前編:滅びゆく国で
パチパチと、火が爆ぜる。
幾つもの松明が、少女の顔を照らした。
美しく結い上げられた髪は、金の簪と色鮮やかな青の羽根があしらわれ、顔の横には虹色に揺らめく貝の耳飾り。
頬と唇に紅を差したその顏は、かつて覗き見た幸福な花嫁と同じくらいに──否、彼が今まで見た誰よりも、遥かにきれいだった。
たとえ、朱の布で瞳を覆っていても。
たとえ、首より上とは対照的な、埃にまみれたボロを身に纏っていても。
その姿は高潔で、きれいで。
だから、と彼は思う。
たとえ、その胴と首が分かたれようとも──きっと彼女は、うつくしいのだろう。
♢♢♢
鈍い鋼色が弧を描く。
そして、鮮烈な緋が散る。
今は鮮やかなそれが、ほんの数刻も経たぬうちに暗い朱殷となり、そして腐臭を発する事を彼は知っていた。
元はそれなりの財を築いていたのだろう、でっぷりと脂肪のついた身体。ほんの少し前まで恐怖と怒りに喚き、真っ赤となっていた男の顔は、今や蝋人形のように白い。
骸となった──否、彼が物言わぬ骸へと変えた男は、罪人だった。
何の罪を犯したのかは、彼の知るところではない。
人を殺めたのか、物を盗んだのか、それとも不正でも働いたのか。
知らされはしないし、知りたいとも思わない。
ただ処刑しろと言われた者の胸を、剱で横に一閃、そして次に首を撥ねれば、それでいい。
それが彼が父から受け継ぎ、そして子へと繋いでいく仕事。
“神”が定めたのだという、血に縛られた決して変わらぬ役割だ。
彼──ケンレイは、自らの顔にも飛び散った緋を拭う。
厚い雲に覆われた灰色の空からは、白い雪が降っていた。
♢♢♢
ヒュゥと吹き抜けた風に、ケンレイは僅かに身を震わせる。
もう暦の上では春の初めだというのに、山の麓であるここは雪山から絶え間なく吹き降ろす冷たい風のせいで、未だ酷く寒い。
ついと見上げれば、霊峰である険しい雪山は、今日も今日とて国のどこからでも見えるほどの天を衝く鋭い山頂を誇っていた。
一年を通して雪は溶けず、青みがかった白い山肌を晒すその威容からか、多くの人々に“神の住まう山”として崇められている。
気高く美しいそれを人々は恐れ、同時に畏れたのだ。
ケンレイが住んでいるのは、そんな山の麓にある村、その外れだった。
国から部外者の立ち入りの制限されたこの村には、神に祈りを捧げる一族が住んでいる。
その村、唯一の例外がケンレイだ。
──国の処刑人。或いは道から外れ、神に見放された『悪魔』。
そう疎まれる彼はだからこそ、『罪深き穢れた血に、その罪を自覚させるため』に、聖なる村に住むよう強要される。
なんだそれは、とケンレイは思わなくもないが、何を言っても無駄なのは分かっている。
それに、ここ以外に彼が居られる場所も、またないのだ。
物思いに沈んでいたケンレイは、一つの足音でふと我に返った。
村の外れである為に周囲を木々で囲まれており、何よりケンレイが住む家があるここを訪れる人間は限られている。
雪を踏みしめる独特の音ともに、木々の暗闇から現れたのは一人の男。
「よう、ケンレイ!元気にやってるか?」
滅多に現れない来訪人の内の一人、行商人である張は、よっ!と手を挙げた。
♢♢♢
「……相変わらず元気だな、張さん」
黒目黒髪に、黄褐色の肌。
東方出身だという彼は、三月に一度ほどの頻度で村と、ついでにケンレイの元を訪れる行商人だ。
村は比較的、国の王都から近いのだが、如何せんこの村は雪深い場所にあるため、物流は滞りがちだ。
村の人間は基本的には自給自足の生活をしているが、それではどうしても足りない物もある。
それらを得るために、村が特別な許可を与えている行商人の一人が彼だ。
「まぁな。というか、おめぇに元気が無さすぎるんだよ。ホントにまだ十五なのか?」
「余計なお世話だ」
彼の言葉に、ケンレイは憚ることなく顔をしかめる。
今は亡き父とも親交があり、ケンレイを幼い頃から知っている彼は、ケンレイを親戚の子供か何かのように思っている節がある。
即答すると「へいへい」と生返事を返され、積荷を下ろす作業を始めた。それを手伝い終わり、ふと周囲を見渡せば、日が落ち始めているのが分かった。
「張さん、今日はいつもより時間が遅いが大丈夫なのか?もし危険そうなら家に泊めてやってもいいが……」
普段なら朝から昼にかけて、時間に余裕を持って彼はこの村に来るのだが、今日は既に日が傾きかけている。
もうすぐ春だとはいえ、ここは山際で日が短い。
