バイバイ、ペイン
*いつも通り、少し精神的に嫌悪が湧く描写があるかもしれません。
ガキの頃、親父とおふくろがどっちも最低な人間で、長い年月をかけて離婚を決意し伯父に引き取られたとしても、友人の結婚式に出席するのが辛いとは思わない。
それが、幼い頃から恋をしていた初恋の人とのゴールだと語った彼を見ていれば
こっちも少し嬉しい気持ちになるぐらいだ。
その女の子と、小さな頃に遊んでいた丘のチャペルで結婚式、だなんて
あいつも粋なことをしてくれるじゃないか。
そんなことを思いながら、俺はチャペル内の長椅子に座って新郎新婦を待っていた。
季節は夏だ。6月の花嫁とは、仕事の関係でならなかったようだが
8月でもさして変わらない気がしている。
たとえ真冬だったとしてもそう思っただろう。
そうして黙っている俺の横で、秦岡はいつも通り、小銭を片手で遊ぶという癖を行っている。
じゃらじゃらとうるさかったが、流石に式の真っ最中にはこの奇癖も出まい。
「藤村、本当は結婚式なんて来たくなかったんじゃない?
今からでも退場したら?」
今まで同じく沈黙を貫いていた秦岡が急に言った。
視線はこちらも向いていないし、小銭遊びも止めなかったが、明らかに俺に言っている。
「大丈夫だよ。俺の結婚式じゃなくて、他の奴のだ。気にするもんか。」
「そうだよな。失敗するのも俺とお前じゃないから、どうでもいいよな。」
みもふたもない言い方に乾いた笑いだけを返しておく。
社会人として世の中に出て、初めて就いた印刷会社で秦岡と出会った。
精神的に病を持っているらしい奴を、物珍しいという目付きでひそひそ話す社員は多く当時の俺は「友達になってやらなくては」と使命感じみたものを感じて話しかけた。
結果的に言えるのは、別に秦岡は友達が出来ようが出来まいがどうでも良かったし
俺のその感情が本物だったのは一瞬で、あとは自己陶酔に近かったんだと思う。
秦岡の口からでるものは暗い話題ばかりだったが俺も無理に趣味の話なんかをするより、なぜかその方が落ち着いて聞くことが出来た。
「幸せになって欲しいとは、もちろん祈ってるよ。」
「ご冥福をお祈りします。あれと同じ類の言葉だ。」
「葬式でもこんな正装して出掛けるんだ。似ている感じがするのは、分かるよ。」
相変わらず、秦岡の言葉は後ろ向きなものだったが、気にせずに応答する。
じゃらじゃら、という音が、他の客人の話声でどこか遠くに聞こえてくる気がした。
「藤村のお父さんとお母さん、俺のお父さんとお母さん、どっちも赤い糸で出会ったかな。」
小銭遊びを一瞬やめて、そしてまた始め、そう言った秦岡は
古びた天井を見上げ、思い切り背凭れに背中を預ける。
「これから結婚する奴等も、運命かな。
で、ぱったり終わる。またつまらぬものを斬ってしまったって。」
「お前の所のご両親は円満じゃないか。そんなこと言ってやるなよ。」
「見た目に殺人犯だって奴は居ないのと同じで、円満には見せるよ。
他所の子が遊びに来たら、いきなり笑顔になってさ。
親父と喧嘩したあとで、物に当たり散らかして喚いてる時も
電話が掛かってくると急に繕う。あれさ、自殺だよね。じわじわ死んでくんだよ。」
「分かんなくもないよ。俺の所だって、そんな両親だったから。ただ、言いたいのはさ…。」
「”俺には藤村が居るから独りじゃない”、そうだね。」
いつも言い聞かせている言葉を復唱するものの、秦岡の言葉はいつも通り乾いていた。
鐘の音が鳴る。結婚式が始まる合図のようで、パイプオルガンの演奏が粛々と響く。
それに続くように現れる神父の影が、たったの一瞬だけフードを被っていない死神に見えた。
鎌を持たずに聖書を片手にやって来る。なかなか型破りな死神じゃないか。
横で秦岡は小銭をジャケットの内ポケットに仕舞い、ただその曲を拝聴している。
新婦の入場の時はきっちりと立ち上がって拍手を送ったので、安心した。
このままだと、長椅子に独りだけ座ったまま
違う世界の中で結婚式を終えるのではないかと思ったから。
