先生 前編
隔週投稿です。
よろしくお願い申し上げます。
夜道を女性が一人で歩いている。
先程まで友人と二人きり、居酒屋で呑んだ帰りである。現在時刻は夜中の2時を回ったところで、いつもは人の気配や声が聞こえてくる住宅街だというのに静まり返っている。車一台分ほどしかないこの道路には、狭いから車通りも少ないために街灯も電柱に取り付けられている者だけであるため間隔が広い。すると、手に持っていたスマートフォンが震えて女性は僅かに身を強張らせる。画面には滝のアイコンの隣に“タキ”と名前の欄にカタカナで表記され、その下にメッセージが表示されている。
“家に着いたぜ。ヨウは着いたー?”
先程まで一緒にいた友人、タキからのメッセージだ。
女性は少し立ち止まり、返信をする。
“まだ。つか、早く寝なよ。大学午後からだけど、辛くなるぞ”
文字を書き終え送信したと同時に既読のマークがつき、直ぐに返信が来る。
“あいあいー。お風呂入ったら寝る。おやすみ!”
“おやすみ”
既読は付いたが返信は来ない。ということは先程言った通りお風呂にでも行ったのだろう。
“ヨウ”と言うのは女性のあだ名だ。正直、自分の本当の名前にかすりもしていないが、名前の漢字一文字が“ヨウ”と読むことができるのでそう呼ばれている。本名よりも気に入っているため、大学の他の友人達へも“ヨウ”と呼ぶようにお願いしている。
ヨウと呼ばれているこの女性は夜の道を歩くことに対して恐怖心はあまりない方であるが、それでも本能的に腰が引けるような感覚がずっとある。ヨウはタキと別れた駅からタクシー代節約のためずっと歩いてきた、だが、あと5分ほどで着くという時になって「やっぱりタクシーを捕まえればよかった」と後悔し始めている。というのも、駅前通りはコンビニエンスストアもあるし、飲み屋の耀もちらほら点いている。しかし住宅街になってくると家に明かりが灯っておらず、更には家が塀で囲まれていることもあり十字路がとても多い。
例えば、そこの曲がりがどの奥から血まみれの人間が立っていたり、何かが手を伸ばして私の腕を掴むとかそういう害を及ぼすようなことを想像してしまう。とはいえ、ヨウはその手の番組は好きな方で、放映されているものをリアルタイムで見てしまう。
―そう言えば、この前見たホラー番組も後半殆どUFOとかだったな・・・
ぼんやりと思いながら3つ目の十字路をまっすぐ進む。ミステリーを探求する番組は心霊現象とかそういうものの尺が段々と減らされUFOやUMAなどといった未確認生命体の方が主流である。人以外の存在を視認することができる術を失った現代はこの宇宙や地球に神秘を探るのに忙しいということだろう。正直、興味ない者にとっては見れるテレビ番組が少なくなってしまうことに気落ちしてしまうのだが。
ホラー番組が好きであり、夜道が怖くないとはいえ自分に対して危害がある事については勿論恐怖心はある。
ヨウは、街灯の下で立ち止まる。そして、そこに在るものを静かに見つめた。静かに見つめることしかできなかった。
曲がり角の傍に何やら白い靄がある。恐らく見間違いであろうと動きづらい右腕を上げて目を擦るが、その靄は消えない。
幼少期、姉と一緒にホラー番組を見ていて番組で心霊写真が取り上げられており、ヨウが幽霊だと思って視えている者と別の人物の顔がアップになることが殆どであるため、もしかして霊感がある野かなと彼女は思っていたのだが、普段過ごしている時はそのようなものを見たことがないために、やはり違うのだと考えていたのだが、いや、これはもしかするのかもと内心焦っている。
―いや、きっとそこ角には防犯の為に灯りを持っている人が立っているに違いない。
ヨウは幼いころに霊感あった方がかっこいいな、などと思っていたのだが、いざこういうことがあると信じたくないのが人間である。恐怖で震えるというよりも、どうしたらいいか困惑しながらその場に立ち尽くし考える。
