6.〝友人〟
「梨香〜、美術室行こうよ〜!」
アリシアの声に、梨香は顔を上げた。すでにレオンとアリシアは美術の授業の用意を持って席を立っている。梨香も「うん」と頷いて、机の上に広げていた筆箱やノートを手早く片付けた。
梨香のクラスが文理混合クラスなのは、芸術教科で美術を選択した生徒が集められているからだ。梨香は本当は高校入学の際に音楽を第一志望にしていたのだけど、抽選で外れて、あまり人気のない美術選択になった。
でも、結果的にはそれで良かったのかもしれない。美術の授業はなかなか自由がある。席も決まってないから、梨香はレオンとアリシアと固まって席に座れた。
ただ美術室の場所は遠くて、食堂の前を通って別棟に行かなければならないのが難点といえば難点だ。その道中の話題はもっぱらレオンの部屋のことだった。
「高校生で一人暮らしって凄いよね」
「本当は私の家に一緒に住む予定だったんだけど、レオンが最後まで我儘を言ったんだ。叔母さん、レオンに甘いからさ。結局あのマンションを借りたの。高校生のくせにあの広さは生意気だよねー」
「我儘って言うのはやめてくれるかな、アリシア? これは自立っていうんだよ」
「その割に結構な頻度でうちに夕飯を食べに来るくせに」
「よく言うよ。俺が食べに行かなかったら行かなかったで、伯母さんや伯父さんや村正が夕飯が入った鍋を抱えて俺の家に突撃しにくるくせに」
「みんなレオンのことを心配してるんだよ」
「それはそれは。本当にお優しい事で」
肩をすくめてから、レオンは梨香の腕を引いた。
「うん?」
「メロンオレ買うから。待ってて」
そう言ってレオンは食堂前にある自販機に向かった。アリシアが彼の後を追いかける。
「私も買う! でもお財布を教室に忘れてきたから、レオン、買って」
「新手の恐喝かな?」
「オレンジジュースがいい」
レオンはいろいろ諦めたようで、アリシアにオレンジジュースを買ってやった。自分の分のメロンオレも購入し、梨香を振り返る。
「梨香も何かいるかい?」
「奢ってくれるの?」
「ついでだから」
「レオン、お金持ちなんだよ。先物取引でこの前儲けたらしいから」
「こら、アリシア。そういう事をほいほい口にしちゃいけません」
先物取引ってなんだろう、と思いながら梨香はおずおずと言った。
「えっと……、私もメロンオレが飲みたいな。いい?」
「いいとも」
レオンはメロンオレをもう一つ買って、梨香にそれを差し出した。
「ありがとう……」
とても嬉しかった。だから梨香は大切なものを扱うように両手でその紙パックのジュースを受け取り、顔を綻ばせる。レオンはそんな彼女の顔をじっと見つめた後、視線を逸らした。
本来ならばジュースを飲みながら廊下を歩くのは禁止されている。だが、この時間は教師に見つからないだろうとたかを括って、3人は歩きながらそれを飲んだ。
話はまたレオンの部屋のことに戻る。
「レオンは、一人で住んでいて寂しくならないの?」
「別に。ちっとも」
肩をすくめるレオンを見ながら、梨香は彼の家を思い浮かべる。
レオンが今住んでいるところは広々とした綺麗なオートロック式のマンションだ。部屋は2LDKで、落ち着いた色合いの英国調の家具が揃っている。彼はあまり物を置かないタイプらしく、掃除も行き届いていたから高校生の男の子が住まう部屋とは思えないぐらい落ち着いていた。だけど……。
「レオンは大人だね。私だったらきっと寂しくなっちゃうな」
梨香がそう言葉を零すと、レオンがふ、と微笑んだ。
「そうだろうね。きみは暖かな家がお似合いだ」
「確かに梨香が一人暮らしをするってイメージが湧かないかも。梨香って双子のお兄さんがいるんだよね。どんな人? 似てる?」
「外見は全然似てないよ。でも性格は似てるってよく言われる」
美術室についた。三人で固まって座る。
「今度私の家に来る? 紹介するよ」
「えっ、嬉しい! お兄さん見たい!」
「そう? あ、携帯にお兄ちゃんの写真あるかも」
「見たい見たい!」