ふと、横をもう一人の主役である花嫁が父のエスコートと共に過ぎると
ヴェールの下で微笑みが消えた。
拍手がはるか彼方にとんだ気がする中で、聞こえた。
「さっちゃん、ごめんね。」
「もういいよ。さっちゃん。」
少しばかり頼りないが、彼女への愛だけは誰にも負けないだろう新郎が
義父から、その宝物を受け取る。レースの手袋に包まれた手をひいて。
「俺のおふくろも、あれやったんだろうな。」
秦岡の方へ顔を寄せ、俺は嫌味たらしく言う。
奴が不幸せの呪文みたいなのを繰り返すように、俺もこうして詮無いことを訴える。
だから、関係は成り立っているのだろうとも思う。現に秦岡は頷いて応えた。
「幸せですって気取りながらやったろうね。」
目には目をって言葉の意味を知るのはかなり早かった。
親父がおふくろを引っ叩けば、おふくろも包丁片手に警察に「殺されかけている」と通報する。
どちらかが怒りに燃える時、ほくそ笑みながら。
らしくもなく、パリを模した飾りをよく買う父母だったから
錆びたエッフェル塔のミニチュアを持って、毎度思った。
ここから、ふたりで飛び降りちまえ。
永遠に愛を誓います、とでも言って。
そう思った時には、新郎新婦の初々しい接吻に周囲がいっそう大きな拍手を送っていた。
披露宴だの二次会は費用がないと言っていたから
これから挨拶周りをして終わることだろう。
組んだ腕を離すまいとする新たな夫婦一組は、まず互いの両親へ挨拶に行っている。
「これから始まって、いつか終わります。同じ墓で。そう言うのかな。」
「そう約束出来ればいいもんだけど、うまくいかないこともあるだろうな。
そこはあいつ等で乗り越えるだろ。」
「だったら神の前で宣誓なんかしなきゃいいのに。約束なんてさ。」
言葉は寂しい筈なのに、その時だけ秦岡は笑った。祝う訳でも皮肉でもなく、ただ笑った。
きっと、花嫁の”さっちゃん”を想っていない訳じゃないんだろう。
遠く、新しい旦那に何か一言告げた花嫁は、ドレスの裾を掴んで
ヒールの音も高く、こっちへと駆け寄って来る。
何事かと見る者はふしぎと居ない。
秦岡と彼女は、古い付き合いなのかもしれない。
彼女は泣きそうな―――いや、もう涙を零しながら、秦岡にこうべを垂れた。
「ごめん、さっちゃん。ずっと謝りたかったんだ。
でも、タイミングが分かんなくて、そうしたらずるずる…ごめんね、さっちゃん。」
「分かってるよ。もう泣かないで、大事にしてもらってね。さっちゃん。」
「ごめんね、ごめんねぇ…。」
秦岡と彼女がどういう間柄か、何があったか、俺は何も知らない。だけど、何となく分かった。
小さな嗚咽と涙を零す花嫁は、きっと理解している。
何度謝っても、”さっちゃん”への贖罪にはならない、と。
やがて、秦岡が彼女を新郎へ帰す為に言った。
「ちょっと、いつものじゃらじゃらして遊びたいから、ひとりにしてよ。
友達とも話したいし。あとでまた、会いにいくよ。」
「…分かった。」
じゃらじゃら、の辺りで、また目端から大粒の涙が零れたが
罪の大きさに耐えきれなくなったように、花嫁は走り去った。
「さっちゃんとさっちゃん。早智と紗千香。
これこそ、赤い糸だったんじゃないか?」
「妹はそんな風に見れないよ。」
妹―――そんな話は聞いたこともない、と、視線を送ると
秦岡は内ポケットの小銭を取り出し、また片手でじゃらじゃら遊ぶ。
「うちもさ、小さい頃は暴力沙汰が家庭であったんだ。
親父と喧嘩したら、その後はおふくろ、俺と妹に根性焼きするの好きでさ
あいつが吸ってるタバコでやんの。親戚が俺達を引き取るって言ったんだけど
あんまり裕福な家じゃないから、二人同時は無理だって
絶対に迎えに来るから待ってて、って言って、さっちゃんを連れてったんだ。」
「約束、守ってくれなかったんだろ。」
「まあね。病気で亡くなられたから、仕方がないよ。
それに、俺も大きくなったら抵抗するかもって、おふくろは手を出さなくなったし。」