―大きな声でも出してしまおうか。
ここで大声を上げれば、相手がもし人間だった場合は逃げるかもしれないし、ここは住宅街であるために声を聞いて誰かが起きてくるかもしれない。家の灯りが付けば、心に余裕が生まれるだろう。だが、ヨウは首を振ってその考えを否定する。大声を出して闊歩すれば確かに心の安寧は保たれるであろうが、恐らく近所の噂の種になってしまうだろう。
ほら、あそこのアパートの女子大生。夜中奇声を上げながら歩いていましたよ、なんて噂になり奇異の目を向けられる日が来たのならば引っ越しを考えなくてはならない。同じ大学の人もここ周辺にアパートを借りているため、変な噂が立ってしまえば今後数年間の大学生活が危うい。それは流石にヨウは許容できないし、面の皮は厚くない。
電話は?と手元にあるスマートフォンを見るが、時間が時間であるため実家の両親や姉に電話をかけることが憚られる。タキは、と一瞬考えたがそれこそ論外である。というのも、ここで電話をかければ夜道が怖いのだと暫くからかわれるだろう。彼女とは幼馴染であるためそれはいつもの事だと割り切れるのだが、タキは見た目が可愛らしく彼女を狙う男性は後を絶たない。しかもあの見た目で今まで誰とも付き合ってこなかったということに、俺が最初の恋人になると躍起になる人も多いため、きっかけを作ろうとタキの会話に耳をそばだてている人もいるのだ。だから変にタキにからかわれたりすると直ぐに大学中に噂が広まる。タキ自身は大好きなのだが、それだけはいただけない。
ヨウは大きなため息をついて、膝を曲げたり準備運動を始める。一気に駆け抜けることに決めたのだ。アルコールが回ってしまうかもしれないが、嘔吐する嫌悪感よりも今あるこの得体も知れないものへの恐怖心が勝ったのだ。
クラウチングスタートとなると、後ろから誰かが来た場合に恥ずかしいので小学生のかけっこのように走る姿勢を取る。肩に下げていた鞄は短く持って肩に挟む。そして心の中でよーい、と呟いて、どんっ、と走り出した。
ヒールで非常に走り辛そうであるが、彼女は運動が得意な方であるので速い。その白い靄の傍を駆け抜ける瞬間、なぜか彼女は自身の体がゆっくりとした動きの様に思えた。たった数秒が、倍以上の体感になったのだ。
誰かにくんっと右袖がが引っ張られる感覚があって悪寒が走る。そしてとうとう、
「ひゃああぁぁぁぁぁぁぁああぁぁ!!!!」
彼女は叫んでしまった。
右腕を乱暴に降り、目をつぶって絶叫したまま駆け抜ける。夜道を絶叫しながら走る女は周辺の住民からしてみてはホラーそのものであろうが、恐怖が娯楽となっている現代においてそれはどうか許して欲しいものだ。なりふり構わずアパートまで走り抜けて、やっとの思いで辿り着いたころには息が上がっていてアルコールも回ってしまっている。吐き気が込み上げて来て近くの草むらに吐いてしまった。
「うえぇ・・・」
やはり酒を飲んでから走るものではないなと反省しながら、ヨウは周囲を伺う。どうやら住民が起きている様子も、人がいる気配もしない。足で土に既に染み込み始めている自分の吐瀉物に土をかぶせて、心の中で「大家さんごめんなさい」と謝る。
お世辞にも新しいとはいえないアパートの所々錆びた外階段を登り、ヨウの部屋がある203号室へとふらふらとした足取りで辿り着く。だが彼女の表情はしっかりとしている。吐いたことですっかり酔いがさめてしまい、眠気も飛んでしまったようだ。だが、そろそろ寝ないと明日起きることができなくなると大きなため息をついてドアノブへと手をかける。だが、ドアノブは回らない。
「あーそっか。鍵」
部屋を出るとき当たり前の事であるが鍵を閉めている。思ったより動揺しているらしいと鞄のチャックを開いてごそごそと中を漁る。だが、鍵がない。