梨香の携帯をレオンとアリシアが覗き込もうとしたとき、背後でわぁ!と声が上がった。
思わず視線をやると、一組の男子生徒と女子生徒が向き合っていた。どうやら喧嘩をしているらしい。女子生徒の方が突然「最低!」と叫ぶと男子生徒の横面を叩いた。
わぁ! と再び歓声が上がる。
男子生徒は注目の的になったけれど、全く物怖じした様子もなく「いてて...」と言ってマイペースに頬を押さえていた。
その時始業チャイムが鳴った。鳴り終わる前に先生が教室に入ってくる。そしてただ一人席を立っている男子生徒を見て、先生は言った。
「葛城君。何故席を立っているんですか?座りなさい」
「はーい」
葛城昴は自分を叩いた女子生徒を見た。が、彼女は自分の隣に彼を座らせないつもりらしい。後頭部をがしがしと掻いた昴はその時、梨香と目があった。彼はニコッと人懐っこい笑顔を浮かべると歩いてきた。
「ねぇ、お邪魔してもいいかい? 見ての通り追い出されちゃったんだ」
何かを答えるより先に昴は梨香の隣の席に座った。
そして授業が始まる。先生が今日の制作課題について説明している間、梨香は昴を見つめた。彼はなかなか有名人だったから、彼女はその名前を知っていた。昴は隣のクラスの男子生徒で、性別は多分αだ。気さくな性格が人気で、華々しい女性関係を持っている。でも、今まで梨香は彼と関わりを持ったことなんてなかったのに。
先生の説明が終わると、昴はすぐに「みんなの分の道具、取ってくるね」と言って席を立ち、あっという間に教卓から四人分の制作課題を取ってきた。
「改めて自己紹介をさせてほしい。僕は葛城昴。昴って呼んでよ、よろしくね」
「あ、私は……」
「知ってるよ。なんたってここの三人はみんな有名人だからね。学校の王子様のレオン・ガーディナー君と、王子様のいとこで高嶺の花のアリシア・モーガンさん。それからその王子様を独占している春藤梨香さん、だよね。最近何かと噂のある君のこと、結構興味あったんだ」
「えっ……?」
「くだらない」
と、レオンが冷たく言い捨てた。
「下世話なゴシップネタは間に合っている。そんなものを持ち込んでくるなら、ここから立ち去ることをお願いしたいね」
「おっと、さっそく王子様を怒らせちゃったかな。口は災いの元だってさっき身をもって知ったのにね」
昴は肩の高さまで両手を上げて降参の意を示した。
「もうしないよ、だから僕をしばらくここに置いてほしい」
レオンは目を細めたまま昴を一瞥して、それから視線を逸らした。
実のところ全く動じてない様子の昴はニコッとまた笑って改めて席に座る。梨香は「王子様を独占している」という言葉がかなり引っかかったけれど、それより今は、彼の頬の方が心配だ。
「あの、昴君。ほっぺた痛くないの?」
「痛いよ。あ、もしかして痕になってる?」
「うん、手形が……」
「あちゃあ。でもまぁ、男の勲章だからいいかな」
梨香は昴のことを「すごい男の子だな」と思って、ちょっと感心してしまった。
そして視界の端に映る、レオンに買ってもらったメロンオレのことを気にかけた。……梨香はレオンを独占しているつもりなんて微塵もない。これでも〝友人〟の距離感はどんなものかを懸命に探っているつもりなのに。ただ昴は気さくで話が面白い男の子だったから、レオンはともかくとして、梨香とアリシアは快く彼を迎えることにした。
■□■
レオンの家にて。
その日は梨香がレオンとアリシアに勉強を教えてもらう番だった。梨香がベクトルの問題をいくつか解いたのち、それを見たレオンは言った。
「うん。きみは頭は悪くないけど、数学的センスがないね」
がーん、と梨香はショックを受けた。でも、そうか。実は梨香は数学がそこまで嫌いじゃなかったから、できることなら理系に進みたいと思っていた。でもいくら勉強しても数学の問題が解けなかった。それは、センスが無かったからなのか。
梨香の解答を確認したアリシアが慰めてくれる。
「落ち込まないで、梨香。私も歴史を勉強するセンスがないってこと、今回の勉強会で思い知ったから。得意なことを伸ばして行こうよ。それにレオンだって古典のセンスがないし」
