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21.行かないでくれ




レオンに肩を貸してもらって、とりあえず梨香は一時彼の家へお邪魔した。挫いた左足を見ると、そこは足首の位置が分からないぐらいに腫れ、わずかに鬱血していた。それだというのに梨香は「大丈夫」の一点張りだった。


「大丈夫。帰れる」

「どうやって帰るつもりだ?」

「歩いて帰る」

「俺がなかばきみを担ぐようにしてここまで運んできたこと、お忘れかな?」

「今なら多分歩ける気がするの」

「あー……、はいはい。分かったから、少し黙っててくれる?」


レオンはぞんざいに言い捨て、携帯画面に視線を落とした。先ほどから何かを調べているのだ。そうして彼はすぐに顔を上げた。


「近くに整形外科があった。今から行こう」

「えっ!」


と、梨香は及び腰になる。


「ど、どうして……?」

「その足首の腫れ、尋常じゃない。病院で診てもらおう。レントゲンをとる必要があるかもしれない」

「そ、そこまでしなくても大丈夫だもん。お兄ちゃんに、最寄駅まで迎えにきてもらうし……」

「律樹と連絡は繋がったのか?」


梨香は口籠った。律樹とは連絡がついていない。彼は夕方近くまで部活があるから、梨香のLINEに気づくのはずっと先だろう。両親は仕事の最中だ。

梨香の表情を見て、レオンはため息をつくと携帯をズボンのポケットにしまった。


「行くぞ」

「む、無理。お金、それほど持ってきてないから……」

「俺が出す」

「それはレオンに申し訳なさすぎる」

「後できちんと取り立てる」

「でも、ゆっくりなら歩けるし。だから……」

「御託はもういい。行くから」

「うーっ!」


レオンは自身の財布を取り出して中身の金額を確認し始めた。梨香はその間も「お医者さんには行かないよ」「迷惑はかけたくないから」「私、一人で歩ける!」「レオン!」と何度も訴えたのだけど綺麗に無視をされた。

その後何だかんだと用意を済ませたレオンに促されて梨香は玄関へ行き、靴を履き、彼に肩を貸してもらって、そのマンションから二つ隣のビルにある整形外科に連れて行かれた。



受付で問診票を渡され、必要事項を記載しながら梨香は「おかしいな」と思う。医者には行かない! 帰る! と最後まで抵抗したのに何故私はここにいるのかしら……?

住所を書き終えて、梨香はおずおずと隣の席で携帯ゲームをしているレオンを見た。


「……あのね」

「何」

「レオンは本当は何か用事があったんじゃないのかな? さっき、出かけようとしてたよね?」

「朝食を買いに行こうとしていた。食パンを切らしているから」

「えっ、じゃあレオンは、朝ごはんをまだ食べてないってこと?」

「まぁ、そういう事になる」

「えっ! 何か買ってきて!そ れか食べてきて! 付き合わせてごめん……」


レオンはゲーム画面から視線を上げ、梨香をジッと見た。


「俺がいない間、その足で、勝手に一人で帰ったりしない?」

「……」

「まぁ帰れないか。きみ、ここの診察代を払う金すら所持してないもんな」

「うっ」


項垂れた梨香を鼻で笑うとレオンは立ち上がった。ニコリと綺麗に笑う。


「じゃあ俺は今からご飯を買ってくるとも〜。きみも、何かいる?」

「……いえ、結構です」

「もう昼時だけど?」

「それはそうだけど……」

「診察が終わって、そのまま帰るとしても、その足だと家に着くのは15時を回るんじゃないかな?その間ずっとお腹を空かせレオンくつも梨香い? 仮に骨が折れていたとしたら、ギブス付きの足では、帰り道の途中で昼食を買いに行くのは大変だろうなぁ」

「……。もうヤダぁ」

「あっははは!」


なぜ失恋した相手に、コケたところを見られ、腫れあがった足を見られ、病院に連れて行ってもらい、さらには昼食の用意をして貰おうとしているのだろう。恥ずかしすぎて死にたい。

泣きべそをかきかけている梨香の顔をとっくりと愉しげに眺めて満足したあと、レオンは朝食兼昼食を買いに整形外科の病院を出て行った。

残された梨香はその後、左足首のレントゲンを撮ることになった。腫れは酷かったが、レントゲン写真を診た医者には「幸い骨は折れていません。捻挫ですね」と言われて、とりあえずホッとする。十分間の電気治療を受けて梨香が診察室から出たら、レオンが戻ってきていた。


