11.テスト日 2
古典のテストでは、テストが終了する二十分前には、梨香は全て問題を解き終わっていた。つまりそれぐらいテストが簡単に感じられた。多分古典の点数はレオンに勝てるだろう。
古典以降のテスト科目もこなし、HRも終わって、梨香は早々に鞄を背負った。
お昼ご飯を一緒に食べようと誘いに来たアリシアが、レオンの横で驚いた顔をする。
「梨香、今日はお昼も食べないで行っちゃうの?」
「ごめんね。担任の先生が今から面接の練習をしてくれるっていうから。今日はそっちに行ってもいい?」
「全然いいよ! でもそっかぁ。梨香とレオン、どっちの方が古典の点数が高そうか気になってたんだけどな」
レオンは肩をすくめた。
「まぁ自己採点なんて不確かなものだし、そもそも配点の具合も分からないからね。別にいいんじゃない、どうせ来週には勝敗が着くんだし」
そう言ってからレオンは梨香に微笑んだ。
「行ってらっしゃい。がんばっておいでよ」
「応援してるね、梨香!」
「二人とも、ありがとう。行ってきます!」
レオンとアリシアに手を振って梨香は教室を出た。
□■□
面接の練習に付き合ってくれた担任の先生からは「よく出来ている」とお墨付きをもらった。梨香も、今回はしっかりと準備ができたと自負していた。
だから本番の面接で、パイプ椅子に座って三人の面接官を前にしたときも梨香はしっかりと顔を上げていられたし、「国際協力に興味をもったきっかけは何ですか?」と聞かれた時も、堂々とこう答えることができた。
「私が国際協力に興味を持ったきっかけは中学生の時です。父がアメ梨香に単身赴任をしたとき、アメ梨香のボランティア活動に参加する機会がありました。それには色んな人種の人が参加していて、たくさんの信念がそこにありました。私はその時英語が分からなかったので、一緒にいた兄と見ていることしかできませんでした。けれどその時、いつか私もそこにいた人たちのように、いろんな国の人と協力し合って、一つの問題に取り組み、解決できるような人になりたいと思いましたし、国際協力について興味を持つことができました」
面接官の一人が梨香の志願書を手に取って頷いた。
「良い機会を持たれたんですね。それがあったから、今の高校に進学されたんですか?」
「はい。私が通っている高校は留学生を多く受け入れています。私のクラスにも留学生の子たちが何人かいて、その子達からは、毎日沢山いい刺激を受けています。充実した学生生活を送れていると思っています」
「将来はどんな仕事をしたいですか?」
「復興支援の活動をしたいです。世界にはまだ生命の危機にさらされて、辛い思いをしている人が沢山います。私はそれを悲しく思います。だからこそ学校を作ったり、水や道路の設備を整える手助けをして、その人たちと一緒に笑い合える未来を私はつくっていきたいと思います」
ふと、机の端に座っていた女性の面接官が顔を上げた。
「志願書を拝見しましたが……あなたの第二の性はΩなんですね?」
突然質問の趣向が変わった。
梨香は面くらい、少しドギマギしつつも頷いた。
「えっと……はい。Ωです」
「復興支援が必要な国は、Ωの貴方にとって危険な所も多いと思いますが、その辺りをどう思っていますか?」
「え? えっと……? 危険な所……?」
「言葉の通りの意味です」
「あの……、そこがどんな所であっても、私自身がいろいろと気をつけていれば、大丈夫だと思い、ます」
「いろいろ気をつけるとは?」
「よ、抑制剤を飲んだりして」
「抑制剤ね……。貴方、もうヒートは迎えていらっしゃるんですか?」
「えっ?」
梨香は羞恥で顔を赤くした。それはとても個人的な事柄だが、答えなくちゃいけない質問だろうか? ややパニックになった梨香は、頭の中が散らかったまま答えた。
「まだ、です、……薬で、抑えているので」
「それでは、初めてのヒートがいつ来てもおかしくない状態なんですね。今回貴方が志望した活動は早朝から夕方まで動いてもらうことになりますが、危険ではないでしょうか。体調が崩れるかもしれないのに、貴方はこちらに応募してきたんですか?」
「こ、高校でも、朝から夜まで活動しなくちゃいけない学校行事があります。その時大丈夫だったから、だから……」
「慣れた学校行事とこの活動は違います。それをΩである貴方はちゃんと理解していますか? 初めてのヒートが来ないと確証することができますか?」
今までもΩというだけで揶揄われたり、嫌な思いをしたことはあった。だけど、こんな風にあからさまに責め立てられたことが梨香にはなかった。皆から向けられる視線を感じて、背中は汗をかいて冷えているのに、羞恥で顔に血が集まって熱い。思わず俯いてしまってから、梨香は顔を上げられなくなった。
「か、確証は……でき、ない、です」
「ご両親は貴方がこの活動をすることに何と言っていますか?」
「特に、何も……私のことは、いつも応援してくれていて」
「応援と言ってもですね……、まぁ良いでしょう。ただ貴方は、自身の性のこともちゃんと扱えないのに、他人の、それも他国の人たちに支援の手を差し伸べられると、本気で思っているんですか?」
「それは、……えっと」
しどろもどろの返答になっている、これじゃあダメだ。
そう思うのに言葉が喉につまって、梨香はさらに何も言えなくなってしまった。
みんなの視線が痛い。
恥ずかしい。
あんなに練習したのに。
梨香は泣き出さないようにするのが精一杯だった。
突き刺すような面接官のまなざしで分かる。きっとこの人はΩが嫌いなんだ。でも、でも私だって、と梨香は思った。
私だって昔から、Ωの自分のことなんか大嫌いだ……!
