど、ディーに近づかないで」

 

 素っ気なく、ダムは突き放した態度をとった。

 見ず知らずの婦人が、クスクスと笑ってから、今度はメッツァに向き直る。


《お願いね》


 頼まれたメッツァは、切なげに目を伏せた。

 鼻眼鏡をスッと直すと、高台から降りてヘカーティアの元へと向かっていく。


 外縁の朽ちた造形物が魂の炎に包まれ、大きな鏡として形を取り戻す。


 四方に現れた鏡が中央へ光を放ち、ヘカーティアを照らし出しす。すると、胸の奥に核となる『ベスタルの聖杯』が、浮かび上がった。


 聖杯とは名ばかりの黒曜石のように艶めく歪な結晶。金色のメッキで覆われていたそれは、600年の月日で本来の姿を取り戻している。


 最奥で封じられていた歪みの神器そのものだった。


 駆け寄ったメッツァは、息も絶え絶えのヘカーティアを見下ろすが、何も口にしない。

 言葉を唾と共に呑み込んでから、続いてリューファスへと目を向けた。


 そこにあったのは、メッツァの知らない顔だった。

 いつも嬉々として戦う、自分勝手な英雄の姿は、もうそこにはなかった。それでも、メッツァは言わねばならなかった。


「このままではヘカーティア様へのトドメが叶わない。呪詛を無尽蔵に貯めこんだ聖杯を、彼女から切り離さねばならないんだ」

「なぜ、そんなことがわかる」


 妻を更に痛めつけろというのか、声に押し殺した怒りが滲んでいた。


「今、この聖杯は呪いを力へと変換している。それを流し込み、ヘカーティア様を邪竜へ戻そうとしている。彼女はそれを必死に抑えているけど、耐え難い苦痛のはずだ」

「だから! なぜ、そんなことがわかるッ!」

「虚数演算宝珠は『ベスタルの聖杯』を元に創られた『安定した廉価版』――そして、僕がベスタルの子孫だから、だよ」


 思わず、リューファスは息を呑んだ。

 己の石化を解き、共に冒険をしたこの若者が、自分の血を引いている、と。

 

 暗い表情のメッツァは、それでも決意に満ちていた。理不尽な宿命への覚悟を、既に固めていたように。


「きみの水晶剣でなら、多分それが出来る。わかるでしょ」


 これをしなければ、ヘカーティアは永遠に死ねず苦しみ続ける。それがメッツァの結論だった。


「やってくれ、リューファス。僕が経路(パス)を断ち、聖杯を封じ込める」


 苦しげな喘ぎが聞こえる。

 ヘカーティアは自らの死のために、不死性を抑え込もうとしていた。

 なんという強さか。心の制御を緩めれば、いつでも楽になれるというのに。


「あなたに消えない(キズ)を付けてしまったわ。本当にごめんなさい、でも、それが嬉しいの。誰にも傷つけられない、その鋼の心にずっとわたしがいるんだわ」

「ヘカーティア。余は、お前のことを、お前と共にッ」

「やめて、揺らがないで。ごめんなさい、私が見たくないの。……そんなあなたを見たくないの。お願いだから、言わないで」


 ヘカーティアは、何度も首を振った。

 自らの決意が揺らぐのを、防ごうとするように。


 その想いが本音ではないと指摘できれば、どれほど楽だったことか。

 だが、それこそがヘカーティアの決意を踏みにじる行為だった。


「もう、本当はかつての自分の姿も思い出せない。今の私は、巫女たちの記憶からの再構成にすぎないの。……お願い、わずかでも美しいと思ってくれたのなら、そのままの私を心に」


 邪竜となった彼女の本質は、もはや人ではない。

 最期には必ず、世に禍をもたらす存在となる。


 たとえ、リューファスと共に眠りにつこうとしても、必ず肉体と魂を貪る。リューファスへの想いという枷を失えば、世界を食い尽くす怪物と化すだろう。

 だからこそ、跡形もなく滅するしかない。


 喉の奥から絞り出すように、リューファスは囁いた。


「ならば、なぜ余を蘇生させた。これでは、そなたに何も返せていないではないか」

「もう、十分よ。……あなたと再会したら、どんな言葉をくれるのかなって」


 未来に再会の可能性を見たからこそ、ヘカーティアは耐えられた。

 だが、その先は怖くて覗けなかった。


 声が震え、纏っていた神の威厳が崩れ、人としての儚い哀しみが溢れ出す。


「色んな事を想像したわ。罵られるの? 恐れられる? それとも交わす言葉もなく殺されるの? 邪竜だもの、当然よね。醜いと思われるかしら、あなたの目にどう映るのかしら? ああ、会いたいのに、全てが怖かった!」