「それは違うよ、アリシア。俺は古典単語と古典文法さえ頭に入ってしまえば、ある程度の問題は解ける」
梨香は上目遣いでレオンを見た。
「じゃあレオンはどの教科が苦手なの……?」
「特にないかな」
「スペックが高い代わりに、性格がねじ曲がってるんだよ。分かるでしょう、梨香」
「あれ、珍しくお菓子が残ってるいるね。仕方がないから俺が代わりに食べてあげるよう」
「ぎゃーっ、せっかく楽しみに取ってたのに! そういう所だぞ、レオン!」
レオンはアリシアの目の前にあったチョコを食べた。しかも三個も。彼は上品にそれらを咀嚼して、それから言った。
「梨香の数学の勉強方法は今まで通り、公式を暗記して、問題をいくつも解いて、そのパターンを頭に叩き込むことだな」
「それでも試験では応用問題になるといつも分からなくなるの」
「……それはやっぱり、基本問題がちゃんと頭には入ってないからじゃない?」
梨香は分厚いチャート式参考書を見つめ、ベクトルの解説文を読み進めてみた。だけどやっぱり途中で文章が頭に入って来なくなる。彼女は両手で顔を覆った。
「えーんっ」
「え、えーん……?!」
レオンが衝撃を受けた顔をした。引き攣った表情のレオンを見て、あれ。と梨香は顔を上げる。
「あ、ただの泣き真似だよ。ベクトルが分からなくて頭を抱えてるって表現したかっただけ」
「いやっ、分かってる。……! 分かってるけどっ、今のはなんだ?」
「えっと……、ただの泣き真似……」
梨香はかぁ、と顔を赤くした。
「変なことをしてごめん。問題を解きます」
〝友人〟の在り方を、梨香はまた間違えてしまったらしい。穴があったら地球の裏側まで入り込みたい気分になった。
レオンはしばらく、あわあわと問題を解いている梨香を見ていたけれど、何故かニヤニヤしているアリシアと視線があったので、アリシアを睨んだ。彼は何も口を効きたくなかったので、彼女のことは無視をして新しいルーズリーフを取り出す。そして自分のチャート式問題集を見ながらさらさらと文字を書き始めた。
梨香が解説を見ながらなんとか問題を解き終えたのを確認した後、レオンはそれを差し出した。
「チャート式問題集の基本問題のうち、どの問題から解くべきか書き出しレオンいたから。この順番通りに何度も問題を解いて、パターンを覚えたらまた教えてくれ。その後応用問題に進む。応用問題を解く時は俺も一緒に解くから」
「う、うん……」
梨香はチラリとレオンを見た。
「でもレオンも自分の勉強があるでしょう? 私に時間を割いてもいいの」
「きみが古典単語と古典文法をリストアップするために割いた時間と比べたら、どうってことない」
「あはは。そうだよね。ありがとう」
また彼の分かりにくい優しさに触れたと思ったから、梨香は素直にレオンからルーズリーフを受け取った。彼の文字を目で辿りながら「レオンはきっと分からないだろうな」と梨香は思う。こうして彼から何かを与えられるたびに梨香の心がぽかぽかと暖かくなって、そしてちょっと切なくなることに。
■
勉強会はいつも19時前に終わる。レオンとアリシアは梨香のためにいつも最寄りのバス停まで送ってくれた(梨香がバスに乗ったあと、レオンはアリシアを彼女の家まで送り届けるらしい)。
レオンはすっかり暗くなった空を見上げて白い息を吐きながら尋ねた。
「この街って雪は降るのかい?」
「うん。まぁまぁ降るよ」
「……ふーん」
「レオン、雪が嫌いなの?」
「そうだね。この時期に降る雪は特に嫌いだ」
「どうして?」
「寒いから」
当たり前の台詞に梨香は笑った。
空を見上げる。冬の空は澄んでいて、たくさんの星が煌めいて綺麗だった。
「じゃあ今年はあんまり雪が降りませんようにっレオン星様にお願いしレオンくね」
「……あぁ。そうしてくれ」
レオンは星を見上げていたから、彼がどんな表情をしていたのか、その時の梨香には分からなかった。
また夕方ごろに続きを更新するつもりです!




