18.イギリスにて
時間は、四日前に遡る。
レオンは何度も携帯にメッセージを打ち込んでは消すという行為を繰り返した。そして結局梨香に送ることができた言葉は「ごめん」の一言だった。
レオンは舌打ちをして、手の甲で己の額を打つ。
彼は今、空港にいた。イギリスのヒースロー空港行きの飛行機に搭乗するのを待っている。ちょうど昼時のせいか、レオンと同様にロビーで飛行機を待つ人の数はまばらだ。
彼はじっと椅子に座って、それから昨日のことを思い返していた。
……梨香が昴を誘惑した。それが分かった瞬間頭に血がのぼって、何かを考えるより先にαのフェロモンで梨香を屈服させていた。その後も圧倒的に有利な立場で彼女を支配下に置き続けてしまった。
そのせいで彼女は熱が出て、今日、学校を休んでいるらしい。それを今朝アリシアから聞いた。
梨香はレティ―シャのように病に蝕まれている訳ではない。だからそのまま命に関わるほど体調が崩れることはないだろう。しかしそれでも、自分のあの行為は絶対に許されるものではなかった。最近梨香がフェロモンの不調で辛そうなのを知っていたのだから、もっとやりようがあったはずだ。それなのに。
レオンは額を手で覆った。
……生前レティ―シャはΩのフェロモンに振り回されて体調が崩れることのないよう、薬でそれが抑えられていた。
だから運命の番であるレオンが傍にいたのにレティ―シャには最期までヒートは来なかったし、レオンがその細い身体を抱きしめて肩口に顔を寄せても、彼女の香りに触れることさえできなかった。レオンのものであったはずの彼女のフェロモンは、彼女の入院と同時に強制的に枯らされてしまっていた。
だから梨香の、今にも生きている、春の木漏れ日のような温かな香りには戸惑う。それを前にすると圧倒されてしまう。あまりにも眩しいから、目を逸らそうとするのに思わず手を伸ばしてしまい、そして……。……だけど、それは……。
搭乗案内のアナウンスが流れた。それに従って周りにいた人々が搭乗口へ流れていく。
思考の海から戻ってきたレオンがのろのろと視線を上げる。その顔色は悪かった。ぎゅっと口元を引き結び、レオンは荷物を持って立ち上がった。
□
ヒースロー空港からさらに飛行機を乗り継ぎ、レオンはグラスゴーという、スコットランド最大の大都市に降り立った。そこは英国でも有数の観光地であったが、彼が向かった先は旅行客があまり足を向けない郊外にある花屋だった。花屋では白いカーネーションと花束を一つずつ買った。店を出て、ほど近い場所にある教会を訪ねる。
荘厳な佇まいをしたゴシック調の教会はレオンとレティ―シャが日曜礼拝にて初めて出会った場所であり、そしてまた、最愛のその女の子が眠っている場所でもある。
レオンは教会のアーケードを通り、西側にある庭園へ出た。さまざまな形をした墓石が等間隔に並ぶ芝園をゆっくりと歩き、やがレオンルガン型をした真新しい墓碑の前で足を止める。
それがレティ―シャの墓だった。
レオンは膝付き、生前の彼女にしていた時のように墓碑の刻まれたその名前を優しく撫でる。白いカーネーションを捧げた。
「……ただいま」
返事はない。そんなことは分かっているのに、胸に空いた空洞を冷たい風が吹き抜けていくことがレオンには分かった。
□
次に彼が向かった先は病院であった。
城のように大きな病院だ。外観からホテルのようであったし、5階まで吹き抜けの構造になった内部も、贅沢に空間が使われている。ロビーの真ん中はグランドピアノがあった。 今日はそこにピアニストが座って、生演奏を披露している。
レオンはそれを聴きながらエレベーターで二階へ上がった。
この病院でも一等上等な、日当たりが良く園庭も見渡せる一室に、レオンが遠路はるばる尋ねにきた人がいる。
その人の部屋の前まで来て、レオンは扉をノックをした。返事を待って中に入る。病室とは思えない、モダンな家具が取り揃えられた木目調の部屋が広がっていた。そしてその奥にあるベッドの上に、彼女はいた。
涼しげで、刺すような美貌を持つ妙齢の女性・モニカは手元の絵から視線を上げてレオンを見た。
