17.その後
生まれて初めて、自分のフェロモンをこんなにも濃く感じた。そしてそのフェロモンが、レオンの木々と果実の香りと混じって、一つに深く溶け合っていく。あまりの官能感に頭がクラクラしておかしくなりそう。
「レオン……」
首筋にあたるレオンの吐息が熱い。その腕の中で身を震わせながら名前を呼ぶと、彼がこちらを向いた。涙で濡れた視界でも分かる、その青い瞳には情欲の熱が宿っていた。
梨香の乱れた髪をレオンが丁寧に整える。その指先に触れられたところが甘く痺れていくようだ。心地よいのに気恥ずかしくて、梨香はきゅっと目を瞑った。
「梨香」
レオンの優しげで甘ったるい声音が耳にくすぐったい。もたれかかれる彼の熱い身体が気持ち良い。
濃艶な雰囲気に酔いしれる梨香の下唇に、その時何かが触れた。
思わずふるりと瞼を上げる。レオンに指頭にツ、と口元を撫でられていた。それが分かった瞬間に心臓が再び大きく跳ねて、早鐘を打ち始める。
梨香が覗き込んだ彼の碧眼には愛欲に濡れた自身の姿が映っていた。
「……」
まただ。二人の間を、目には見えない糸が繋がった。お互いのフェロモンはとうに絡み合って一つになっている。だからあとは唇を重ねられれば気持ちも繋げられるはず。……ううん、難しいことは今はいいのだ。キスがしたい。キスをして欲しい。
その息遣いを感じられるほど近くに二人はいた。同じ温度の熱に彼らは揺蕩っていた。夢心地のままいられたら幸せだと思ったのに、その時ふいにレオンが梨香から視線を逸らした。
「悪かった。……立てるか?」
情欲に濡れた青い瞳も、熱い彼の指先も梨香からそっと離れていく。
彼女は未だレオンのフェロモンの支配下にいたから、彼がそうして遠ざかっていく様をぼんやりと寂しく見つめることしかできなかった。
「梨香」
αのフェロモンが打ち切られて梨香はハッとした。それからゆっくりとレオンに尋ねられたことを頭の中で反芻し、弱々しく頭を振った。
「力が入らない……熱い」
自身のフェロモンは未だ身体の中を蠢いている。
梨香が浅い呼吸を繰り返しながら苦しげに顔を歪めると、レオンが彼女の膝裏や背中に手を差し入れた。
「……レオン……?」
「保健室へ行く。捕まっていろ」
「……うん」
梨香はくたん、とレオンへ身を預けた。それを見て彼は、一言断ってからその身体を抱き上げた。
□
授業終了のチャイムと共に担ぎ込まれた梨香を見て、その様子に保健医は慌てた。顔が赤く、視線も覚束ない様子で、βの彼女でも分かるぐらいにΩのフェロモンがだだ漏れている。授業が終わって生徒が廊下に出て来られる状況の今、下手をすればαやβの生徒に襲われかねない。……ただ。それにしても、そんな彼女を抱えている男子生徒は大丈夫なのだろうか。
とりあえず教員はそのまま二人を奥の部屋に、Ωの生徒専用の、フェロモンを遮断する個室に案内した。
個室の中央に設置されたベッドへ梨香を寝かせながらレオンが説明する。
「もともとΩのフェロモンが漏れ出ていたんですが、俺が威圧してさらに誘発させました。だから本物のヒートではないと思います。彼女の鞄に抑制剤があるのですぐにここに持ってきます」
梨香がとっさにレオンの手に触れた。ハッとしてそちらを見たレオンに、涙を浮かべながら梨香は頭を振る。
「……行かないで」
レオンが彼女と向き合ったのと、保険医が口を挟んだのは同時だった。
「今はあまりαのフェロモンと触れない方がいいわ。そこで横になっていなさい。そしてαの君はこっちへ。貴方のクラスと名前を教えて」
先生が保健室利用のカードを作成するために棚へ向かっていく。
梨香はポロポロと涙を零した。
レオンに遠くに行かないで欲しかった。できるなら傍にいて貰いたかった。だけどそれは叶わないらしい。
「梨香」
レオンが梨香の頬を撫でる。そしてその手を自身の唇に当てて、シィ、と静かに言った。制服のネクタイを解き、それを梨香に握らせる。
「貸しておく」
レオンは再度教員に呼ばれた。
「君、早くこちらに来なさい」
「はい」
今一度梨香を撫でると、レオンは指示に従って部屋を出た。
その背中を見送り、個室の扉が閉じられたことを確認して梨香は手元にあるネクタイをぎゅっと握った。
深呼吸を繰り返す。頭の中がまだガンガン鳴って気持ち悪い。体中を熱が蠢いて力が入らない。
だけど確かに、先生の言う通りレオンが離れて、他人のフェロモンから隔絶されるこの部屋にいると体は楽かもしれない。……心は、寂しいけれど。だから梨香はきゅっと体を丸めて掌にあるレオンのネクタイに縋り、その寂しさに耐えようと努めた。
□
その後梨香は、レオンが持ってきた抑制剤を先生から渡された。薬を飲んだあとはしばらく眠った。放課後には母親が迎えにきてくれたので、そのまま早退して病院へ向かう。
診察をしてくれた医師からは本格的なヒートではないことと、抑制剤が合っていないことを言われた。違う種類の抑制剤を処方されて、家に帰った頃には実際に熱が出てしまっていた。急激なフェロモンの変化に体がついていけなかったらしい。
だから次の日は学校を休んだ。ただ、新しい抑制剤は梨香に合ったようで、一日たっぷり眠って休めば夜には元気になっていた。
携帯を確認すると、梨香を心配するメッセージがたくさん届いている。
ベッドに横になり、クッションを抱きながら梨香はアリシアたちに「もう大丈夫。明日には学校に行けるよ。心配してくれてありがとう」と返信をした。そして……そして、レオンからもメッセージが届いていたから、それも開けてみる。
そこには「ごめん」という一言が送られていた。
「……」
ぎゅう、と梨香はクッションを抱きしめる。
「ごめん」とは、何だろう?どういう意味?
