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14.〝こころ〟



結局ギリギリまで梨香は教室に入る事ができなかった。廊下の向こうから次の授業を受け持つ英語の先生がやってきたから、やっと重い足を動かして教室に入る。

レオンはすでに自席に戻っていた。英語の教科書を面白くもなさそうにパラパラとめくっているのを梨香は見た。間もなくチャイムが鳴る。学級委員が先生の到着を待って、挨拶の号令をかけた。

入り乱れるクラスメイトに紛れて、梨香もレオンの隣の席へ行く。その時梨香はレオンを見なかったし、彼も同様だった。


授業時間は早いようにも、遅いようにも感じられた。ただ教材の内容が全く頭の中に入ってこないまま英語の授業は終わってしまう。残すはHRだ。流石にこのまま無言でいることはできないと思って、帰り支度にざわつく教室の中、梨香はレオンに話しかけた。


「あ、……あのね、レオン」


レオンがゆっくりと目を瞬かせて梨香を見た。だけど梨香は視線を合わせることができず、俯きがちに言葉を続ける。


「今日貸してくれたトレーナー、洗濯してから返して、いい?」

「そこまでする必要はないけど」

「……私が持って帰るの、気持ち悪い?」

「そんな事は一言も言っていない」

「じゃあ……、洗濯してから返す」

「分かった」


レオンの返答はいつも通りだった。その声音も冷たいものではない。

間もなく担任の先生がやってきてHRを始めた。それが終わった後も、梨香は先生に呼ばれて海外協力支援のワークショップについて説明を受けたし、要項を手に入れた後もレオンが(珍しく)クラスメイトと話していたから、その日はもう彼とは関わらずに梨香は家に帰った。



帰宅後、梨香は病院に行った。医師からはΩのフェロモンが乱れ気味ですね、と言われた。


「初めてのヒートが近いのかもしれません。新しい抑制剤を出しておきますが、あなたに合うかは試してみなければ分からないので、精神的にも肉体的にもあまり無理をしないように」


Ωのフェロモンが乱れると、Ω性の人はいつもよりナイーブに、ネガティブな気持ちになってしまうらしい。

でも今の梨香にとって、ネガティブになるなという方が難しい話だ。家で夕食を食べている時も、お風呂に入っている時も、LINE等でいつレオンから拒絶の言葉が送られてくるだろうと思って、怖かった。

梨香はそのまま眠れない夜を過ごして、洗濯をして乾燥機にかけたレオンのトレーナーを抱えて、翌日登校した。



教室に行くとレオンとアリシアは既に来ていた。朝一番にメロンオレを買いに行かされたらしく、アリシアが文句を言った。


「私が『おはよう』って言ったら、レオン、『メロンオレ』って返してきたんだよ。挨拶はちゃんとするべきだって、梨香からも怒ってやって」

「誤解しないでくれ、間違えたんだ。最近アリシアの顔が、メロンオレに見える時があって……」

「いや、その嘘は流石に雑すぎる!」


両手をグーにして怒りだしたアリシアを、レオンがさらにからかう。梨香はアリシアを宥めながら仲裁に入り、そのままの流れでレオンにトレーナーが入った包みを手渡した。


「昨日はありがとう、レオン」

「あぁ」

「それは何、梨香?」

「体操服のトレーナー。洗濯をするために持って帰ってたの」

「えーっ! 汗なんてかいてなかったのに。洗って返すなんて偉いね」


レオンは梨香に普通に接した。アリシアがいるからだろうかと思ったけれど、その後も彼の態度は変わらなかった。移動教室で会話を交わす際も、化学の実験をする時も、授業と授業の合間に挟まれる短い休みの間だって、彼はいつも通りだった。

それで梨香はようやく理解した。あぁ、レオンの中で昨日のことは無かった事になったんだな、と。

彼の香りに包まれるだけで梨香は幸せになれた。だけどそれはレオンにとっては要らないものだったから、黙殺されてしまうんだ。拾うことも捨てることもされず、そのままずっと置き去りにされてしまうんだろう。ただの友人のままでいることを、自分は望まれているんだ。

梨香だって、レオンの友人でいようと思っていた。でも……、でも、この気持ちを知られてしまった、今は……。


二時間目は現代文だった。

先生から指名されて、一人の女子生徒が教科書に載っている、夏目漱石の「こころ」の一部分を朗読し始める。


「先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。『君は恋をした事がありますか』、私はないと答えた。 『恋をしたくはありませんか』、私は答えなかった。 『したくない事はないでしょう』『ええ』『君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら、相手を得られないという不快の声が交じっていましょう』」


梨香は、読み上げられる文章にドキリと胸を跳ねさせた。


「『そんなふうに聞こえましたか』 『聞こえました。恋の満足を味わっている人は、もっと暖かい声を出すものです』」


女子生徒によって朗読された箇所は、物語の中でも序盤も序盤。「先生」と「私」が会話をしている場面だ。「私」に対して「先生」は、「君は恋をする相手を得られていない。なぜなら恋の満足を味わっている人はそんな冷たい声を出さないからだ」、と指摘している。


恋の満足。

私はきっと、それを得られる日は来ない。

彼女は教科書の文章から視線を外した。


……結局、兄の春藤が正しかったのだ。不器用な梨香に、気持ちを押し隠して友人のフリを続けることは不可能だったのだ。無理をしたために想いがバレて、今、こんなに胸が苦しい。

梨香は口元を手で押さえた。


だって……、だって本当は、今でもやっぱり心のどこかでレオンのことを特別だと感じている。レオンを運命と思っている! それなのに彼に運命の番が居たなんて信じられない。……信じたくない!

それにたとえレオンにレティ―シャがいたとしても、それは過去のことだ。彼女はもうこの世にいない。だから、……だから、彼女の近しい場所に梨香が立ってもいいじゃないか。


女子生徒が朗読を続けている。


「『しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ』」


「こころ」では「先生」が「私」に言う。恋は罪悪です。わかっていますか、と。

でも梨香にとってこの恋は罪悪と呼べるほど仰々しいものじゃない。ただ、自分の愚かしさが浮き彫りになるだけ。物分かりのいい〝友人〟のフリをして、心の内では醜いことを考えている、自分で思っていたより「私は嫌な子なんだ」ということを思い知って、うちひしがれている。それがこの恋だ。


「……気持ち悪い」


薬で抑制できていないΩのフェロモンがグルグル体の中でのたうち回るから、吐きそう。それなのに苦痛を声に出せなかったから、梨香は心の中でそう呟いた。





次回は水曜日の17時に投稿します。よろしくお願いします!

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