□■□
その後は散々だった。梨香はすっかり萎縮してしまって、用意していた返答も頭の中から吹き飛んでしまい、それでさらにパニックになった。
他の学生たちから向けられる視線も痛い。なるべく誰とも目を合わせないように、懸命に下を向いて耐えていた梨香は、面接が終わり、帰宅許可が出た瞬間逃げるようにその会場を後にした。そのくせ、自宅へ続く帰路を歩むペースは遅い。
両親や春藤に、どんな顔を向ければいいか分からなかった。
きっと心配をかけちゃう、と梨香はまず思った。梨香が落ち込んでいる様子を見れば、絶対に家族の皆は何があったのかを聞いてくれる。そして先程梨香がされた仕打ちを知れば悲しむだろう。
両親や春藤を悲しませたくなかった。彼らを悲しませてしまう自分が情けなかった。
梨香は俯いて、自分の靴先を見つめた。
親戚の中でも、性別がΩなのは梨香しかいない。だから父親と母親が梨香をΩに産んでしまって申し訳ないと思っていることを、実は梨香は知っている。梨香も言ったことはないけれど、Ωに生まれてきてしまってごめんなさい、と両親に思っている。
ゆっくりゆっくり歩いたけれど、とうとう梨香は自宅に着いてしまった。灯りがともった自分の家を見上げる。
梨香は嘘が下手だ。だから、今日のことを隠そうとしてもきっと上手くいかないだろう。それなら最初から面接で何があったかを正直に話すべきだろうか?
……ううん。やっぱり本当のことは言いたくない。心配をかけたくない。Ωに産んじゃってごめんねって言われたくない。……両親や律樹に幻滅されたくない。
ドアの前で深呼吸を繰り返した梨香は、やがてぎゅっと手を握った。それから何とか気持ちを落ち着かせて、意を決して玄関の扉を開き、家の中へ入った。
その後彼女は、両親と春藤にほんのちょっとの本当と嘘を混ぜることにした。「面接はどうだった?」と律樹に聞かれたとき、彼女はこう応えた。
「上手くいかなかった。ちゃんと準備したつもりだったけど、難しい質問をされた時に言葉に詰まって、パニックになっちゃったの。考えてたことも全部飛んじゃって、泣きそうだった。すごく恥ずかしかった」
律樹は眉を下げて、共感するように頷いてくれた。
「恥ずかしいと思う気持ち、分かる気がするよ。俺はまだ面接とかしたことないけど研究発表とか嫌いだもん。梨香は偉いよ。大丈夫?」
「……。ちょっとだけ、落ち込んでるかも」
「そうだよね。俺、後でコンビニ行ってアイスでも買ってくるよ。何食べたい?」
「……お兄ちゃんと買いに行きたい。私も一緒に行ってもいい?」
「もちろんだよ! 父さんと母さんの分も買おうよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「うん」
梨香が気落ちしているのが分かっているからか、皆はそれ以上深くは聞かないでくれた。それにホッとしつつ、梨香は取り繕った態度のまま過ごした。兄とコンビニでアイスを買ってそれを食べたのち、自室に戻ってテスト勉強をする。後は嫌なことを思い出す前に、早めに寝た。
□■□
昨日の面接のことを引きずらないように努めたから、その甲斐あって最終日のテスト科目もいい出来で終われたと思う。
勉強からも解放されたので、早速レオン達と今から何をして遊ぶか、という話になった。カラオケに行く、という方向でまとまりつつある中、レオンが言った。
「俺はあんま梨香ラオケに行ったことがない」
イギリスにもカラオケボックスはあるらしい。けれどもあちらのカラオケは、パブやホールなどと併設されていることが多く、歌を歌う場合も、知らない人たちの前で歌うことが主流のようで、日本のように知り合いだけで集まって個室で熱唱する、ということは少ないという。
そしてレオンの話を聞くに、どうやら彼は梨香やアリシアの前で歌うのは少し恥ずかしいらしく、嫌らしい(もちろん『恥ずかしい』なんて弱みになりそうなことをレオンが言うはずがない。しかし何重にもオブラートに包んだ言葉を解した結果、そうなった)。
恥ずかしがるレオン?! それは、絶対に見たくないか?!
