第48話 やっと、会えた
燻り狂える白獣が、剣を振るうさなか、幻のような女声が空間を満たした。
その声は確かに、場にいた全員の耳に届いた。
「――また、夢から醒めてしまったわ」
燻り狂える白獣は、透き通るヴォーパルブレードを振りかざす。
猛攻の前に、邪竜ジャバウォックは不可解なまでに無防備に剣を受け、ついにその首が落とされた。
重みのある首が一度跳ねて、転がる。
だが、その声は止まなかった。
「でも、いいの。どうせ、最後には……必ず悪夢に変わるから」
共に、ジャバウォックの身体が破裂した。
無数の紫蛇が臓物を裂くように這い出し、瘴気の巻き込みながら燻り狂える白獣に向かって殺到。
濁流のような蛇の群れを捌ききれず、硬質な白い毛並みが溶かされ、猛毒が体内へと流れ込んでいく。
「もう、あなた達に殺されてあげる時間は終わりよ、ヴォーパル」
蛇の群衆と化した邪竜の亡骸から、みるみるうちに女の上半身が姿を現す。
異形でありながら蠱惑的な美しさを湛え、白磁のような肌は艶やかに輝き、射干玉の光沢ある黒髪は瘴気に絡まれるたびに官能的な光を放つ。
儚げな睫毛の奥に潜む瞳には、底知れぬ狂気が宿っていた。
「……まさか、ヘカーティア、なのか?」
瓦礫に埋もれていたリューファスは、目の前の非現実的な光景に呆然としていた。
神殿の奥深くで600年もの時を待ち続けた妻が、まさか邪竜となっていたというのか、と。
「ああ、ようやく迎えに来てくれたのね、愛しい人。私はただ――」
泡沫に消えてしまいそうな、甘い声が返って来た。
夢幻冥府の女神のように佇むその姿は、邪竜から生まれたとは思えないほどの神性さを帯びていた。
その逢瀬を遮るように、燻り狂える白獣が吠えた。
「虚ろな執念に縋るその姿、哀れとしか言いようがない。この地に呪詛を集めた怪物め」
血染めの毛並みが勢いになびき、握るヴォーパルブレードの光がさらに強まる。
その輝きが、ヘカーティアの癇に障った。
「盗んだ王剣で、よくも。――英雄を気取るな、貴様らは薄汚い賊だ。先に、裁定を済ませてしまおう」
宣言と共に、透き通るヴォーパルブレードから光が失われていく。
燻り狂える白獣の目が、驚愕に見開かれた。
「我が剣は、お前の計画を打ち破るために勝ち取ったものだ! 恥ずべき点などない!」
「はあ、自分の正しさを疑わないか。……もういい、貴様はもういらないから」
蛇たちの中から現れた女神は、憂いを含んだ仕草で虚空をなぞる。
すると新たな紫蛇の群れが生まれ落ち、神殿内を埋め尽くしていく。
瘴気の濃度が一気に跳ね上がる中、深淵から兎人族の影が立ち現れる。
全身に奇妙な紋様を刻まれた影たちは剣を構え、真っ赤に濁った死者の眼光で、燻り狂える白獣を捉えた。
「汝、その罪を数えよ。殺し合いが好きなら、子孫の霊とするがいい」
女神の指が鳴ると、兎人族の影たちが一斉に動き出した。
淀んだ黒い剣を掲げ、燻り狂える白獣へと突撃する。
瘴気に満ちた剣の雨が降り注ぐ中、燻り狂える白獣はそのすべてを迎え撃とうとした。
「黙れ、命を賭けて挑んだ者たちの意思だけは、断じて穢させんぞッ!」
ヴォーパルブレードが閃き、影たちを斬り伏せるが、一人一人がまぎれもなくヘイヤ・ヴォーパルの子孫であり、類まれなる剣術の使い手だった。
先祖たちの哀れな姿に、白兎騎士のハレは涙を流す。
「やめろ……やめてくれ」
這いずりながら瘴気と紫蛇の海に近づこうとするハレを、メッツァが制した。
「止せ。……なんとなく、君達の先祖がなにをやらかしたか、わかった」
