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一般向けのエッセイ

大竹伸朗展 感想

 東京国立近代美術館でやっている大竹伸朗展を見てきました。

 

 大竹伸朗というアーティストに関しては、私は全然知りませんでした。ただ、(展覧会に行きたいな)と思って調べたら良さそうなので、行きました。

 

 元々、美術館に行こうと思ったのは、テレビでゲルハルト・リヒターの特集を見たからです。ゲルハルト・リヒターの特集を見て(やっぱりアートはいいな)と思いました。 

 

 何故アートがいいと思ったかと言うと、いいアーティストには追求するものがあるからです。追求するテーマというか、意味というか、道というか、そういうものがいいアーティストには必ずあります。ただの好き嫌いでやっているわけではありません(一見、そう見えても)。

 

 そういうアーティストの道を見て、(ああ、これはいい)とか(これはちょっと違うんじゃないか)とか言うのが私の人生の楽しみになっています。もしかしたら、人生の最大の楽しみかもしれない。

 

 「そんなくだらない事があなたの人生の楽しみなんですか?」と言われたら、「まあ、そうですね」と答える他ありません。他にやる事もない暇人だからでしょう。

 

 良いアーティストには追求する道があります。そうすると、こっちにも道があるので、自分の頭の中で、自分の道と相手との道を比べ、闘わせて、「対話」を行えます。(これはちょっと勝てねえ)とか(それだったら、こっちの方がいいんじゃないか)とか。そういう対話が自己の内面を豊富にしていきます。そういう対話の活動が面白いのです。

 

 ※

 大竹伸朗に関しては私は全然知りませんでした。ただ、ゲルハルト・リヒターによく似ているな、と言うのと、ネットで見た限り良さそうに感じたので、展覧会に行く事にしました。

 

 私は事前に、「大竹伸朗」で検索して、ユーチューブで動画をいくつか見てから行きました。これは、良かったように思います。(ああいう人がこういう作品を作ったんだ)というイメージが湧いてきて、良い経験になりました。

 

 大竹伸朗はどういうアーティストかと言うと、前衛芸術的というか、抽象画などを描く人です。また、世俗的な、オールドパンクというか、古びたポップな広告とか、そういうものを作って作品を作ります。人々が眉をひそめるような、世俗的な、けばけばしい色使いなんかをあえて好む作風です。

 

 私は本来、そういう世俗的なものをこれみよがしに人に見せようとするアーティストが嫌いです。村上隆なんかは嫌いだし、評価もしていません。ただ、大竹伸朗に関してはぱっと見た感じ、けばけばしい感じですが、嫌に感じませんでした。

 

 実際、美術館に行って、作品をじっと見ていくと、大竹が基本的な美術的教養は持っている人だと感じました。展覧会のはじめの方にはいわゆる普通の絵、うまい絵が飾られています。それには大竹の基本的な力量が現れていて、(ただ崩すだけの人じゃなかったんだ)と思いました。

 

 大竹伸朗の作品は、わざとゴテゴテとした、ヘタウマというか、キッチュな作品が多いです。それは「うまい絵を描こうと思えば描ける人」が、段々、自分の求めているものの変化に沿って、崩していった結果だとわかりました。だから、力量のない人が、技術の無さをごまかす為に崩していったのとは違います。そのあたりはピカソも同じでしょう。

 

 展覧会で私が一番気に入った作品は145番の作品です(数字はうろ覚えですが)。写真撮影可だったので、写真を撮ったんですか、スマートフォンのカメラで撮ると残念な画像になってしまったので、画像は載せません。言葉だけで説明しようと思います。

 

 145の作品はおそらく、駅か何かの風景をトレースして描いているのだと思います。ベースに、カクカクとした建物がいくつも見えており、そこに人間らしき影がそこここにあります。ただ、建物も人間も全てがうすぼんやりと、曖昧に描かれていて、印象派的に全てがぼやかれされています。

 

 印象派の絵画というのは、抽象画と違って、まだ現実の物を描くというリアリズムが残っていました。風景を描くとか、人物を描くとかです。その外界が、画家の主観によってぼやかされている事に特徴があります。

 

 これが更に進むと抽象画になります。要するに画家の主観そのものが客観になります。そうなると、画面から奥行きが消失して、画家の内面だけが色合いや形象だけで絵として現されてしまう。抽象画は、絵画の最先端とも言えますが、これは作者の主観が最後の現実となってしまい、非常に苦しい作風だと私は考えています。