「お疲れ様。診断結果はどうだった?」

「えっと、ただの捻挫だった」


梨香が申し訳なさそうに顔を俯かせたが、レオンは何でもないことのように頷いた。


「だろうね。きみ、歩けているし。骨は折れてないと思った」

「わ、分かってたの?」

「まぁ。でもちゃんと診断を受けなければ確証は得られなかったし」


レオンの言う通り、骨に異常がないことを知れたのは良かった。だけど捻挫で済むのなら彼を病院にまで付き合わせることはしたくなかったのに。梨香が心苦しく思っていると、そんな彼女の顔を見たレオンが、左足に巻かれたサポーター(さっき看護師に巻いてもらった)を差して、「それを貰えただけでもここに来て良かったよ」と言った。

今日は平日だけれど混んでいたから、会計まで少し待った。梨香は保険証を持ってきていなかったので当然治療費が払えなくて、レオンが料金を立て替えた。

昼過ぎに二人は整形外科の病院を後にした。



外に出て、レオンが梨香に手を貸そうとしたけれど、彼女はひょこひょこと一人で歩く。


「レオン、お金はまたすぐ返すね。今日はありがとう」


頼りないその背中を「待ちなよ」とレオンが呼び止めた。手に持ったパン屋の袋を少し掲げてみせる。


「お昼はどうするんだ。せっかくきみの分のサンドイッチも買ってきたのに。一緒に食べないの?」


振り返った梨香はレオンと袋を何度も見比べて、そして地面に視線を落とした。


「……一緒に食べたい」


レオンが梨香の隣まで来て再度手を差し出た。梨香はそれをとり、共に歩き始める。

レオンのマンションへ向かう道中、二人はわざと核心的な話題に触れることを避けた。彼らが話したことは、春休みの宿題がまぁまぁ多いよねとか、国語の林先生が来年結婚するらしいとか(梨香は林先生がどんな人と結婚するのか気になったが、レオンは本気で興味が無さそうだった)、美術の授業で書いている肖像画は全然完成してないけれど、高校三年生になっても続きを描くのかしらとか、どうでもいい事ばかりだった。

そうしてお互いがお互いのことを見ないフリをすれば、この時間がずっと続くのではないかと思っていた。

レオンの家に帰って、定期テストの勉強をしていた時のように部屋へ上がる。

レオンが紅茶を淹れている間に梨香が皿を棚から取り出して、サンドイッチをそこに並べた。何種類もあるそれに梨香はくすくすと笑う。


「いっぱい買ってきたんだね」

「朝食も兼ねてるから」

「学校は食堂があったけど、レオンは春休みの間、ご飯はどうするの?」

「主食はカップラーメンになるかな」

「栄養、偏るよ?」

「男子高校生の家事スキルの無さを舐めちゃいけない。おまけに俺は、何を隠そう英国人だ。料理には全く自信がない」

「キメ顔だけど、セリフの中身はダサいね」


レオンの話を詳しく聞けば、夕食はアリシアの家へ食べに行くから栄養の偏りは問題ないらしい。彼自身もまぁスパゲッティーぐらいは一人で作れるので、大丈夫だとか。

サンドイッチは美味だった。スモークサーモンとオリーブとドライトマトをライ麦のパンで挟んだサンドイッチを食べた梨香が「お洒落で美味しい」とはしゃぐと、レオンは「ここらでは有名なパン屋なんだ。カフェも併設されている」と教えてくれた。

そうして一緒のものを食べ、穏やかな時間を共有した後、梨香はカップのソーサーを少し撫でた。


「……レオン。モニカさんの手術のこと、聞いてもいい?」


中核となる話を切り出されたレオンがほんの僅かに沈黙する。しかしすぐに「いいとも」と微笑んだ。


「予定した日より前倒しで手術が行われたって聞いたけど、やっぱり少し……モニカさんは体調が悪いのかな?」

「手術する場所が場所だからね。だけど、本人は思ったより元気だったよ。心配したこっちが損だと思ったぐらいだった」

「これからも手術って、あるの?」

「うん。とりあえず彼女が二十歳になるまで、あと六回。もっと増える可能性はあるらしいが」


梨香はレオンを見つめた。


「……レオンは、大丈夫?」

「俺?」


と、彼は意外そうに片眉を上げた。それから笑う。


「大丈夫さ。俺が手術を受ける訳じゃないし。もちろん、モニカのことは心配してるけどね」

「これからもモニカさんの手術のたびにレオンはイギリスに帰るの?」

「さぁ、どうだろう。彼女には鬱陶しいから二度と来るな、と言われてるからね」

「鬱陶しいって言われちゃったの?」

「そう。モニカっレオンっかない子なんだ。俺を羽虫扱いするんだからね」

「レオンを羽虫扱いかぁ……」


それはなかなか強烈な子だな、と梨香はカップに口をつける。

レオンがテーブルに頬杖をついた。その青い瞳が油断ならない光を煌めかせる。今度は彼が仕掛ける番だった。


「四月から、俺には話しかけずに他人のように振る舞うっていう話だけど」


と彼は言った。


「きみがそれを望むなら俺は別に構わない。けど、その辺りの心境を詳しく教えて欲しいなぁ」


梨香は上目遣いでレオンを見やった。


「レオンは、私が今まで通りレオンに話しかけても、構わないの?」

「構わない」

「そっか……」


梨香は飲み干した紅茶のカップをソーサーに置いた。二人の間に沈黙が落ちる。

その時ぶぶぶ、とテーブルの上に置かれた梨香の携帯が震えた。見れば律樹からLINEが届いたようだ。まだ日が落ちる時間ではないが、太陽が傾いたせいで、電気をつけていないリビングは薄暗くなりつつあった。