一目見ただけで誰しもが、彼女を愛想の良い娘ではないと断言するだろう。しかもこの度彼女は眉間に皺を寄せて、気難しそうに顔を顰めている。重々しく口を開いた。
「何故来たのか。来る必要はないと言ったのに」
「あのさ。わざわざ日本から飛んできた人間に向かって、最初に言う言葉がそれなワケ?」
こうして顔を突き合わせるのも三ヶ月ぶりだった。それなのになんて可愛げない女なんだろう。
レオンは大仰に肩をすくめてみせたけれど、彼女は興味がなさそうに視線を落とした。
モニカは絵本の挿絵を描いていた。レオンは前に見せてもらったことがあるから、彼女がどんな絵を描くかを知っている。
スタイリッシュだがどこか寂しい病室で、冷たい風貌のこの女が描くには似つかわしくない、暖かで柔らかな、優しげで繊細な絵だった。
まさかモニカがこんなものを描くのかと、ちょっと驚いたレオンが以前、「きみ、意外と乙女チックなんだなァ」と口を滑らせたとき(レオンはバカにするつもりでそれを言ったわけではなかったのだが)、モニカは烈火の如く怒り出して、「クソ虫!」と叫びながらベッド横にある棚から虫除けスプレーを取り出して、振り撒いた。
想像以上に怒らせてしまって以来、レオンはモニカの絵本にはちょっかいを出さないことを誓っている。
ゆえにレオンは持ってきた花束で病室を彩ることにした。まずは花束をテーブルに置き、ここにある花瓶に水を入れる。花を包む包装紙をバリバリと破り解いて、格好が悪くないように生花を生ける。この作業はレティ―シャが入院していた四年間やり続けた事だ。嫌でも慣れる。
大輪の花が生けられた花瓶を棚の上に戻すと、レオンは椅子を引いてきて座り、モニカを改めて見つめた。
モニカは背筋をしゃんと伸ばし、長いまつ毛の下にある瞳を伏せて、真摯な態度で絵と向き合っている。しかしその血色は良くない。美しいが、今にも手折れそうな花を彷彿とされる。
レティ―シャを見ているみたいだ、とレオンは思う。病の種類は違うのに、病床にいる女はみんな、同じような哀しい空気をその身に纏っている。長い間直視することができず、レオンはやや視線を逸らして、ずいと紙袋を差し出した。
「日本土産。わざわざきみのために買ってきたものだから、ぜひ食べて欲しいな。海苔のついた煎餅と、こし餡の饅頭、それから紅茶に合いそうな茶菓子」
持ってきたもののうち、レオンは茶菓子の箱を手に取った。モニカがレオンのために茶を用意しないことを知っているので、いつもレオンが二人分用意する。
ビリビリと雑に包装紙を破る男を見て、モニカは小さく息をつき、画材を片付け始めた。
「明日の手術は失敗する可能性の方が低い。大した手術ではない。そう言ったでしょう」
「大したことはないって、医者が言ったのか? それともきみの独断か?」
「……」
「勘違いしているようだから、改めて言っレオンく。俺はきみを心配してここまで来ているんじゃァない」
レオンは温度のない眼差しをモニカに向けた。
「きみに移植されたレティ―シャの心臓。……あの子の心臓を、俺は心配しているんだ」
□
モニカを見舞ったのち、レオンはまっすぐ生家へ帰った。家族は暖かく彼を迎えた。
レオンは日本にいた時も頻繁に親に連絡をとっていたし、アリシアの両親からもレオンの様子を伝え聞いているからか、彼らはレオンに日本の生活についてしつこく聞くことはしなかった。
……もっとも、レティ―シャの死からこちら、両親はレオンのことを扱いあぐねている節があった。
夕食前に、レオンは日本の手土産を持ってレティ―シャの家族へも挨拶に出向いた。そして彼らに明日のモニカの手術に立ち会うこと、手術の結果を見届けたらすぐに日本へ戻るつもりなので、帰りの挨拶には来れないことを侘びた。
レティ―シャの家族は、レオンが日本で学校生活を楽しめていると聞いて喜んだ。今日焼いたというスコティッシュパイをレオンに持たせ、そして最後に「娘のことは忘れてもいい」と言った。彼らはレティ―シャが亡くなってから時折それを口にする。
「忘れなさい。もういないあの娘のことを忘れてもいいんです。貴方には貴方の人生がある。だから忘れてもいいんですよ」
レオンは微笑んだ。いつも通り優しく笑って、その言葉に応えることを避けた。
□