 

 抽象画のポロックは自殺同然の事故死をしているし、私の好きなマーク・ロスコは自殺しています。自己の主観を絶対化する事は、文学や哲学同様、絵画においてもどうしようもない行き止まりを体現する事になってしまいます。

 

 大竹伸朗も抽象画を描いています。抽象画も素晴らしいですが、私が感銘を受けたのは先に言った145番の絵です。

 

 何故、私が145の絵に感銘を受けたのか、自分で分析してみます。145の絵には、街の風景が下地として残っていました。そこから、大竹伸朗は手を加えて、建物や人をまるで、全体が幽霊であるかのように薄く、ぼやけたものに変化させています。

 

 私は最初、絵を見た時、直線の多い抽象画だと思いました。ですが、よく見ると、建物の姿や人の姿がうっすらと浮かんできました。

 

 私が145の絵に感銘を受けたのは、私自身の好悪と関係あるように感じます。私は完全な抽象画よりも、客体的な物が残っている方が好ましく感じます。しかし、画家が、世界の物質性から疎外されて、自らの主観に立て籠もらなければならない必然性もわかっています。

 

 145の絵は、客観的なものと主観的なものが、独特の緊張感を持って現れているから、私のような鑑賞者にはちょうど良かったのだと思います。

 

 それと、その絵においては、街の風景や、人はまるで幽霊のように淡く描かれていました。全てが霧とか、雨に溶け去っていくようなそんな雰囲気です。私はそこに自分の思想を介在させて見たのだと思います。つまり、この世界の人々は本当に自分自身を生きておらず、影のようなもの、極めて淡く透明な存在として、透明な都市を徘徊している…そのようなイメージが、画家の手によって実際に目の前に現出させられた。そう感じたからこそ、私は145の絵に感銘を受けたのだと思います。

 

 ※

 大竹伸朗の動画を見ていたら「コンセプトなんて偉そうな事を言うな!」というような事を言っていました。また「人は意味で物を見ようとするから、意味を外して物を見る」という事も言っていました。

 

 いずれも、アーティストとしての哲学としては、納得できるものです。(そうだろうな)とも思いました。これに関しては私自身の思想と共鳴するような形で話してみましょう。

 

 先日、雨が降りました。雨は上がったのですが、雨上がりの夜の街は、街灯や店の光を跳ね返して、妖しく、美しく存在していると感じました。

 

 私はそんな風に感じました。私のまわりでそんな風に感じた人はほとんどいなかったでしょう。私が、雨上がりの夜の街を(美しい)と思ったのは、私が、街という一つの世界から外れる存在だったからではないかと思います。大竹伸朗的に言えば「意味から外れていた」存在という事です。

 

 街というのは、一つの機能です。塾がある。パチンコ屋がある。スーパーがある。住宅がある。風俗店がある。事務所がある。全て、何らかの機能とか、目的を持っています。

 

 そして人も、そうした所に足を向けるには何らかの形で目的を持っています。客としてサービスを利用するか、労働者としてサービスを与える側か。タイプは違えど、人々は街の機能に参与する為に、存在しているのです。

 

 しかしそのような機能とか、目的とかいう方向をいくら進んでも、街そのものの美しさは見えてきません。街は、何かの為に存在しています。ですが、何らかの拍子で「何かの為」の「為」が外れてしまいます。すると、街の存在そのものがくっきりと見えてきます。実存的な、不可思議な存在としての街、人が見えてきます。

 

 そうやって見えてきた存在としての物、街、人。そういうものがアートの原資になるのではないかと私は考えています。私が、塾から出てきて自転車を漕ぐ学生の姿を、街の風景に調和した美しい物だと考える。その時、私は、家に帰るとか、塾に向かうとか、労働するとかいう確定的な目的を失っており、だからこそ、家路につく学生らを風景の一部として観照できたのでしょう。

 

 私は『ただ』街を見ています。それゆえに、私には街の美が忽然と見えてきた。私が遅刻していて、急いで職場や学校に向かっている存在であるなら、私の目に周囲の風景の美、その存在は決して浮かんでは来なかったでしょう。

 

 大竹伸朗が言っているのも、そういう事であると思います。「意味を外して物を見る」というのはアーティストにとっては基本と言ってもいいでしょう。意味を概念と考えると、人はあまりにも典型的な概念に囚われています。

 