「逃げよう、って思わなかった?」
俺が大昔、両親へいつも思っていたことを秦岡にも問う。彼は横へ首を振った。
「俺さ、そのタバコの匂いがすっごい好きだったんだよね。
そうするとさ、親父のお遣いで買いに行くのが楽しみで、根性焼きされる時も
紗千香と違って、嫌いじゃなかった気がするんだ。
そうしたら、逃げようとか思わなかった。変だろ。」
「ああ、変だな。正直分からない。
…でもさ、誰かに幸せになってくれって思うの、理屈じゃないだろ。」
こちらを振り向いた秦岡は、再び笑った。今度は苦そうなものを浮かべていた。
「自分のことは呪うくせにね。誰かには幸せになれ、だって。馬鹿じゃねえの。」
久しい妹の姿を遠くから見る兄の視線は、暗闇に落ちていくなかでも
一筋の祈りを捧げている。それが、無責任でも。
多分、秦岡と紗千香さんは少し思い出話がしたいに違いない。
そう思って、俺は何も言わず早々にチャペルを出て、少し歩いた所に置いた車へと向かう。
その時、ジャケットの中に仕舞い込んでいた携帯が、バイブレーターで着信を報せた。
手を突っ込んで出してみれば、液晶画面には「伯父さん」の名が浮かんでいる。
こんな季節だ。久々に、釣りにでも誘いに電話してくれたのだろうか。
通話ボタンを押して、耳元へ携帯を当てる。
「伯父さん?どうしたの、いきなり電話してきてさ。」
『夏樹君、結婚式は終わったかい?』
「うん。今からアパートに帰ろうと思っててね。」
そうか、と重たく言う伯父に、悪い報せのようだと理解する。
「伯父さん、何かあった?」
『…すぐに話していいか迷ったんだが、いつかは言わなくちゃならん。
夏樹君、さっき伯父さんの母さんから電話がきて、美代が亡くなったって聞いたんだ。飲酒運転で、自分で事故を起こしたんだと。横には義彦も乗っていて、どっちも…。』
義彦と美代――いつだったか、親と言っていた二人の名前。
それが飲酒運転で事故を起こして死んだ。本当に情けなくなる終わりだ。
想像を通り越すぐらい、気持ちは冷めていて寧ろ軽蔑すら浮かぶ。
これから、伯父が何を提案するかは分かっていたから、俺は先手をうっておく。
「葬式には出ない。ごめん、伯父さん。」
すると、電話の向こう。優しい伯父さんの咽び泣く声が聞こえてくる。
甥の心ない言葉にショックを受けたのではなく、もっと違う意味の―――。
『すまん、夏樹君。妹達の所為で、いや”私達”の所為で、君の大切な時間を台無しにしてこんな結末にしてしまった。本当にすまん!』
電話の向こうで、崩れて、額を地べたに擦り合わせ土下座する伯父さんの姿が思い浮かぶ様な
謝罪と心遣いは、痛い程、胸に沁みる。
紗千香さんと同じ、伯父さんも許されないと思ってるのだろう。
いや、許される訳がないとすら感じているかもしれない。
それでも、謝るしかないのだ。
それは無責任なものではない、俺を想っているからこそなのだ。
だから、俺が言えることはたったひとつだった。
「伯父さんの所で育った日は、どんな時も幸せだったから、謝らないで。
今度また釣りに行こう。」
それだけ言って、通話ボタンを押して着信を切る。
これから伯父の家に向かって、彼のまたか細くなっただろう肩を抱きしめてやろうと考えながら。
踏み出す時は、始まりも終わりも関係ないのだ。
今日、秦岡の傍から妹が旅立って始まった。
今日、俺の遠くで父母が死んで終わった。
何の因果かは分からないが、ただ、冷めていた気持ちは何となく穏やかになっていった。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、伯父さんの家に行ってから
はじめて釣りに連れて行って貰った時のことだった。
あの時、俺は道具を伯父さんと持ちながら
微風と川のせせらぎに、興味ない顔をしながら、実際は胸を高鳴らせていたんだ、と。
おわり
遠い昔に執筆した、珍しく日本を舞台とした話。
海外物とはまた違う描写に戸惑いつつ、書いていた作品です。