混沌とした状況下で、メッツァだけが冷静さを保っていた。
メッツァには、今起きている事態の全貌を読み解くだけの知識と能力があった。
「ヘカーティア様は『竜に至る』ほどの術者だったのか。そりゃ、女神としてすら名が残るわけだ。……伝説に誇張など一つもなかった」
ヘカーティアには、数えきれないほどの異名が残されていたが、王の妃であったにもかかわらず、『女王』や『女神』と形容するものすらあった。
東の地のあらゆる場所を見通し、人々の夜を守り、道を結び付けたという伝承。
『夜警の女神』、『女救世主』として、未だに祈りを捧げる民衆も多いだけでなく、神を信じぬと言って憚らない魔術師の中にさえ信仰者がいるヘカーティア。
その存在の真実が、今、眼前に現れていた
フィンダール共和国が成立したカラクリすら、おぼろげながら見えてきた。
自身がここに導かれた理由も。
マフェットから蜘蛛の糸が降りてくるのを見て、メッツァは静かに頷いた。
「さあ、上がろうか。ハレ」
力なくうなだれるハレに、メッツァはため息をつく。
(うなだれたいのはこっちの方だ。僕は、やるべきことが見えてしまったんだから)
それでも、ハレに抵抗されないのは助かると割り切った。
もともと、メッツァは他人に深入りする性分ではなく、果たしたいのは『マルシャの兄』の命を救うことだけだった。『白兎騎士ハレ』の心情など、どうでもよかった。
その間にも、燻り狂える白獣は次々と影たちを斬り伏せていく。しかし、剣を交えるたびに身を削られ、黒い剣が幾度も突き刺さる。
それでも、燻り狂える白獣は一向に剣を手放さない。ヘカーティアに一矢報いることを諦めなかった。
「――ああ、やはり。剣を捨てるくらいなら子孫を斬るか。ふふ、でも、手に入れた宝を捨てられる者など、そう多くはないものね」
ヘカーティアの声に失望の色はなく、むしろ諦めたような優しさがあった。
影はすぐに瘴気から再生し、また剣を振りかざして襲いかかる。無尽蔵に湧き出す兎人の亡霊たち――それは決して終わらない死闘の様相を呈していた。
「裁きは決まった。……修羅の道に堕ちた者よ、肉片に戻れ」
女神が指を鳴らすと、剣を振るっていた燻り狂える白獣の肉体が膨れ上がり、青白い裂傷のような亀裂が全身を走る。
次の瞬間、あっけなく血肉をまき散らして崩壊した。
解き放たれたヴォーパルブレードは、回転しながら飛来したかと思うと、リューファスの目前に突き刺さった。
◎邪竜ジャバウォック
東の空が褪せゆく夕暮れに、その名を囁かぬものはいない。
ヘカーティア――かつて『夜警の女神』『女救世主』と謡われし王妃にして、ベスタルの巫女たちが仰ぎ見た光。その女が、邪竜となり果てた姿に対する侮蔑的な呼び名。
すべて、瞳で未来を覗きこんだがゆえに。
失われし夫との約束を叶えるため、東の地に蠢く呪詛を、純潔の聖杯に注ぎ込み、一滴残らず啜り飲み干して、みずからを闇へと溶かしていった。
600年の満ち欠けを経て、呪いは都市を育む養分となり、レイラインを伝い、ベスタルの血脈を潤した。すべてはそれが、夫の蘇生に繋がると理解してこその行い。
死者たちの肉と魂を従えるほどの力を得て、滅びをもたらすことを防ぐため、みずから策を弄し、己が力を縛った。
邪悪なる軍勢には父という弱き存在を据え、仇敵ヴォーパルの剣に幾度となく討たれることで、闇の本能を抑え込んだ。
死より耐えがたき苦患の淵に沈みゆきながら、なお、その手は未来への糸を紡ぎ続ける。
約束の地平で夫を待つ、あの日の面影を夢見想いながら。




