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3.きみの運命は他にいる



 耐寒登山当日の朝、リビングで荷物の最終チェックを梨香が行っていると、朝食のシリアルを食べる律樹が声をかけてきた。


「今日登山なんだ」

「うん」

「いいなぁ。俺も勉強より山登りがいいな」

「でも結構きついんだよー」

「友達とわいわいできるからいいじゃん。今年もまなちゃんと一緒の班なんだろ?」


 まなちゃんとは梨香が小学生のときから友達の女の子の名前だ。確かに本来なら彼女と一緒の班のはずだった。梨香は視線を所在なげに彷徨わせてから、それを手元に落とす。


「うん......そうなの」


 レオンのことは何となく律樹には話せていない。どう説明していいか分からなかったから。


■□■


 行きのバスでは、アリシアと隣同士で座った。彼女らはもともと気さくな少女だったから、すぐにお互い打ち解けた。


「毎年の行事だけど、耐寒登山って嫌だよね」

「雪が降ってるか降ってないかで難易度違いますしね」

「今日はどっちだろ」

「今朝ネットで確認したんですけど雪、結構積もってるみたいですよ」

「うわー」


 梨香は天を仰いだ。でもそうか、ネットで天候を調べる術があるんだ、と気がついて、今の山の様子を確認しようと鞄からiPhoneを取り出そうとしたとき、手に菓子箱があたった。


「あ。私、ポッキー持ってきたんだ。アリシアさん、食べる?」

「わー、食べたい! 私もチロルチョコあるんで交換しましょう」


 それからアリシアは中腰になって、前の席に一人で座るレオンの方へ身を寄せた。


「レオン。レオンもチロルチョコ食べる?」

「んー?」


 レオンはバスに揺られて微睡んでいたようだ。あどけない表情で、アリシアに促されるまま手を伸ばしてくる。

 それを見て、ポッキーの袋を見下ろした梨香も恐る恐る言ってみた。


「えと……ポッキーもいる?」

「んー、うん」


 うん。って言った!

 いつものトゲトゲしい雰囲気が無い。ドキドキしながら梨香が渡したポッキーを、彼は素直に受け取ってサクサクと齧り始めた。


「……っていうかさ、まだ山にも着いてないのにお菓子パーティー始めていいのかい? そんなんでお昼ご飯お腹に入る?」

「お菓子は別腹だから良いんだよー」

「いいねぇ、女の子は胃袋がいくつもあって」


 それからレオンは欠伸をして、少し寝るよ。と言って目を閉じた。



 山は、アリシアがバスの中で言った通り雪が積もっていた。山の斜面は途中の道から凍っているらしく、氷化した土の上を歩く時に滑り止めとして靴底に装着する、アイゼンが配布される。

 防寒はしているが、外はかなり冷え込んでいた。


「とうとう来たね、梨香」

「うん。それとすごく寒いね。私カイロ持ってきたんだけど、アリシアもいる?」

「一つ持ってるけど、もう一つあるならいる!」

「……なんだか君たち、バスに乗ってた間に随分仲良くなってない?」

「なってるよ」

「女の子はコミュ力あるよねぇ」


 レオンはすかした顔をしていたが、やはり寒そうではあった。白い息を吐き、コートについた首周りのファーに口元をうずめている。

 貼らないカイロを取り出した梨香は、まずアリシアに一つ渡して、それからレオンにも差し出した。


「はい、ガーディナー君」

「は?」

「あれ。いらない?」


 バスの中では柔らかい雰囲気だったけど、あれはやはり眠かったからのようだ。冷たく見返されて梨香はしおしおと視線を下に落とした。


「……。君って本当、お人好し」


 レオンはため息をついて梨香からカイロを受け取り、言った。


「ありがとう」


 それから登山コースの地図を広げているアリシアの方へ寄って行った。梨香はレオンの方をチラと見つめて、リュックを背負い直す。



 レオンとアリシアは仲がいいから、最悪梨香は仲間外れにされて山を登ることになるかもしれない、と覚悟をしていた。けれどそれは杞憂だったようだ。アリシアは梨香の隣を歩いた。少し前に進んだところにレオンもいたし、普通に会話に入ってくる。道中では彼が持ってきた飴玉をそれぞれが舐め(レオンが一人で食べようとしたところをアリシアが咎め、こちらに分けさせた)、和やかな会話を続けた。


「山って言うより、丘だな。森の景色も俺が知っているものとだいぶん違う」

「まぁイギリスは色々尖ってるもんねぇ」


 梨香は山中を見返した。かなり高低差がある気がするけれど、これが丘なのだろうか?

 滑らないように慎重に歩を進めながら、梨香はアリシアに尋ねた。


「イギリスは尖ってるの?」

「イギリスに限らず、ヨーロッパの山の方が日本の山より高くて険しいと思うよ」

「アリシアもイギリスにいたんだっけ?」

「親の転勤で日本に来るまではイギリスにいたよ。レオンの隣の家に住んでた」

「へぇ。イギリスに帰りたくならない?」

「長期休暇のとき結構帰ってるから大丈夫。日本も嫌いじゃないし。日本食、大好きなんだ」

「そっかぁ。でもいいな、私、イギリスって憧れちゃう」

「......どうかな。俺からこんな話をし出したとこ悪いけれど、良いもんじゃないよ、あんな国」


 レオンが振り返りもせずに言った。


「よく雨が降って陰鬱だ。一日の中で寒暖差があるから振り回される。冬の期間が長くて春が短い。良い思い出なんてあまりないね」


 アリシアが若干顔を曇らせた。しかしそれを振り払うようにすぐに笑顔になる。


「確かにフランスの方が気候が落ち着いてるよね。ドイツもイギリスの気候よ梨香穏やかかも。まぁ、どの国も日本より冬は平均的に寒いんだけど」

「そうなんだ。ヨーロッパの国って全部一緒くたに考えてたけど違うんだね」


 微妙な空気の変化に梨香は気づかないフリをする。梨香が触れて良い話題ではないと思ったから。

 アリシアと当たり障りのない会話を続けながら彼女は足を動かすことにとにかく集中した。去年は友達と喋りながらダラダラ登っていたけれど、レオンとアリシアのペースは早い。実は少し息が上がっている。それでも梨香は頑張れた。......レオンから時折、木々と果実の香りがするから。その香りが漂ってきたときは、梨香は二人にバレないようにそっと呼吸を深くする。

