8.レオンの運命の番
レオンに抱きしめられて梨香は驚きに息が止まりそうになったけれど、それ以上に悲しく思った。日本は彼の母国ではない。この街に来て間もない彼だから、どこかへ逃げ込みたくても、逃げられる場所がないんじゃないか。
そして人目を避けて、静かになれる場所を求めた結果行きついた所がこんなに寂しいものだったとしたら、それはとても放って置けないことだと思った。
「レオン......」
梨香はレオンを抱きしめ返したかった。自分より大きなこの人の体を抱きしめて、悲しみを分かち合いたかった。でも、それは梨香が赦されることなのだろうか? 〝友人〟として、どこまで踏み込んでいいものだろう。
時間にすると5分にも満たなかった。梨香がどう声をかけるべきか悩んでいる間に、ふいにレオンは梨香から離れた。
「......申し訳なかったね。ありがとう。心の整理がついたから、もう大丈夫だ」
レオンは普段通りの顔をしていた。梨香を見上げる青い目も澄んでいる。
「この時期がもともと嫌いだし、雪も降ってくるしで参っていたんだけど、折悪くイギリスから良くない報せがきてね。余計に最悪な気分だったんだ」
「……良くない報せって?」
「聞いてもどうせ嫌な思いをするだけだよ。だから教えるつもりはない。きみをここまで付き合わせてしまったのに、説明ができなくて悪いけれど」
「それは良いよ」
「そう? それなら安心した」
レオンは立ち上がって、近くの自販機に向かった。
「ゔ〜っ、冷えるね。こんなに寒い中で外の公園にいたのはよく考えてみれば馬鹿だったな。暖かい飲み物を買うけど、きみも飲む?」
「……いらない」
「そう言わずに。ココアがあるよ。きみ、好きだろう?」
そう言ってレオンは梨香の分のココアを買った。柔らかい物腰だったけれど、それは明確な拒絶だった。レオンは本心を隠して王子様の役を被ってしまったのだ。
「はい、梨香。俺に付き合ってくれたお礼だ」
ココアを差し出してきたレオンを梨香はひたと見つめ返す。
「……私、もうちょっとレオンと一緒に居たい。一緒に居てもいい?」
レオンは笑顔を深めた。
「同級生がこんな日に公園にいるのは異様だったよね。頭大丈夫かって心配になる気持ちも分かるよ」
「……私はそんな風に思ってない」
「そう? 俺だったら思ってしまうかもなぁ」
レオンは梨香に強引にココアを渡した。そして公園を出て行く。梨香はどうすることもできないから、彼の後を追った。
「レオン。レオンは今からどこに行く気なの?」
「家に帰るよ」
「……嘘つき」
「まぁさすがにバレるか。あの部屋には帰る気になれないって言っちゃったもんな。……アリシアの家にでも行くよ。どうせ夕飯を誘われていたからね」
「……」
「俺の言葉が信用できないなら、後からアリシアに聞いてみればいい」
レオンは梨香の最寄りのバス停まで来ると足を止めた。丁度茶色いバスが道路の向こうからやってくるのを、梨香はレオンと並んで見つめていた。
さっきまでは今までにないほど近い距離で触れ合っていた。それなのに……どうして一線の距離を引こうとするんだろう。
バスがやってきて、彼女たちの前で停車する。その時に吐き出された排気ガスの黒さは、梨香が今抱えている悲しみとよく似ていた。彼女は折り畳み傘をレオンに差し出す。
「……せめて傘をさして帰ってね、レオン。オレンジ色だけど、パッと見た感じは変じゃないから」
「イギリスではこれぐらいの雪で傘なんてささなかったけど。……いいよ。それできみが安心するって言うなら」
ありがとう、と言ってレオンは傘を受け取る。
バスに乗りこんだ梨香は座席に座り、窓の外にいるレオンを見る。彼は微笑み、手を振った。
エンジンがかかったバスがブルンッと震えて発車する。レオンが遠ざかっていく。雪景色に映えるオレンジ色の傘が見えなくなるまで梨香はそれを見つめ続けた。
□■□
数日後、梨香は職員室で担任から資料を受け取った。
「春藤は成績がいいし、最近もよく頑張ってるから先生はいい感じだと思ってるよ」
「ありがとうございます」
褒められたのが嬉しくなってニコッと笑う。礼を言って先生の机から離れて、梨香は渡された資料に目を走らせた。梨香が一番気になっているのはバース性の項目だ。やはり、Ωは不可とされている所が多かった。
しょんぼりとした梨香はあまり前方を注意していなかったから、その時誰かにぶつか梨香けた。
「あ、ごめんなさい……。ってなんだ、レオンだったの」
「なんだ、レオンだったのって。お世話様だなぁ」
レオンは目を細める。
……あの日以降、梨香とレオンはいつも通りの関係か続いている。むしろあの雪が降った日に起こったことは夢だったんじゃないかと思うほどだ。二人は職員室を出た。レオンは現代文の教員から過去の小テストをもらっていたらしい。
「梨香は先生から何をもらったんだい? 浮かない顔をしていたけど」
「学校や学校法人が紹介してる、ボランティア活動の募集用紙をもらってたんだよ」
「ボランティア……? 日本の学生にはあまりそういう活動は浸透してないって感じてたけど」
「うん、そうなの」