翌日、モニカの手術が行われた。彼女には駆けつけてくれる友人がいた。
レオンは彼女を取り囲む人々の輪から離れたところで佇み、手術室へ運ばれていく華奢なその背中を見送った。
心臓の手術にかかる時間は七時間あまり。病院内にある喫茶店で本でも読んで時間を潰すか、とレオンが考えていると、モニカの友人の一人、ハベトロットに声をかけられた。
「やっほ〜。本当にイギリスに帰ってきたんだね! モニカの手術が終わるまで、僕たちと一緒にいるかい?」
レオンはチラ、とハベトロットの後方にいるモニカの友人たちを見た。正直、彼らとは親しくない。
そもそもモニカ本人とレオン自体、友達かと問われれば絶対に違うと断言できる。
レオンは他人行儀の笑顔を顔に貼り付けた。
「ありがとう、ハベトロット。俺を誘ってくれるなんて、なかなか面白い冗談だったよ」
「冗談じゃないよ〜。日本の制服に興味があるから僕、話を聞きたいんだわ。それに僕らは同志だろ?モニカを心配してここに集まってるんだからさ!」
「モニカを心配している? 同志? まさか」
「またまた〜、どうしていっつもそうやって悪振るのかな。心配してないとでも言いたいのかい? モニカの近況を、わざわざ僕にも時折尋ねてくるっていうのに!」
「それはあの子が俺に本当のことを言わないからだ。君に確認することでしか、俺は真実を知る方法がない。だから仕方なく聞いているんだよ」
「モニカが君に本当のことを言わない理由は、君に悪いと思っているからだぜ。何かあれば君がこうして何もかも投げ出してすっ飛んで来ることを分かっているからな! 気づいてる? 君たちって本当、似たもの同士なんだわ」
レオンは口元を引き結んで黙った。
ハベトロットは人を緊張させない口調でさらに続ける。
「あ、そういえば君が持ってきてくれた日本土産、昨日食べたぜ〜。美味しかったけど、海苔? ってのが歯にくっついて驚いたし、餡子、ってのもまぁ味は美味しいけど、変な食感だったな」
「……その日本土産は、モニカと一緒に食べたのかい?」
「うん」
「へぇ」
レオンはニヤニヤと意地悪く笑った。
ア、もしかしてワザと、味は美味しいけれど食べにくい土産を買ってきたのかな、とハベトロットは思った。しかし賢明にも確認はしない。
レオンが踵を返した。
「誘ってくれてありがとう、ハベトロット。だけど今回は遠慮しレオンくよ。楽しい話題を提供できると思えないしね。じゃあまた、七時間後に」
当初の予定通り、レオンは院内にある売店で適当に小説を買った。その横にある喫茶室に入ってそれを読む。もちろん小説に没頭できるはずがなかった。ただ、時間を潰しているだけだ。
手術が終わる頃合いになったのでレオンは病室へ戻った。手術は成功したらしい。間もなくモニカが帰ってきた。しかし麻酔は切れておらず、眠ったままだ。
レオンはこの時間が一等苦手だった。
心臓が動いているのか、本当に目覚めてくれるのかは、傍目からは分からない。だからやはりレオンは、モニカを囲む人の輪から離れて彼女の目覚めを待った。
ややあってモニカが目を覚ました。ハベトロットら友人の呼びかけに応じる声がする。
それを確認して……、彼女の薄氷のような碧眼がレオンの姿を捉えるより早くに、彼は病室を出た。レオンとモニカに別れの挨拶など不要だ。互いに親しくなるつもりなどないのだから。
病院を出ると、雨が降っていた。先ほどまでは晴れていたのに。この国の移り気な天候はレティ―シャやモニカを蝕む病とよく似ているから、辟易とする。
少しは良くなったと思えば悪くなり、雨が止んだかと思えば冷たい風が吹く。いつまでたっても安心ができない。……ずっと振り回されて、疲れる。
冬空から降る雨であったが、英国人で傘をさす人間なんて滅多にいない。レオンもコートの襟元をたて、ポケットに手を突っ込んで雨に濡れるのも構わずただ歩いた。
あたり一面が灰色がかっている。歴史はあるが物々しい風貌をした道路や建物がそっけなく感じられて冷たい。ここはなんて寂しい国なんだろう。石畳の上をたった独りで進む。路地を曲がったところで、レオンは鮮やかなオレンジ色に出会った。
『せめて傘をさして帰ってね、レオン』