「うそでしょ!?」
悲鳴のような声を上げてヨウは鞄の物を全て廊下に広げて一個一個チェックしていく。
メイク直し用の化粧品、メイク落とし、財布、薬用の小さなポーチ・・・いつもの外出セットが入っており、手に持ったままのスマートフォンにも引っかかっている様子はない。鞄の中の小さなポケットにも、裏地に穴が開いているわけでもない。それにそれほど大きくない鞄から見つけられないはずがない。記憶を巡るが、最後に見たのは居酒屋を出て電車に乗り、駅を出た直後。心配性のヨウはしっかりと鍵があるかどうかをいつも確かめるのでそれは間違いない。酒に酔っていると言っても、意識はしっかりとしており見間違えることもないはずだ。それに、鍵を見た後しっかりと鞄のチャックは閉めた。それ以降はスマートフォンを取り出した以外に鞄を開いていない。
スマートフォンを取り出した際に落としたか、先程走った時に弾みで落ちてしまったのだろうか。落とした音はしなかったはずだと思いだそうとするが、あの誰かに腕を引かれる恐怖と自分の絶叫で音を聞き逃したのだろうか。
幸い連絡手段はここにある。大家さんに電話をすれば恐らく鍵を開けて貰えるだろう。だが、もし落とした鍵を誰かが拾っていたら?あの白い靄が本当に生きた人間で拾っていたらどうしようと不安が染みのように広がっていく。
「取り敢えず、一度戻ろう」
正直一人家の前で夜を明かすのも怖い。それよりだったら鍵を探しながら駅前まで歩き、漫画喫茶か24時間営業の飲食店に滞在した方が幾分ましだとヨウは思った。落としているならそれを拾えば高齢の大家さんを今の時間に起こさなくても済む。ここ数十分の間で何度目かのため息を履いてから頬を叩き、よしっと意気込んで私は早足で元来た道を戻っていく。
大丈夫、大丈夫、何かあれば戻ってこようと心の中で呪文のように呟きながらヨウは戻っていく。ドキドキしながら白い靄がいた場所に戻ってくるが、そこには白い靄はいなかった。
何だと肩透かしを食らった気分になる。とはいえあれは見間違いであった可能性が浮上したことにより、安堵のため息を漏らしてゆっくりと街灯の下へと歩いて行くが、明らかにそこには何も落ちていない。
今日は駅に行ってどこかで夜を明かそう。そして大家さんに電話して、明日の午後にでも鍵を変えてもらえるように話をしようと肩を落とした直後、シャラランとどこからか水琴鈴の音が聞こえて来た。間違いない。それは私の鍵についている水琴鈴の音だ。普通に売っている物ではなく、故郷にある昔から行っている神社が特別に作っている物であり、周辺で同じ音色を聞いたことがない。持ち去った犯人がまだ近くにいるのだとヨウは確信し、音が聞こえてきた方へと走り出した。
すっかり恐怖心が失せ、犯人に会ったら一度殴ってから警察に突き出してやると意気込みながら走っていくが、音はゆっくりだというのに近づく気配がない。一体どういうことなのだと不安になりながらも、無我夢中で彼女は走っていく。すると途中で一気に音の元へ近づいたように音が目の前で聞こえて来た。
「え?」
思わず目の前にいる存在に驚きの声を上げる。
暗闇に光る赤い目、狐のような顔をし獣のような体でありながら昆虫の足を持ち爬虫類の尻尾を持っている。ヨウよりはるかに大きな体躯を持つ異形の存在は、何と形容することができない奇形をしている。その異形の向こうで水琴鈴が遠ざかっているが、それを気にしている余裕などなかった。その赤い目は明らかにヨウに対してよくない感情を持っている様だ。
にぃっとそれは笑う。狐のような顔であるながら人間のように口を曲げて笑う姿に一気に危機感を持つ。逃げろ、逃げろと頭の中で警鐘を鳴らすが体が心に反して動かない。開かれた口からは白く空気を含んだ涎がしたたり落ちて、道路を濡らしていく。次の瞬間、その大きな口はヨウを飲み込まんと大きく開いて異形の黒々と血が染みついた様な喉奥が私の視界に広がった。