 一般の人からすれば、大竹伸朗のようなアーティストの作品は「意味がわからない」し、「つまらない」でしょう。ですが、大竹伸朗は、そういう「意味」を外した物の手触りや、感覚性を大切にしようとしているから、一般の人がわからないのは当然です。そもそも、わかるという概念を越えたものをアートは目指しているわけだから、「わかりやすいアート」はそれだけで駄作と言っていいはずです。

 

 ※

 大竹伸朗の作品全体に現れているテーマとか、コンセプトは一体なんでしょうか。

 

 大竹は「テーマ」とか「コンセプト」とかいう概念を嫌っているので、愚問なのは承知の上で問うています。私は画家ではないので、言葉を使うしかありません。結局はテーマとかコンセプトとかいった概念に寄り掛からざるをえない。ただ、概念の構築それ自体が一つの形象として、ある価値を放つように意識はしています。

 

 大竹の作品の特徴としては、人が見捨てているもの、気にもしないものに目を留める、というのがあります。大竹は反逆児的な素質があって、多くの人々が気にもとめないゴミのようなものを拾い上げ、それをアートにします。

 

 ただ、彼自身も言っていますが、それが「エコ」であるとか「政治」になるのも嫌っています。単に「好きだから」という事なのでしょう。このあたりのバランス感覚もよくわかります。要するに、大竹伸朗という人は根っからのアーティスト、芸術家という事です。あくまでも芸術家として、人が見捨てているものに価値を見出しているのであって、それを政治とか何らかのわかりやすい概念に還元したくないという事です。

 

 ゴミのようなものに価値を見出すのと平行して、古いものを作品の中に取り込むというのもの特徴です。それも、過去の伝統、権威を帯びた古いものではなく、人々があっさりと捨てて顧みないものを利用しています。それが古いポスターだったり、マッチ箱だったりします。

 

 大竹はそういうものに愛着を見出しています。だから、大竹が作り上げた物が、高値で取引される事自体が一種の矛盾だと言う事ができるでしょう。そもそも、人が捨ててなんとも思わないものに価値を見出して芸術作品としているのが大竹伸朗という人の哲学なのだから、その作品をまた高い金を出して買って満足するというのは、そもそも大竹の作品を理解していない証明になってしまうからです。

 

 私も自分のエッセイでよく「美術館のガラスケースの中だけに美があるのではない。美術館に向かう道すがらの、人が目に止めない草花にも美がある」と言っています。こういう哲学は大竹の言っている事と重なる部分があるかと思います。ただ嗜好が違うので、私は大竹のようなけばけばしい方向は取らないというだけです。ですが、大竹伸朗という人のやりたい事はよくわかるし、納得できるものです。

 

 ※

 あとは物質性というものに触れて終わろうと思います。

 

 大竹の作品には、立体的な作品が多いです。絵でも、ゴテゴテと色々なものを貼り付けて、立体的にしている物が多かったです。

 

 これは「物」性への指向と言っていいかと思います。これはそれほど難しい話ではなく、物質の持つ手触り、感覚、ごわごわした感じを大切にしているという事です。

 

 だから、大竹がデジタル的なものを嫌うのは当然です。スマートフォンの画面だけ見てわかっているような事を言っている人間を嫌うのも当然です。実際の手触り、肌触り、決して心地よくはない音や匂い、質感、そういうものをもう一度現代人に喚起させたいという欲望が、作品には感じられます。

 

 そういう物の手触りは時間と共に忘れ去られていっていますが、画家とか彫刻家のような人にとっては、それこそが一番大切なものですから、そうしたアーティストが本質的には現代的な潮流と合わないのは当然だろうと思います。

 

 AIやデジタルが、アーティストに寄与する事があるとすれば、例えば3Dプリンターで部品を安価で簡単に作れるとか、インターネットで共同作業者と連絡を取り合うとか、部分的な事に限られると思います。アートは人間が自分の手を使い、自分の感覚で作り上げないと意味がないので、その為にAIやデジタルが役に立つ事はあるでしょうが、その本質を上書きする事はないと私は予測しています。

 

 そういう事を大竹伸朗の作品を見ていて、改めて思いました。アーティストというのは一種馬鹿みたいな存在で、「アート」という美名だけが垂れ流されているのが今の状況ですが、それに反して本当のアーティストは絶滅危惧種になっています。そういう状況の中でも、自分の手と感覚だけで「ものづくり」をしているアーティストがいたと知れて、今回の展覧会は良かったし、勉強になりました。人も少なく、快適に見られるのでまだ見ていない人にはお勧めです。

 

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