 梨香はレオンの背中を見つめた。

 きっとこの人は、母国のイギリスだけじゃなくて自分自身のこともあまり好きではないのだろう。梨香はそう思って、なぜか寂しくなった。



 ちょうど昼時に山中の休憩所にたどりついた。休憩所では班のリーダーが集められたので、リーダーであるアリシアが行ってしまい、梨香はレオンと二人きりになった。

 無言のままだと気まずいので梨香はレジャーシートを広げて昼食の準備をする。レジャーシートの上ではアイゼンはつけられないからそれを外そうとした。

 横にいたレオンは身近の適当な岩を選んで積もった雪を払い、そこに座った。頬杖をついて梨香を見る。


「……君さ、大丈夫かい?」

「え?」

「顔色が悪い気がする。疲れた?」

「えっと、少しだけ……」

「気づかなくて悪かったよ。午後はもう少しペースを落とそう」


 梨香は顔を赤くした。


「あ、ありがとう」


 レオンに見つめられるのが気恥ずかしくて、梨香はアイゼンを外す手を早めようとした。けれど焦っているせいか絡まって訳がわからなくなっている。するとレオンがため息をついて立ち上がり、梨香の前にかがんだ。


「貸して」


 ふわりと、あの香りがする。

 レオンの、男にしては綺麗な手が迷わずアイゼンのベルトを外していく。


「これ、外してしまっても後で自分でつけられるの?」

「た、多分」

「その答え、不安になるなぁ。……ほら、外れたよ」

「ありがとう」


 梨香はレオンを見た。レオンも梨香を見ていた。その瞬間、目には見えない糸が繋がったと思った。疑いようがない。二人の間にはやはり、確かに特別な空気がある。

 梨香だけじゃない、レオンもそれに気が付いているはずだ。

 彼は言った。


「......春藤さんは、運命の番って信じる?」


 梨香の心臓が大きな音を立てた。その後も早鐘を打って、頭の中の血を沸騰させる。

 どうしてその言葉を今出したの。どうしてそれを梨香に聞くの。その質問を投げかけた、彼の意図は何?

 梨香は早る気持ちを抑えて震える声で言った。


「う、運命なんて、よく都市伝説だって言われてるよね……。でも、私は」


 信じてるよ、と続ける前にレオンが口を開いた。


「都市伝説じゃない。現実にそれは存在する。なぜなら俺は、すでに運命の番を得ているから」


 梨香はその時、世界から置き去りにされたと思った。それとも、絶望の海に突き落とされてしまったのか。目の前が真っ暗になって、頭がキンと冷える。遠くの方から、レオンの声が聞こえてくる。


「俺にはもう彼女がいる。彼女がいてくれたから、それでいい。だから俺は他には要らない。彼女の他には、もう誰も要らないんだ」


 その後をどうやって終えたのか、梨香はあまり覚えていない。でもなんとか表面上は取り繕って下山をし、バスに乗り、帰路についたのだろう。

 ただその間も梨香はずっと考えていた、レオンのことを。


 人に暴力を振るっていた彼のこと。

 その眼差しがとても哀しげだったこと。

 完璧な笑顔を浮かべる彼が本当は、この日常や、周りの人間のことをどうでもいいと思っているだろうこと。

 自分にまとわりついてくる人間を気持ち悪いと言って、冷え冷えとした目で笑ったこと。

 バスの中でまどろんでいた、彼の顔が意外にもあどけなかったこと。

 梨香からポッキーを受け取り、それを素直に食べたこと。

 結局はカイロを受け取ってくれたこと。

 イギリスのことを語る彼の背中が寂しそうだったこと。

 梨香の体調を気にしてくれて、アイゼンを取ってくれた、彼の分かりにくい優しさに触れてしまったこと。

 自分をひたと見返した、冬の空のように澄んだ青い瞳のことを。


 ……あぁ。まだレオンに出会ってから間もないのに。彼のことなんて全然知らないのに。いつの間にかこの心は、彼のことでいっぱいになっていた。



 家に帰ると律樹がソファーの上でゲームをしていた。梨香がリビングに入ってきたので、彼は顔もあげずに言う。


「おかえりー。今日めちゃくちゃ寒かったよね。登山楽しかった?」


 返事がなかったので、律樹はひょいと視線をあげた。そして梨香を見て、びっくりした様子で身を起こした。


「えっ!どうしたの、梨香?!」


 律樹は慌てて駆け寄ってきて、昔からそうであるように、梨香を慰めようとあわあわし始める。

 梨香は泣いていた。涙は拭けども拭けども、溢れてくる。「お兄ちゃん」と彼女は震える声で言った。


「私ね、私。……失恋しちゃったぁ」


 この恋は、きっと一世一代の恋だった。

 そして絶対に叶うことがない恋だ。

 梨香がそれを自覚するより前に、レオンに先に拒絶されてしまった。梨香が大切にそれを抱える前に、その恋は「要らないものだ」と彼に捨てられてしまったんだ。

 それが酷く悲しかった。悲しくて悲しくて、死んでしまいそうだった。





次の更新は土曜日に行います。

よろしくお願いします。

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