ただの謝罪だろうか、それとも昨日のことは無かったことにして欲しいと婉曲的に言っているのだろうか。
そもそも昨日は、梨香が先に暴走してしまった。レオンはそんな梨香のΩのフェロモンに煽られただけかもしれない。
フェロモンの変調は、人をおかしくさせる。だって昨日は一日中自分はおかしかった。レオンに拒絶されることが怖くて、彼から拒絶された時のために、誰でもいいから傍にいて欲しいと、……他の人を好きになりたいと、昴に縋ってしまった。
そのままなし崩しに梨香が昴を誘惑することをレオンが止めてくれたけれど、あんなにもレオンが怒っていたのは、彼も梨香のフェロモンに当てられておかしくなっていたからかも。
梨香にキスをしたことも、その後に彼が言った言葉も、ただあの場の勢いでそれをしてしまっただけなのかも。
レオンの本心ではなかったのかもしれない。だから「ごめん」なのだろうか。
梨香はチラ、と視線をあげた。すぐ近くのシーツの上にはレオンから借りたネクタイがある。明日、彼に返さなければいけない。
「……レオン」
手を伸ばして、指先でそっと撫でる。
レオンの真意が分からなかったから、梨香は返事を送ることができなかった。
□■□
翌日。
登校すると、レオンはいなかった。昨日からイギリスに帰っているらしい。
言葉を無くした梨香にアリシアが説明した。
「一時的なものなんだけどね。多分、週末には日本に戻ってくるよ」
「そう……なんだ」
体が震え出さないように、梨香は机の下で手を握った。
「でも。どうして、突然イギリスに帰っちゃったのかな。……。もしかして……私のせい、だったりするのかな。日本のことが嫌になったのかな」
暗い想像に傾きかけた梨香に、アリシアが慌てて言葉を続けた。
「違う違う! 梨香のせいじゃないよ。イギリスにいる知り合いでね、予定より前倒しで心臓の手術をすることになった子がいるの。前倒しで手術をするってことは、予想してたより具合が悪いって事で……、気になるから直接様子を見に行くってレオンが言ってた」
それからアリシアはちょっと気まずそうに顔を俯かせた。
「……またこんな風に勝手にレオンのことを梨香に喋ったら、後で文句を言われるかなぁ。……でも、うん。ちゃんと説明してから帰国しなかったレオンが悪いよね。そういう事にしちゃおう」
「そ、それは違うよ、アリシア。私が聞いちゃったから」
「ううん。突然いなくなったら誰でも理由が気になるよ。つまりレオンの落ち度じゃない?」
「そうかな。私は、そうは思えないかも……」
梨香はレオンの〝特別〟じゃない。本当のところは〝友人〟でもないのかもしれない。
黙り込んでしまった梨香にアリシアが頭を降る。
「ううん、やっぱりどう考えても気を遣えてないレオンが悪いよ。だからそんな顔をしないで、梨香。……心臓の手術はね、今すぐ生死に関わるほどのものじゃないらしいんだ。だけど、結構難しいものでもあるみたい。だからもしもの時に備えて、レオンも立ち合うんだって」
それからアリシアはエメラルド色の瞳をそっと伏せた。
「……それでね、梨香。もしレオンが日本に戻ってきて、何かを話したがっていたら、それを聞いてあげて欲しいんだ。……もし何かあったとき、レオンがその気持ちを打ち明けられる相手って、梨香だけだと私は思うから……」
そうだろうか。梨香はうまく応えられず曖昧に微笑んだ。
□
梨香は昴を呼び出し、彼に真摯に謝った。昴には本当に悪いことをしてしまった。先日は突然梨香のフェロモンを当てられ、迫られたのだ。とても嫌だったことだろう。
だから昴には嫌悪を向けられると思ったのだが、彼はあっさりしていた。
「いいよ。体調も悪かったって聞いたし、そういう事もあるよね。お互いこれからも気をつけよう。ってことでまぁ、美術の授業ではまたよろしく」
昴は気安かった。梨香を責めることなく笑ったのを見て、何故彼が人気者なのか、梨香は改めて分かった気がした。
新しい抑制剤は梨香に合っていてフェロモンが安定している。梨香を心配してくれた友達に礼を言ったり、昴に謝ることもできたから、あとの気かがりはレオンのことだった。
彼には何て返信をすれば良いか分からず悩んでいたけれど、それから二日経って、梨香はだんだんとレオンのことが心配になってきた。彼はアリシアにも連絡をしていないらしい。
……梨香が知るレオンという人は、たとえフェロモンのせいだったとしても、あんな状況になった梨香に対して「ごめん」の一言で片付けて良いと考える人ではない。レオンは本当は、情の深い人だ。
イギリスで心臓の手術を受けるというその人に何かあったのか、それともそれ意外の事に思考が割かれて、気持ちに余裕がないのだろうか。
梨香は携帯を見つめ返し、ようやくレオンに返信することにした。
「あの日は私もごめんね。レオン、大丈夫?」
と。
次回は金曜日の17時に投稿します!