何も分からず、ヨウはその闇を見つめたまま呆然とした。
「カワラ、ザラメ」
低い男の声が聞こえた直後、視界いっぱいに広げられた喉奥の向こうで夜空が見えた。異形はけたたましい声を上げてその首を地の落としながらも苦し気に蠢いている。すると二つの人影が異形の体の上に立ち、話をしている。
「うっげぇ首落としても動いてるんだけど・・・どんだけ食べたんだよ」
「言葉を失う程食べたのでしょう」
「それって何人くらい?」
「さぁ?聞いてみてはよろしいのでは?」
「・・・おーい、何人食ったんですかー?」
「ザラメ、いい加減にしろ」
二つの人影の内小さい方が体の方へ声を掛けるような仕草をしているが、そこへ最初聞こえて来た低い声がぴしゃりと言うと背の低い方は「はぁい」と反省の色が見えない声音で手を上げる。すると私の後ろの方からため息をつく声が聞こえ、ゆったりとしている足音が段々と近づいて横を通り過ぎた。こげ茶色で耳が隠れるさらりとした髪を持つ端正な顔立ちの男性。その出で立ちは現代ではあまりお目にかかれない格好だ。昔の書生の様な格好、白で丸首のスタンドカラーのシャツに藍色の着物、黒い袴、茶色いブーツという出で立ちである。黒縁の眼鏡をかけているので正しくは分からないが、見たところ年齢は学生のそれではなく、20代半ばほどにも見えるし若い30代のようにも見える男性である。
よく時代劇で見かける様な提灯を持っており、それをヨウの傍を通り過ぎる際に彼女の傍らに置いた。
「少し待っていてくれ」
先程までの冷ややかな低い声ではなく、落ち着かせるような気づかいがある声音だ。ヨウの返事を待たずに彼は未だに苦しんでいる異形へと歩み寄っていく。傍にある提灯の灯りで少し安心したのか、誰かが来たことに安心したのか分からないが段々と震えていた体が落ち付いていく。
「首を斬ってしまいましたが、こちらであっていますか?」
「これが依頼されていた怪異だ。それにしても話で聞いていたよりも大きくなっている。また罪を重ねたというわけか」
「それじゃもしかして懸賞金とかかかってる!?」
「よく考えろカワラ。今まで殺してきた異形に漫画で見る様な懸賞金がかかっている事なんてあったか?ないだろう?最近読んだ漫画の影響を受けすぎだお前は」
「いやないけどぉ。もしかしたらとかあるじゃん?ほら、沢山人やらなにやら食べたんだったらさぁ。ザラメもそう思うでしょー?」
「・・・」
「何か言ってよ!!」
「先生。このアホに構っているよりも彼女の為にも早く処分してしまいましょう」
影で良く見えないが、背の高い人影がこちらの方を向いているような気がする。だが、嫌な感じはしない。
「それもそうだ。そら、2人はどけ」
「ほーい」
「はい」
間延びした声と凛々しい声が重なり、人影はすぐに上から降りる。もう1人の“先生”と呼ばれたその人はゆったりとした足取りで落とされた首の方へと近寄る。すると、その首が声を上げる。
「すまない!助けてくれ!とても痛いんだ!監獄だろうと地獄だろうとどこでも我慢するからどうか、どうか命だけは取らないでおくれ!!一生かけて償うから、ほら!」
獣のような顔であるというのに、饒舌に男の声で話すその姿に背筋が凍る。滑らかに動くその口はただただ気味が悪いとヨウは顔を背けたくなる衝動に駆られるが、非日常的な光景に対する好奇心がそれを赦してくれない。彼女は先生と呼ばれた男を見つめるが、暗がりにある表情は固く冷たい。かといって、獣を見下しているような視線ではない。獣を見ているが、獣を通して別の何かに怒りをいだしている様だ。