「お兄ちゃんからだ。メッセージに返信してもいい?」

「どうぞ」


レオンが紅茶を飲む。

梨香は携帯を手に取った。律樹の部活はもうすぐ終わるらしい。彼女は捻挫をしてしまったこと、歩くのが辛いこと、最寄駅まで迎えに来てほしいことを律樹に送った。間もなく彼からは「了解! 捻挫って、大丈夫?」というメッセージと共に、こちらを心配そうに伺う猫のスタンプが送られてきた。

それに返事をしてから、梨香はゆっくりと席を立つ。


「お兄ちゃん、最寄りの駅まで迎えに来てくれるって。だからもう帰るね。レオン、今日は本当にありがとう。お金はまた返すね」

「あぁ」


レオンは頷いただけで立ち上がらなかった。

梨香は左足を引きずりながらお皿とカップをキッチンの流し台に持っていった。レオンが「洗わなくていい」と言ったからそれらを置いて、テーブルに戻ってくる。


「じゃあ、帰るね」


梨香が自分の鞄を手に取った、その時。


「梨香」


と、踵を返そうとした彼女を、レオンが静かに引き止めた。


「きみは本当に、四月から俺に話しかけないつもりなのか」


梨香は視線を少し彷徨わせて、それから下を向いた。


「……ううん。今まで通り、話しかけるよ」

「嘘つきめ」


レオンが口を開けて嗤った。


「意外だよ。きみって平気で嘘をつくタイプだったんだなァ」


梨香は冷淡な笑みを浮かべる男を振り返った。


「嘘をつくのは私だけじゃないでしょ」


彼女はぴしゃりとそう言った。


「レオンだって嘘つきだ。本当は、全然大丈夫じゃないくせに」


ぎゅうっと、緊張で空間が濃縮されていく。梨香の陽だまりのような瞳と、レオンの煙ったような空色の瞳がかち合った。


「……レオン。レオンはそうやって、ずっと自分の気持ちを誤魔化していくの?レオンのことを心配する人たちをわざと遠ざけて、一人で抱えこもうとするの?それは、辛くないのかな」

「別に誤魔化そうとはしてないよ」

「レオンの嘘つき。またそうやって嘘をついて、私を煙に巻こうとするつもりでしょう」

「なんだそれ。まるで俺のことを分かっているとでも言いたいような口ぶりだなァ」

「うん。だって、分かっているから」


明朗な声で梨香は言った。


「初めてレオンを見た時から、分かってた。レオンが寂しいんだってこと。とても辛くて、哀しいんだってこと。心配なの。放っておけない。だから私は何度も聞いたよ、レオン、大丈夫? って」

「……」

「……でも、こんな私は迷惑? レオンに踏み込みすぎかな。やっぱり出て行った方がいいんじゃないのかな。他人のふりをした方が、レオンにとっては楽なのかな?」

「……」


口元を引き結んだまま黙り込むレオンを見て、梨香はくしゃりと顔を歪めた。


「……レオン、好きだよ」

「……」

「きみにとって私は特別じゃないのかもしれない。でも、私にとってレオンは特別なの。だから教えて。……レオン、大丈夫?」


レオンからの返事はなかった。

だから梨香は鼻を啜り、再度踵を返す。痛む左足を引きずりながら玄関へ向かう。この部屋を出るまで涙なんて流すものか、と梨香は思った。ここで泣いたら惨めだ。せめて彼の目が届くところでは背筋をしゃんと伸ばしていたい。

そうして梨香は玄関に着き、靴を履いた。左足を庇いながら立ち上がって、目の前にある扉の鍵を開ける。そしてドアノブに手をかけて扉を開きかけ……最後の最後にレオンに声をかけるべきか、迷った。

その時だった。

突然後ろから伸びてきた手にバタン、と乱暴にドアを閉じられた。驚いた梨香が振り返るより先に、トン、と背中に何かが当たる。

レオンだった。

追いかけてきた彼が、その額を梨香の肩口に当てていた。


「……行かないでくれ」


レオンの木々と果実の香りが梨香に絡みつく。それは助けを求めているようにも、赦しを乞うているようにも彼女には感じられた。





次回は水曜日の17時に投稿します!

このお話を読んでくださっている方、評価したくださった方、ありがとうございます。

とても嬉しいです(^^)

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