梨香とアリシアが目配せした。何としてでも彼をカラオケに連れて行くよう誘導しようと意思疎通を図ったとき、レオンが嘆息した。
「きみたちさ、分かりやすいから。カラオケに行けばいいんだろ。行くよ」
「どうしたの。素直だね、レオン?」
「どうせいつかは連れて行かれる。こういうことは、早めに済ませた方がいい」
流石、レオンは合理的だ。
ただ、梨香は下校する前に借りていた図書の本を返却する必要があった。図書室は下足室からは反対方向にあるし、急いで行ってくる、と言って梨香は本を抱えて小走りで教室を出た。そんな彼女の後を何故だかレオンがついてくる。
「レオン、何か本を借りるの?」
「んー」
「?」
図書室につき、梨香がカウンターで本を返却している間もレオンは傍に立っていた。
図書委員の生徒が本を受け取って奥に下がったとき、レオンがやっと口を開いた。
「ねぇ、きみ。昨日、何かあったろう」
レオンの声音は優しかったが、断定的な言い方だった。
梨香はドキッとして、空色の澄んだ瞳を見つめ返すことができずに視線を彷徨わせた。
「……私、そんなに分かりやすい、かな?」
「……」
「別段大したことじゃないの」
図書委員の生徒が戻ってきたので、梨香たちはカウンターから離れて、出口へ向かう。その間もレオンから視線を受けていたので、梨香は追求から逃げられないと悟った。
「昨日の面接、上手くいかなかったんだ」
「……」
「ちゃんと準備したつもりだったけど、途中で言葉が出てこなくなっちゃって。面接を受けるのは初めてじゃなかったし、慣れてたつもりだったんだけどね」
「……」
「えっと、……それだけ」
「それは嘘だ」
と、レオンは梨香の目を見てゆっくりと言った。
「その面接で、きみの第二の性のことを、何か言われたのか?」
放課後の校舎は、喧騒から離れて嫌に静かだった。遠くの方から学生たちの声は聞こえてくるけれど、まるでここだけが世界から隔絶されているように感じる。
キンと冷えた学校の廊下でレオンと相対した梨香は、目を見開いた。
「どうして……分かるの?」
「ボランティアの応募用紙を前に担任から貰った際、梨香は第二の性のことを気にしていた。……それに何故だか分かる時がある、きみの事。きみが何を考えているのか、言葉にされていないのに感じてしまうんだ」
梨香もレオンが言葉にしなくても、彼は嬉しそうだとか、楽しそうだとか、……寂しそうだとかが、直感的に分かることがある。感じてしまうことがある。それと同じなのだろうか?
レオンは続けた。
「昨日、何があったんだ。どんな言葉がきみを傷つけた?教えてくれ」
清々しい木々の香りと、果実の甘い香りがする。それは強制力のあるものではなく、梨香を優しく包み込むものだった。
だから梨香は一度は口をつぐんだけれど、最後は話すことにした。両親や春藤にも話せなかった、昨日のことを。
面接官に、皆の前でΩであることを確認されたこと、初めてのヒートがすでに来ているかどうかを聞かれたこと、もし初めてのヒートが来た場合、梨香に責任が持てるのかと問われたこと、両親は梨香がΩなのにこういった活動をすることに何も思わないのかと聞かれたこと、自分の性さえちゃんと扱えないのだから、他者のために尽くすことはできないと、婉曲的に言われてしまったことを。
レオンは梨香を急かさず聞き役に徹してくれていたが、最後、彼女が「Ωである自分が恥ずかしくて、情けなくて、何も言えなくなってしまった」と言ったとき、彼の纏うフェロモンが荒く乱れた。
梨香が驚いて顔を上げると、いつもは穏やかな彼の瞳が激情で揺れているのが見えた。
「お、レオン……?」
「きみが昨日面接を受けたという、活動団体の詳細を教えろ」
「どうして?」
「面接官の女がきみにした侮辱について、その信念のほどを直接問うてやる」
「直接問うって、どういうこと?」
「今の時代、Ω性を差別するなんてナンセンスだ。しかも奉仕活動に従事している人間が、他者もいる前で、きみを辱めたことが許せない。……あぁ、許すことなんて到底できやしない。そいつは訓告されるべきだ。訴えてやる……!」
「訴える?!」
レオンが苛烈すぎて、梨香は呆気にとられてしまった。