先生と呼ばれた男は何も言わずに表情とは相反し獣の頭に優しく触れる。ヨウ側からは見えないが、その人の表情を見て獣は自分の訴えが通じたのだという様な安堵しきった表情を浮かべているようにだ。すぐに獣を退けるのかと思いきや数秒間何もしないことに、まさか獣を助けるのかとヨウが先生と呼ばれた男を不安げに見つめる。
「葦原中津国へ神留坐す意富加牟豆美命―」
遠い昔近所の神社で聞いた祝詞のような言葉が聞こえてくる。すると「やめろ!やめろ!」という男や女、老婆など幾数人が喚いている様な声が聞こえて来た。どこから声が聞こえてくるのかとヨウは獣の方へとみると、それは獣の口から発せられており口の中には数え切れないほどの人間の口があった。ヨウは思わず小さく悲鳴を上げて口を覆う。
「霊験灼然、魔祓いの祈祷、いざや」
夜だというのに先生と呼ばれた男性の周囲に白い光の粒が現れ空を漂い始める。一体どこから漂っているのかと視線を巡らせると、それは何の変哲もない道路の下から湧き上がっているようだった。その光に照らされて獣の顔が見え、ヨウと目が合った。どきりと心臓が恐怖で跳ねて、息が詰まりそうになる。すると獣が大きく口を開いて首だけでこちらの方へと飛びかかってこようとしていた。だが、それは先程獣の体に乗っていた背の高い人影に阻まれる。細く長い棒状の物が深々と上顎と下顎を貫通し口を地へと縫い付ける。獣の汚らしい叫び声が周囲に響き渡るが、周囲の家々の人々が起きる気配は全くない。叫び声は「痛い痛い」と言っている様なのだが、先程ははっきりと各々の声が聞こえていたのだが今度は重なって周辺に響き渡り、流石にその気味悪さからヨウは吐き気が込み上げてしまい口元を抑える。
光の粒が更に強く光を放ち、口を縫い付けている物が光に照らされそれが一体何なのか良く見えてしまう。
鈍く光り波紋が美しい刀―銀色であるだろうが淡く青く見えた。何故このような住宅街に物騒なものを持った人間がいるのだろうかと思考が固まってしまいそうになる。
光は一層強く成り、獣を包みこみ肉や血が焼ける臭いと音が聞こえるとけたたましい何重にも重なった断末魔を上げて光の中で消し炭になっていく。光が弱まっていくのと同時に断末魔は小さくなり、光が消えて闇夜の静寂が再び辺りを支配するとカランと何かが落ちる音だけが響いた。男性はそれを拾い上げると、怪訝そうな声を上げる。
「まだ白さが残っている」
「えぇぇ!!あの人数で!?だって1週間前の依頼時点で53人だよ、53人!!やっばっ」
「今、退治できてよかったです。これ以上では私達だけでしたら無理だったでしょう」
「ほんとだよー最近怪異強くなって来てるね。んもう!うざいったらありゃしない!」
「勘弁してほしいことだ。俺達の仕事は簡単で、依頼数も少ないほどいい・・・さて」
男性が振り返ってこちらへ歩いてくる。ヨウの隣にある行灯に照らされて顔が明らかになる。
―たった一言いうならば、イケメンだ。しかもかなり。
肌は滑らかでまつ毛は長い。だからといって中性的というわけでもなく、男性的に眉目秀麗な顔立ちをしている。まるで美術作品のような造形であり恐らく芸能人と言っても「あぁやっぱり」と誰もが腑に落ちてしまうほどだ。そこでふとヨウは、あぁもしかして今目の前で起こったことは何か映画の撮影か何かなのだろうか、もしかしたらよくある一般人舞い込み型のどっきりかもしれないという期待を持ってしまうが、鼻につく先程転がっていた獣のようなものの血液の匂いがその考えを赦してくれない。
差し出された手も美しいとすら思ってしまい、段々と目の前にいるこの男は本当にいるのだろうかと訳の分からない不安に駆られながら手に触れると、確かに体温も感じられほっと安堵する。彼の体温が高い方で良かった。もしここで彼の手が陶器のように冷たかったのならもう一度叫び出してしまう自信があった。