「へぇ。それなのに梨香は奉仕活動に勤しんでるって? 本当お人好しなんだなぁ」
「もう、そんな棘のある言い方をしなくてもいいでしょ。……。私ね、将来は国際協力機構で働きたいの」
隣で歩いていたレオンが梨香をチラと見やる。
「だから今のうちから色々活動して、経歴を作ってるところなんだ。……ただね、バース性で引っかかっちゃうんだ」
そう言いながら梨香は今一度資料を見つめる。でも、「Ωは不可とする」と書かれた文章はいくら眺めても変わってはくれなかった。
「宿泊の必要があるボランティア活動は、募集要項の時点で、未成年のΩはダメって書かれている事が多い。仕方がないことだと思うんけど、少し凹むなぁって。……あっ、ごめん、愚痴になっちゃった」
「愚痴になったっていいだろう」
と、レオンは言った。
「それを聞かされたって、俺は構わないよ」
レオンの横顔を見て、梨香は好きだなぁ、と思ってしまった。
「……私、Ωじゃなければ良かったのに」
梨香は視線を下に落とした。
「……」
「Ωじゃなくて、せめてβになりたい」
そうすればレオンから漂ってくるこの優しいフェロモンの香りだって分からなくなって、レオンに惹かれる事もなくなるはずだから。
梨香とレオンは、共に美術室に入った。同時に始業チャイムが鳴る。ギリギリ間に合ったようだ。
その日の美術の授業の課題は模写だった。校内でお気に入りの場所を探して、時間いっぱいまでその場で絵を描いていいらしい。アリシアが画材を持って立ち上がる。
「梨香、一緒にどこがいいか探しに行こうよ」
「うんっ」
「えぇ。こんなに寒いのに。どこに行こうっていうんだい?」
「うーん、中庭とか?」
「へぇ」
「レオンも行こうよ。この学校で好きなところとかないの?」
「好きな場所はもちろん、美術室さ」
明らかに嘘だった。寒い中、わざわざ動くことが面倒らしい。
梨香は一応昴にも目を向けた。
「昴君はどうする?」
「僕も好きなところは美術室にしようかな。暖かいもんね」
「そっか。じゃあね」
梨香とアリシアは手を振って美術室を出て行った。男二人だけになって、一瞬静かになる。しかしすぐに昴が笑顔を浮かべて身を乗り出した。
「春藤さんってさ、健気だよね」
一拍置いて、レオンは昴を睨んだ。
「あんなに懸命に君に向かって、君だけのためにフェロモンを出しているのに。どうして応えてやらないんだい? 何かの縛りプレイ?」
次の瞬間、昴は皮膚が痺れるようなレオンの威圧を受けた。しかし彼は好戦的に笑った。ついついスリルを味わいたくなるタイプなのだ。
「あはは。怒らないでよ。ただ興味を持っただけだよ。僕は強いαが囲っているΩを横取りしようとするほど馬鹿じゃない」
「囲っている……?」
「うん。君はあの子をぐるぐるにフェロモンで囲ってるじゃないか。並のαならみんな気づいてる。まさか無自覚かい?それなら傑作だけど」
レオンは口を引き結んでしばし黙った。そして画材道具を持って立ち上がる。
「あれれ。行っちゃうのかい?」
「たった今、ここが一番不愉快な場所だって分かったからね」
そう言い捨てて離れていくレオンに、昴は笑顔で手を振った。
□■□
コートを着込んだ梨香とアリシアは結局中庭には行かず(寒いから)、食堂から見える花壇を模写の対象に選んだ。食堂は片面がガラス張りになっていて、ガラスの向こうは園芸部が育てている花が沢山ある。少し横を見れば校庭も見渡せた。
しばらく二人は花を描いていたのだけれど、ふいにアリシアが言った。
「あのね、梨香。少し踏み込んだことを聞いていい?」
「なぁに?」
「レオンのこと……。……梨香は、レオンのことが好きだったりする?」
心臓が大きく跳ねた。梨香は視線を下げて動揺を悟らせないように努めた。
「えっと……友達として……」
アリシアも顔を上げずに手元のデッサン用紙を見つめている。
「……あのね。本当は私が言っていい事か分からないんだけど……レオンにはね、レオンには、運命の番がいたんだ」
「うん。知ってるよ」
「え?」
「耐寒登山の時にレオンに教えてもらったから」
アリシアが梨香を見た。見開かれた彼女の目から、次の瞬間ダッと涙が流れた。
梨香は仰天した。
「えっ? え? アリシア、どうしたの?」
「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! ごめんね……、だけど私、安心しちゃって……」
「安心?」
アリシアは顔をくしゃくしゃにして涙を拭った。けれど後から後から溢れてきて、止められないようだ。彼女は嗚咽を交えて言葉を重ねた。
「レオンは……、レオンは、梨香に説明ができたんだね。やっとレティ―シャさんのことを、誰かに話せるようになったんだね。……良かった。本当に良かった。レティ―シャさんが死んじゃってから、レオンは抜け殻みたいになっちゃったから、すごく怖かったの。……すごく、怖かった。レティ―シャさんのことは勿論悲しかったけど、それ以上に、運命の番を喪ったらαはあんな風になっちゃうんだって、私、ショックだった。もうレオンは元に戻れないんだ、って思ってた」
梨香は呆然とした。理解が追いつかなかった。
運命の番を喪った?