「いや、大丈夫だ。今日は荷が軽いし、さっさと戻れるだろうしな。それに、明日は王都でめんどくせぇ用事があってよ」
「用事?」
「実はなぁ、不正をしてた商人とちょいと交流があってよ……王都の方で執拗い代官どもに、聞き取りをされなきゃなんねぇんだよ」
商人、不正──ああ。
「……昨日の奴か」
それは本当に、張に伝えるつもりのない言葉だった。
処刑される前も散々抵抗され、罵倒され、辟易としていた記憶が蘇り、つい、言葉になってしまっただけ。
けれどケンレイが自らの失言を悟る前に、張ははっとしたように顔を強ばらせ、罪悪感に苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
「……すまねぇ。そういう意味じゃねぇし、交流があったと言っても商売相手だっただけだ」
「いや、俺も失言だった。……それより、水瓶はあるか?今持ってるのはまだ罅が入ってるだけだが、長くは持たない」
「あ〜どうだったっけな。ちょっと待ってろ」
荷物を漁り始めた張に気付かれぬよう、はぁとケンレイは溜息を吐く。今のは完全に、ケンレイが悪い。張に謝らせてはいけなかった。
今朝の男の体型から、その職業についてある程度は推測できていたのだから──張と知り合いである可能性を、考えておかなければならなかった。
「今回は持ってきてねぇな。そうだな……十日後くらいに、また持ってきてやるよ」
「あと二月は持つだろうから、次に来る時でいい。雪もかなり積もってるし、面倒だろ」
「いや、構わねぇさ。……それが、餞別になるからな」
その言葉に、いつか来るだろうと思っていたその時が、ついに来た事を悟った。
「……そうか。そんなにもうこの国は不味いのか」
「あぁ。王都もかなり荒れてる。この村はマシな方だよ」
この国は五年ほど前から、滅亡の一途を辿っている。原因は、国全体に及ぶ大幅な平均気温の低下だ。
夏は十分に気温が上がらず、冬はそれまで雪が降らなかった地域にまで積もる。
そんな状態で、作物が取れるはずがない。
国は元々、大して国土が広いわけでもなければ、何か特産品や鉱物などがある訳でもない。
むしろ、よく五年ももったほうだろうなと張は言う。
「ケンレイ……俺と一緒に、国を出ないか。お前は聡いし、きっと商売にもすぐ慣れる。今のこの国の状況を考えれば、追手もそう案じるほどじゃない。だから、」
「……張さん」
ケンレイには、張が何を言うつもりなのか知っていた。
ここを去って、俺と来ないか、と。
処刑人など、辞めてしまえばいい、と。
ケンレイが父の職を継いだ時から、そう何度も言われてきた。
それが張の優しさだと、分からない訳がない。
けれど、だからこそ。
「俺は、行けない」
ケンレイは、彼の言葉を遮った。
確かに追手は少ないだろう。国が荒れ始め、徐々に治安が悪化していくのは、人里離れたこの場所でも犯罪者の増加という形でケンレイにも知れた。
今のこの国に処刑人が逃げたからと、どこまでも追う余力はない。
故に逃げるという選択肢を選ばないのは、彼の迷惑を考えてのことではない。
彼の心からの親切を蹴るのは、ケンレイの自分勝手な都合と感情。
ケンレイは穏やかに笑ってさえ見せた。
彼を安心させるように──張に、僅かな罪悪感さえ抱く必要はないのだと、伝えるために。
♢♢♢
張は「また二日後に来る」と一言だけを残し去っていった。
だからすっかり夜も更け、ケンレイが荒屋でぼんやりと火を眺めていた時、家の外に人の気配を感じて咄嗟に剣を取った。
鞘から刃を抜き、扉の横に背を付けて構える。
人の気配はひとつだけ。こんな夜に訪れる者など、ろくな者である試しがない。
物取りか、あるいはケンレイが処刑してきた者の復讐に来た人間か──凡そ、予想はつく。
だからといって、大人しく殺されてやる義理はない。
たった一人で、という点は気になったものの、扉の外の前へ気配が移動してきた瞬間、それは雑念として消えた。
剣を構えたまま、勢いよく扉を蹴り開ける。そのままの勢いで剣を走らせて──慌てて腕の動きを止めた。
それでも、首筋ギリギリでしか止められなかった鈍色の刃は、はらりと幾筋かの銀を切り落とす。
キラキラと光りながら落ちるそれを視界の端で捉えながら、ケンレイは驚きで目を見開く。
そこに立っていたのは、一人の少女。
白い外套に身を包んだ彼女は、目の前の刃などまるで見えていないかのように穏やかに口を開いた。
「お久しぶりです、ケンレイ」
次はおっさんだけじゃなくて、がっつりヒロインが出てきます…!