節のある男性的でしっかりとした手を使って立ち上がると、男性は思ったより背の高い人物であることに気が付いた。ヨウも162センチと女性にしては背の高い方であるが、それより頭一つ分以上背丈が違う。更に間近で見てその瞳の美しさに圧倒された。
顔立ちは日本人であるが、その瞳は翡翠をはめ込んだ様な色をしていた。僅かに発光しているようにも見えるのは行灯の所為なのか、私の錯覚なのか。すると男性も驚いたように目を見開く。
「青い瞳とは珍しいな。異国の血が混ざっているのか?」
「え、あ、あぁいえ・・・」
男性から手を離してヨウは自分の瞼に触れる。
生まれも育ちも日本であり、父も母も祖母も祖父も純粋な日本人であるヨウだが、家族全員瞳は青みを帯びている。彼女以外は深海の底のような昏い青であるため間近で見られない限りは気付かれないのだが、私だけは純然たる青に近く昼間であれば遠くでも分かってしまう。髪も黒だというのにどうして瞳の色が青なのかは祖母祖父始め両親も誰も知らない。特にそれで虐められるとか弄られるとかそういうこともなかったので特段私は気にしたことがなかったのだが、改めて指摘されると何とも言えない気持ちになってしまう。
そんなヨウの様子に気が付き、背の高い人影が男性の元へと歩いてくる。
「先生。見知らぬ女性にいきなりそちらの質問は失礼にあたりますよ」
「ん。あぁそうか。そうだな、すまない」
素直に頭を下げる男性にヨウは両手と首を振りながら「いいえいいえ大丈夫です」と慌てて答える。すると行灯に近づいてくれたおかげで背の高い人影がどのような人物なのか見ることができた。
銀色に見える白い髪は短く切りそろえられ、女性であろうが一見男性にも見えてしまうほど精悍で中性的な顔立ちをしている。瞳は闇のように黒々としており髪とは正反対だ。染めているのかと思ったのだが、そのようには見えない。白いブラウスに黒いパンツというビジネススタイルであるが、異様なのは腰のベルトに吊り下げられている80センチ近くはある太刀。朱の漆塗りがされた鞘にはめられたそれは行灯の光で艶やかに光っている。そのまま視線を下げると、靴はヒールの高い黒いショートブーツを履いていることに気が付く。男性と身長が大差ないようにも見えるのはそれのお陰なのだろう。
「失礼。お姉さん。先生は知的欲求が高いので気になったことは質問したがるのです」
「ホント大丈夫なので。気にしないでください」
すると「でもさ」ともう1人がヨウへと近づいてくる。見た目では性別が判断しかねる美しい顔立ちで、亜麻色で癖のある肩まである髪を編み込みのようなハーフアップに仕上げており、体の線が分かる首元にビジューがあしらわれた赤色のトップスにウエストをリボンで結んでいるデニムで脛ほどまでのワイドパンツ、その下にはスウェード素材の黒いショートブーツを身に着けている。くりっとした目でヨウへとずいっと顔を寄せるとこてんと首を傾げた。
「どうして君、行灯もなしにこんな夜道歩いていたの?とぉっても危険行為だし、襲ってくださいって言っている様なものでしょ?」
「あ・・・んど・・・?へ?」
困惑するヨウに対して、カワラと周囲の人に呼ばれていたその人は眉を顰めると離れて腕を組む。
「ん~??まぁいいや。君の家まで送っていくよ。いいでしょ先生?」
「構わない。善は急げ、行くぞ」
先生はヨウの隣にあった行灯を拾い上げながら「住所はどこだ?」と尋ねてくる。慌ててヨウは住所を告げると、先生の表情が一気に曇る。そして、カワラとザラメへと目配せをすると彼女等も首を傾げた。その様子を見てヨウは戸惑いながら「な、なんですか?」と尋ね、先生は短く答える。
「行けば分かるだろう」
先生を先頭にヨウ、カワラ、ザラメで歩いて行く。その最中、周囲の景色は変わりないというのにヨウは漠然とした違和感を抱きながら彼の後ろを追う。なぜか、嫌な予感がして心臓が早鐘を打つ。数百メートルのその距離が永遠と感じられるほどに、不安は膨れ上がっていく。
