MAN vs Wild
速度を落とし慎重に音のする方へ歩を進める。相手は手負いの獣だ。迂闊に近づくのは最も危険な状態だろう。それに、獲物を直前にして気を早らせると何かしらのミスを犯して怪我をする可能性も高い。
殊更慎重に、ゆっくりと樹木の密度が濃い場所を抜け、少し開けた場所に出る。
そして---
距離にして20mほど先、一際立派な巨木を背に、まるで待ち構えていたかのように大きな牡鹿が立っていた。
「でかいな・・・!」
中空に浮いていた時は背後からだったし、その後は走っている姿しか見ていなかったが、まじまじと正面から見ると本当に大きな牡鹿だ。
サラブレッド並みの体高に、その頭には五叉に枝分かれし、何かを鷲掴みにする人間の手指のような形に広がった二本の角が屹立している。これ程までに勇壮で美しい獣を見たことはなかった。
巨大な牡鹿はフーッ!と血煙混じりの息を何度も吹き上げ、頭を荒々しく上げ下げして角の先をこちらに向ける。
一歩前に足を進めようとすると、それ以上近づくなとばかりに牡鹿は前足で地面を踏み鳴らし威嚇する。しかし、その足元には血溜まりが広がっていた。もう彼の命も長くはないだろう。早くトメて苦しみから解放しなくてはならない。
スッと銃を構え、
「苦しめてすまなかった。お前の命は無駄にしない」
一言伝えて引鉄を引いた。
ダァン!という発砲音の後に何が起こるのか、普通に考えれば獲物が倒れるか、逃げられるかの二択だ。
しかし、今回は違った。
引鉄を引くコンマ数秒前、鹿が跳んだのだ。何も無い中空を蹴り、こっちに向かって真っ直ぐに。
1発しか装填していなかったので慌てて弾刺しから弾を取り出すが---
”間に合わない”
なんとか1発チャンバーに送り込んだ時には跳んだ鹿が目の前に迫っていた。
「くっ・・・!」
ダァン!
まともに銃を構える間もなくとにかく引鉄を引く。なんとか銃口は鹿に向いていたはずだ。
---しかし雄鹿は止まらず、真正面から突撃を受けて吹っ飛ばされた。
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少し前、春人が宙に立つ鹿を発見した頃---
「あの鹿は・・・」
「ああ、言われなくてもわかっている」
忌々しそうに目を細めて鹿を見やるエルクに、ターミンはそれ以上声をかけなかった。
「あの立派な角。覚えてる。あれは---」
「サンバー。しっ!」
唇に人差し指を当て、余計なことを言いそうになるサンバーを制する。いつもちょっと空気を読んでくれないサンバーを止めるのはターミンの役目だった。
「いくらキツネを落とせても、奴にはあの鹿は倒せないだろう」
腕を組んで不機嫌にフンっと息を吐く。
こう言う時のエルクには何も言わないのが正解だと言うことは昔からよく知っている。
「ま、まあ、とにかくお手並み拝見だね。彼がイガリみたいにやり手なら喜ばしい事じゃないか」
そうこうしている内に春人が身を低くしてコソコソと動き始めた。どうやら鹿の背後に回ろうとしているように見える。
「なんて不器用でノロマな動きだ。あれでは逃げられるぞ」
春人の一挙手一投足に文句アリアリなエルクを無視してターミンとサンバーは黙って行方を見守る。春人は強力な武器を扱える事以外は普通の人間だろう。自分たちのように身軽に樹上を跳ねて移動したり出来ない身体性能を考えれば、自分達と同じ猟果を求めるのはそもそもハンデが大きすぎるのだ。
そして---
ダァン!---ダン!ダァン!
三度、キツネを落とした時と同じ様な音が響き渡った。春人からそれなりに離れた場所にいるのに耳を塞ぎたくなる音だ。何度聞いても恐ろしい。
走り去る鹿を追うように春人も駆け出す。
鹿のいた所まで行き、何を確認しているのかしばし立ち止まって熱心に地面を見ていた。
「何をしている!!早く追え!!」
ずっとヤキモキしているエルクが小声で叫ぶ。
矢が当たった鹿を見失うと面倒なのは狩りを日常とする彼女らにとっては常識だ。
動いているならまだしも、森の中で倒れて動かない地味な色のモノを発見するのは骨が折れる事があるし、錯乱した鹿はどこまで走ってしまうかわからない。
複数人で行う狩りならまだしも、今回はどの程度のスキルがあるかすらわからない人間一人での狩りだ。遠くに走られたらきっと見つけられないだろう。
固唾を飲んで見守る三人をよそに、春人は早足程度で鹿の向かった方角へ進み始めた。
「もっと急げ!何してるんだあいつは!」
「エルクうるさい。焦りすぎ。ハルに任せとくしかない」
「くっ・・・」
「ま、まあまあ。僕らも後を追おう。鹿だけじゃなくてハルまで見失ってしまうよ」
三人は隠れていた低木の影から飛び出し、音もなく一頭と一人を追いかける。
移動しながら、先ほど春人が気にしていた地面を見やると---
まるでそこで肉食獣が獲物を襲ったかのように獲物の血と毛が飛び散っていた。
しばらく追いかけた後、エルクたちがたまに休憩で使う大木の根本の広場でついに春人と鹿と対面した。もうあの鹿には走って逃げる体力が残っていないのだろう。最後の抵抗で狩人に向き合い、気丈に角を振って威嚇している。
そして---
春人が仕掛け、鹿が跳び---