「当たり前だ。面接という、学生側が抗えない状況下でセクシャルな質問を持ち出すこと自体許されるべきじゃない。さらにΩ性というバイアスをかけて、その女はきみという人間をちゃんと見なかったし、評価を下さなかった。ふざけている。きみに失礼だ。だから真偽のほどを問いただして、そいつのお綺麗な信念とやらを叩き潰してやる! ……。……おい、梨香。何? 俺は今、こんなにムカついて気分が悪くなってるのに、どうしてきみは笑っているわけ?」
梨香は口元に手を当てて笑みを零していた。
「ごめんね、だってなんだか……、レオンが本気で怒ってるんだもん」
「怒るのは当たり前だ! イギリスでそれをやったら一発で懲戒対象ものだぞ。日本はそういう所、遅れている。きみも笑ってるなんて、能天気がすぎる」
「だって。……だって、なんだか、う、嬉しくて」
ボロッと、その時梨香の目から涙が溢れた。笑みの形を作っていた口元が歪み、嗚咽がもれる。
「レオンが、私よりも怒ってくれたことが、なんだか分からないけど、嬉しくてっ……」
ボロボロと泣き出した梨香を前にして、レオンは一瞬途方にくれたような顔をした。それから彼らしくなく落ち着きなさげに辺りを見回して、物陰の方へ梨香を押しやった。人目を気にしてくれたのだ。
レオンが言った。
「嬉しいって、なんだ。理解できない。どうしてそこで泣くんだ? ……なぁ梨香、泣くなよ」
「うん。ごめん、ごめんね。ちょっと待って。頑張るから」
すんすん鼻を啜る梨香を見つめ、レオンが自身の髪をかき上げた。梨香よりもレオンの方が弱ったような顔をしていたから、梨香はまた微笑んでしまった。
「レオン、ありがとう」
「……」
「お父さんやお母さんや……お兄ちゃんに、昨日のことは言えなかったの。誰にも言えなかった。だからレオンに聞いてもらえて、怒ってくれて、嬉しい」
「……嬉しがる意味がわからないんだけど」
「嬉しいもん」
泣いているくせにニコニコ笑う梨香を見て、レオンはため息をついた。
「……あのさ、本気で海外協力支援機構の仕事につきたいと思うなら、国外に出て、海外のそういった活動に参加するという手もあると思うよ。少なくとも日本よりは第二の性について寛容な部分がある」
「そうなの?」
「……昔、病院で奉仕活動をしている団体と接したことがある。そこにはΩの人がたくさん従事していた。むしろΩの患者のために、意図的に専門家を集めているようだった。発展途上国の国だってそうだ。どこの国にもΩの人はいるはずだから、梨香のような存在は必要とされているはずだよ。……だから、無理解な人間の、心ない言葉で、きみは自分のことを恥ずかしいと思わなくたっていいんだ」
「……」
その時、梨香とレオンの携帯が震えた。見れば、アリシアからLINEが来ていた。2人の帰りが遅いから心配しているようだ。
「アリシアを待たせちゃってるね。早く教室に帰らなきゃ」
「でもきみ、目が腫れてるけど?」
「アリシアにも昨日のことを言おうと思う」
「それはいいね。アリシアもきみを心配していた。面接であったことを聞けば、多分あの子も俺と同じくらいその面接官に対して怒ると思うよ」
梨香は笑って、レオンと一緒に歩き出す。
「あのねレオン、……私、頑張る。ボランティア活動を応募してる所は他にもあるから。だから私、やってみるね。海外に行くのも一つの方法だって言ってくれてありがとう。話を聞いてくれて嬉しかった」
「そう」
レオンの返事はそっけないものだった。けれどそれは、梨香に衒いのない感謝の言葉を言われて気恥ずかったからだ。レオンの気持ちが、梨香には何故だか分かった。
好きだよ、と思う。
好き。レオンのことが、好きだよ。知れば知るほどレオンに惹かれていってしまう。その想いを捨てようと思うのに、ちゃんと友達になりたいと思うのに、本当にできるのかな。だってこんなに好きだっていう気持ちが、心のうちから溢れてしまうのに。
梨香の目からころり、とまた涙が落ちた。レオンはこちらに背を向けていたから気づかなかったし、梨香も気づかないでくれと、小さく願っていた。
申し訳ありません。
土曜日に投稿できませんでした。
次は必ず! 水曜日の17時に投稿いたします。