ふいに、先生が足を止めてヨウの前から体をどけた。目の前にある光景を見て、ヨウはその場に崩れ落ちた。
「うっ・・そぉ・・・」
ヨウの目の前にあったのは、空き地であった。しかも最近まで何かが建てられていた形跡もなく荒れ放題で草が伸びきっている。一体どういうことなのだと状況を飲み込めずにいると、後ろから寒気がして振り返る。するとザラメがヨウを見つめながら刀に手をかけているのだ。短い悲鳴が喉の奥から漏れ出す。
「この空き地にアパートとかそういうものが建ったことはない。一般的に考えられるのは2つ。君が嘘をついているか。君が人ではなく怪異でそう思い込んでいるかだ」
向けられる明確な敵意に体が自然と震えてしまう。殺されてしまうかもしれないという最悪の想像にヨウは口を開く。
「ちょ、ちょっと待って!わ・・・私は本当に!」
ヨウは口に出すが、自分がこの場所に住んでいたという証拠がないということに気が付く。自分の正しさが段々と黒く塗りつぶされていくような感覚に支配されて、上手く思考が回らない。「確かに…ここに住んでいたのよ」蚊の鳴く様な小さな声で項垂れながら彼女は呟く。その瞳からは涙が零れ落ちていき、アスファルトを濡らしていく。だが、泣いていてはこの状況を打破することは出来ないだろうと腹を括り、命乞いでもなんでも使用と涙を拭って顔を上げた瞬間、そこに在るものを見てヨウは声を上げる。
「後ろ!!しゃがんで!!」
一番に反応したのは先生で怒号のような「伏せろ!」という声に対し瞬発的にカワラとザラメが反応する。何か刃のようなものをヨウを含めて全員の頭上を掠め胃のあたりがひゅっと冷えるような恐怖が後から現れる。
「一体どこから・・・」
焦りを帯びたザラメが周囲を見渡すが、そこには何もない。だが確かに、何かがあると先生もカワラも感じ取っているようで辺りを警戒している。その中でただ一人、ヨウが怯えた表情で空を見上げ指を差す。
「あ、あれが見えないんですか?」
他3人が指を差した方向を見るが何もない。だがヨウの表情には嘘などついているようではなく、ただ純粋に先生達を助けようと見えている物を伝えているようである。
ヨウには確かに視えているのだ。彼女の目だけが異形の存在と捉えている。先程の獣のような形とは違い人の形のようであるが、明らかに人ではないことは見て取れる。長い黒髪を持つ女性のようであるが、その目も口も耳ですら赤い糸で縫い付けられてそこから絶えず黒い液体を流し続けている。10本はある手と同じくらいある足が器用に電信柱に絡みつき、鎌のように変形している手で遊ぶようにして空を切っている。
『あぁ視えている。視えているんだねぇ。憎たらしいが、とぉっても甘そうな体だねぇ。どろりと溶けかけている果実のよぅなあまぁいにおいがするねぇ』
頭の中に響く頬を舐められているかのような気味の悪い粘性のある女の声に短くヨウは悲鳴を上げた。その声もヨウ以外誰も聞こえておらず、ただ何もない空へと怯えている彼女の姿を見て3人は眉を寄せる。彼女の怯えようは演技などではなく、確かに恐怖の対象となり得るものが危害を及ぼそうと舌なめずりをしているような姿である。
『その目、飴のように口に含めばどんな味、するんだろうねぇ?・・・・ヨコセェ!!!!』
声と共に異形の者がヨウへと飛びかかる。頭を抱えてヨウは悲鳴を上げて身を縮こませる。その瞬間何者かに抱きかかえられたことにより、髪は僅かに着られるだけで済んだ。恐る恐る瞼を開くと、すぐ目の前に美しい顔があり恐怖が一気に消え去り思わず「顔がいい」と呟いてしまう。するとそう言われた先生はふっと口角を上げて「知っている」と自慢げに言うのだ。どことなく安心感のある先生の腕に抱かれながらヨウは恐怖で足がすくみながらもただ真っ直ぐ異形を見た。