雪が降るあの日、公園のベンチで、独りぼっちで佇んでいたレオンを梨香は思い出していた。彼が抱えている空洞のような哀しみに触れてしまった気がして、梨香は震える手でアリシアの肩に手を置いた。
「待って。待って、アリシア。違うの。私、そこまでは教えてもらってない」
「……え?」
「運命の番がいるってことだけしかレオンに言われてないの。ごめんね、もっと早く止めるべきだった」
アリシアの顔がさぁ、と青くなった。
「どどど、どうしよう。私、レオンの許可なく全部ペロッて喋っちゃったよね」
「えっと、えーっと……一緒にレオンに謝りに行く?」
「この話で事後承諾は怖いよぉおっ」
「あ。ここに居たのかよ、梨香、アリシア。中庭じゃなかったのかい?無駄に校内を歩き回るハメになったよ」
「きゃーーーっ!」
「いや、うるさっ」
梨香とアリシアが飛び上がって驚くのを見て、レオンはドン引きした様子だった。しかしアリシアを見るとすぐに顔を顰める。
「何。どうしたんだ、アリシア?」
「うっ、レオン……。その、ごめん」
「何が」
「……レオンに相談せずに、レティ―シャさんのことを梨香に喋っちゃった。……喋っちゃいました。ごめん。本当にごめんなさい」
レオンはチラと梨香を見た。
「どこまで話したって?」
「亡くなったってところまで……」
「あっそう」
レオンは息を吐くと、平気そうな顔をして頷いた。
「いいよ。話してしまったのなら仕方がない。別に隠すようなことじゃないし、アリシアの口が軽いっていうのも全然意外じゃないしね?」
「うっ……」
「馬鹿、泣くなよ。大丈夫だってば。トイレにでも行って泣き止んでくるといい。ここにいたら他の生徒にその顔を見られるかもしれないよ」
梨香はアリシアの背中をさすった。
「行こう? アリシア。泣かないで」
「いや、梨香はここにいろ」
「……」
「中途半端な説明だったら気になってしまうだろう? ここまで来たらある程度ちゃんと話しレオンこう」
アリシアは1人で大丈夫だと言い、梨香とレオンにもう一度謝ってトイレへ行った。
梨香とレオンはアリシアを見送ってから隣同士で座り、ガラスの向こうにある花壇を見つめた。話さないつもりだったけど、とレオンは画材道具をテーブルに置いた。
「もったいぶるほどの事でもないから、一応話しレオンくよ。俺の運命の番の名前はレティ―シャという。十二歳のときに、日曜礼拝の教会で出会った。同い歳だった。学校は違ったけど家は近所だったから、アリシアと一緒に三人で遊んだこともある。だけど彼女はその年に病気になった。脳の病気だ。初めから、永くないって分かっていた」
レオンは感情を交えず淡々と説明をしてくれたが、逆にそれが梨香の心を凍えさせるような気がした。
「レティ―シャは十二歳のころからずっと入院していて、十六歳の時に亡くなった。去年の冬のことだ。まぁ最期の一年ぐらいは寝たきりになっていたかな。医者に脳死と診断されたから、生前の彼女の意向に従って延命措置は外された。それで終わり」
「……」
「きみにレティ―シャの話をしなかったのは、かなり重い内容の話だったからだ。別にきみを仲間外れにしようと思ったからじゃない」
涙が浮かんできた。梨香は耐えようとしたけれど、耐えきれなかった。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい、きみは何も悪くない。アリシアが勝手にゲロっただけだ。それにいつかはきっと話したよ。きみは俺とアリシアにとってかけがえのない友人だし」
レオンは梨香を見つめた。泣いているはずの彼女の横顔が髪に隠れて見えなかったから、手を伸ばして、その乱れた髪を耳にかけてやった。
「この話を聞いたからって変に気を遣わなくていい。出来るなら今までの関係で居てくれると嬉しい。アリシアだってそう願ってるはずだ」
「うん……うん。分かった」
「ありがとう」
そう言ってレオンは、梨香をじっと見た。涙ぐむその横顔を見つめて、それからガラスの向こうの鉛色の空へ目をむけた。
月曜日に投稿しようと思っていたのに、日付を超えてしまいました。
次回は水曜日の17時に投稿しようと思います。