 瘴気さえも、動きを止めたかのように凪いでいた。


「それでも、ただ会いたくて。会いたくて、数えきれない命を踏みにじり、この地を呪いの中心にした。託されたものを繋いだことを、ただ、褒めて欲しかった」


 その告白に、リューファスの胸は締め付けられた。

 怒りでも悲しみでもない。胸の奥から溢れたのは、深い喪失感と愛惜だった。


「だから、欲しかった言葉は、もうすべて貰ったわ」


 そんなことを言われてしまえば、もう贈れる言葉はリューファスにはない。


 目を瞑り、ヘカーティアは見た夢を思い出す。永い永い夢。


 また、巡り会いたい。燃え尽きることはわかっている。

 でも、どんな未来が見えてもきっと同じことをする。愚かだと思った有様の、その生き方を何度でも、ヘカーティアは選びたいと思った。


 確かに、未来は目に映ることが全てじゃなかった。


「もう一度、やり直せても、あなたと会いたいわ。……ライ、あなたの妻に」


 リューファスは微笑んだ。

 今、その名を呼ぶのはあまりにも、(ずる)いと。


「余の……生涯、忘れられない女となれ。ヘカーティア」


 そして、『妻を殺すための剣(セレスティン)』を振り上げて、最後の一振りを愛する妻へと下した。

 ――確かな手ごたえが、そこにあった。


 灰のように消えゆく、異形の女神。世界に禍をもたらす邪竜。

 美しく、いつも意地を張っていた愛しき妻。


 それを見つめることしかできず、目を離すこともできないまま。

 力なく立ち尽くすリューファスの耳に、かすかな声が届いた気がした。


(生涯消えない(キズ)を抱えて、傲慢(だいすき)なあなたのままで……生きて)


 それは錯覚か。

 気まぐれな風のように、何も残らない。香りすらも。


「ひどく、残酷なことを言う。だが、許そう。そなたが600年も想い続けてくれたならば、余の一生など安いものだ。余は……そなたの『お願い事』を一度だって――」


 それ以上、言葉を紡げなかった。

 ただ、深い嗚咽が漏れた


◎メッツァ

 本名メトリオス・ベスタル。

 フィンダール共和国、魔導学術大学所属の研究者。

 鼻眼鏡を掛けた茶髪の優男。キビキビ働く若手の魔術師。優秀な成績で大学を卒業。

 誰にでも友好的で人当たりはよいが、深くは踏み込まない性格だった。


 リューファス王の蘇生実験におけるプロジェクトメンバーであり、現代に蘇ったリューファス王の監視役で、担当教授に定期報告する役目を負う。

 虚数演算宝珠の扱いに長けた技術者。専門は数理系魔術であり、特に観測や解析に秀で、術式エンジニアとしての能力も有する。専門外でも、語学や生体学などにも一定の知識を持つ。


 ベスタル家の一員であり、血縁としては遥かに薄いがリューファスの子孫でもある。

 優秀ではあるが、女系家系であるベスタルにおいてはあまり重要視されておらず、記憶の継承も最低限しか行われていない。これは、本来のベスタルの術式に適性がなかったことも理由にある。

 解呪プロジェクトへの参加は、ベスタル家の意向。ゴーレム騒ぎの流れ以降、共に旅立つことになった理由もベスタル家の指示に従ってのもの。

 メッツァ自身は、リューファスの素性を知らされておらず、『もしかしたら』と言う疑念があった程度。始祖たちの時代に強い興味があったのも事実。一線を引いた振る舞いが、どんどん崩されていった。


 なお、メトリオスは、古代グラ語の測定(メトロン)に由来し、『慎重』や『中程度』を意味する名称である。

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