「気丈な娘だ。嫌いじゃない」
楽し気にそう言った先生はヨウへと顔を近づける。
「あれは怪異というんだが、怪異はこちらに害をなすときは必ず実体化するが普段は霊体化と言って普通視えない。今も俺の目には視えてはいない。だが、お前には視えているんだな?」
「・・・はい」
「よし。失礼する」
肩に触れられていた手がするりとヨウの左目元に伸びて瞼の上から眼球に触れる。今までない経験に鳥肌が立ち「ひっ」と悲鳴を上げるが「動くと怪我するぞ」とぴしゃりと言われ動かないように体を緊張させる。するとこちらを見ずに先生は「いい子だ」というものだから、顔もよければ声もいいな、などヨウが思ってしまう始末だ。
先生の手から何かが流れ込んでくる感覚と、彼の手と目が同化している様な感覚が同時に起こり困惑するが別段嫌でもないし気持ちも悪くない。
「カワラ、ザラメ。指示する」
「あいあいさ」
「了解です」
ザラメは刀を抜き、カワラは何やら指がない手袋を嵌めると戦闘態勢を取る。
『意味ないねぇ。霊体はお互いに干渉できない。無理だねぇ』
「お前にとっては残念な知らせだが、時代は進化してるぞ。ザラメ、そこだ」
先生は怪異と呼ばれている存在の方を指さし、ザラメは返事をせずにそちらへ走り刀を薙ぐ。腕が数本胴体から離れて音を立てて地面に転がり、切り口からは黒い液体が吹き出し夥しい量の液体で道路を濡らした。
「ぎゃあぁぁぁぁぁああぁぁぁぁ!!」
響く様な声ではなく曇った確かに耳から聞こえる絶叫が周辺に木霊していく。「うでがぁ!うでがぁ!!」と子供の様に泣き喚き切り口に手を触れる。抑えるような仕草をするものの、液体は吹き出したまま止まらない。数秒後、液体の勢いが衰えて異形が肩で息をする。そのまま奇声を放ちながらヨウの方へと手足で走ってくるが「カワラ」と短く名前を呼ぶと、カワラは「はぁい」という気の抜けた返事をして先生とヨウの前に立つと、易々と怪異の頭を掴むとそれを地面に叩き付ける。肉のつぶれる音が聞こえ、アスファルトにはひびが入る。
先生がするりとヨウから離れると、何かがずるりと剥がれるような感覚がヨウにはあったがそれよりも目の前で頭を抑えつけているカワラに驚きそれどころではない。ただやんわりと触れているようであるのだが暴れる怪異を抑えつけている。怪異は鎌でザラメを切り裂こうとするのだが、それはザラメの刀によって阻まれる。どうやら、全員怪異の姿は見えている様だ。
先生は抑えつけられている顔の傍に腰を落とした。
「かけまくも畏き大神方の慈悲など与えない。狡賢い怪異、消滅するがいい」
すっと先生が怪異に触れようとするが、怪異はけたたましく笑う。
「待ちなよ。そうすれば条約に違反するだろぉ?人間は我等と違って肉体が滅びれば自我が喪失する。裁定され命を取られたくないだろぉ?だから―」
「生憎だが」
怪異の言葉を遮ると、今度は乱雑に怪異の頭を鷲掴みにして笑みを浮かべる。
「既に許可を貰っている血筋でね」
「!?貴様・・・能美家の人間かっ!!」
怪異の体が闇夜でもよくわかるほどの漆黒の光を帯びる。それは炎のように揺らめいて、怪異の体を徐々に黒く変色していく。喚く間もなく怪異を黒く染め上げると先生は怪異から離れて二人に告げる。
「ということで。ザラメ、カワラ、壊せ」
「りょーかい」
「はい」
カワラは拳で、ザラメは剣で怪異だった黒い塊を切り裂くと、砂のように砕け散った。黒い砂と化したそれは突如として真っ赤な炎に包まれ、地面から這い出て来た爪の長い赤黒い手によってアスファルトの中に吸収されて行ってしまった。それを静かに見つめる先生、カワラ、ザラメの後姿を見ながらヨウは「あぁ、私は別の世界に来てしまったのだろうな」と他人事のように思ってしまった。