それは、露天の店先にかけられたオレンジ色の傘だった。
『……ねぇ、どこか暖かい場所へ行こうよ』
その色を見た瞬間、日本で初雪が降ったあの日、そう言って傘を差し出してきたお節介な女の子のことを思い出した。そのとたんレオンは息ができなくなり、冷たい雨の下でただただ立ち尽くしていた。
□
バスを乗り継ぎ、レオンはレティ―シャの墓がある教会へ向かった。その頃には雨が上がっていた。……英国の天気は本当に気まぐれなのだ。
あの後、気を取り直したレオンは菓子屋に入った。可憐な砂糖菓子を買って、今は囚人のように歩く。教会のアーケードを通り抜け、芝が広がる庭園墓地の中を進み、あの娘の墓標に菓子を贈って、そして報告するのだ。
モニカの手術が成功したことを。レティ―シャの死のおかげで生きている命があることを。きみはもういないのに、きみの心臓がまだ動いていることを。
それがレオンがレティ―シャと交わした約束だから。
……だけど、何のために? きみはもういないのに。こんなの、ただの自己満足だ。この行為に一体何の意味があるというんだ? なぁ、教えてくれよ。
レオンは墓標の前で膝をつき、両手で顔を覆って息を止めた。
レティ―シャ。きみの墓はここにあるが、きみの声が聞こえない。脈打つきみの心臓は今も存在しているけれど、その持ち主は最早きみじゃない。きみの魂はどこを探しても見つからないのに、きみの心臓や臓器がこの世にまだ確かに存在している。きみはとっくの前に死んでしまっているのに、きみの一部が散り散りとなって今も生きている。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……!
腹から迫り上がってくる嫌悪感を抑えきれなくて、教会へ戻ったレオンはそこのトイレで嘔吐した。胃の中のものを全部ひっくり返すように吐いたのに、最低な気分は少しも晴れなかった。
嘔吐きながら腕時計を見る。
日本へのフライトの時間までまだ余裕があった。だから落ち着くまでそこに居て、とりあえず胃液も吐き出したところでグッとその気持ち悪さに耐えることにした。
空港へ向かう気力は湧かなかったから、レオンは礼拝堂へ行き、側廊の会衆席に腰掛けた。
視線は自然と教会の中央祭壇へ向かった。
太陽光がステンドグラスを介して、極彩色の紋様となって信徒たちを照らしている。天国の如き美しいその中に、十字架に架けられたイエス・キリスト像があった。
ただレオンは神の偶像に祈るほど殊勝な思いを持ち合わせてはいない。今もここに足を運ぶ理由はレティ―シャと初めて出会った場所だからだ。
隣町から引っ越してきたという彼女を一目見た時、魂が歓喜に震えた。レオンにはすぐにレティ―シャが運命の相手だと分かった。あの時の自分は、確かに彼女の香りに触れていた。それなのに、今はもうあの時に感じた香りさえ思い出せない。
美しい蝶からその翅を手折るように、彼女の華のような馨しい香りも削ぎ落とされてしまったから、レオンのレティ―シャの記憶は、病室の仄暗く寂しいものばかりになってしまった。
私を忘れないで、と生前彼女は言った。
忘れない。忘れるわけがない。どんな思い出でもそれがレティ―シャとの思い出ならば。例え冬の夜闇のような哀しいものばかりだったとしても、ずっと胸に抱えて生きていく。
だから……だから本当はちゃんと、〝お仕舞い〟にして欲しかったのに……!
ポケットに入れた携帯が震えた。生気を失った顔をしていたレオンはややあって、力なくそれを手に取った。梨香からメッセージが届いていた。何のけなしにそれを開く。
『あの日は私もごめんね。レオン、大丈夫?』
梨香から送られたその言葉を見て、レオンはクッと目元を歪める。上体を前に倒し、手で顔を覆った。
雪の日に触れた彼女の温かな体温が思い出された。
……大丈夫じゃない。本当は大丈夫なもんか。もうずっと長い間、悪い夢の中にいるみたいなんだ。気が狂いそうになる。だけど逃げ出すこともできないんだ。
「梨香……っ!」
声を絞り出し、助けを乞うように体を倒した状態で、遥か遠くの空の下にいる1人の少女の名前をレオンは小さく呼んだ。
次回は明日の17時に投稿いたします。