二話
「へー、小池ちゃんもここに来てたんだ」
高くて、きれいな声。香流は手を後ろに組んで、上半身をかがめて尋ねてくる。わずかに茶色の入った黒いポニーテールが小さく跳ねた。その顔に浮かぶのは、微かに何かを含んだ、無垢な笑み。
もっとも小池に、そんな彼女の様子を観察する余裕などなくて。
「あ、どうも。はい」
美人であるという情報以上には何も得ることなく、コンクリートと面接を始めてしまった。
先のタイミング。柵の向こうに座る彼女と目が合った瞬間。
硬直した空気を、香流の素早い動き出しが破った。小池が逃げようと思う間もなく、勢いよく柵を超えて、一目散に近寄ってきた。
別に、屋上でサボっているところを香流から認識されたところで、彼女も同じサボりなのだ。屋上を追い出されるようなことはないだろう。それはわかっていたが、単純に知らない人に絡まれるのが面倒で、できれば避けたいイベントであった。
そんな、気まずい感覚を覚える小池とは対照的に、香流はフレンドリーに尋ねてくる。
「一学期の最後くらいから授業にあんまりいなかったけど、もしかしてそのころから?」
「ん、まあ。そう、です」
「なんで敬語なのよークラスメイトでしょー」
小池のコミュ障丸出しな反応が新鮮に感じられたのだろうか。香流は笑ってツッコミを入れる。
愛想笑いを浮かべることもできず、小池は『自殺しようとしていた人間のテンションじゃねぇなぁ』と、心の中にクエスチョンマークを浮かべた。
いや、それはあまりにもテンプレすぎる考え方だろうか。表向きそういう風に見せているだけで、独りの時に闇を吐き出すタイプなのかもしれない。
まぁ、そもそも自殺しようとしていたとも限らないわけで。ただの子供じみた度胸試しとか、そういう類の話だったのかもしれない。
「小池ちゃん、授業いないときはいつもここに?」
「あー、まあ」
「へーそうなんだぁ。てっきり学校の外に行ってるんだと思ってた。ゲームセンターとか」
「あんまゲームしないし」
「そっかぁ。じゃ、今は何してたの?」
「何も。先生のタバコの副流煙吸ってた」
「変わった趣味だねえ」
口元から煙を吹いた先生が、右手を挙げて「よっ」香流に挨拶。「どーもどーも」
「佐川先生もサボってて大丈夫なんですか? 校長先生に怒られたりしません?」
「たまに教頭に嫌味言われる。給料泥棒だなんだって。残業代出ないんだからその分サボってもいいと 思うんだがなぁ」
「あはは。先生ってやっぱり大変なんですね」
「お前らみたいな不良生徒の面倒も見なきゃなんねぇしな」
「わたしは品行方正な副委員長ですー。不良じゃありませーん」
美化委員ではなかったらしい。
それはともかく、少し意外だな、と思った。
小池的には、副委員長とは、真面目だけれど目立ちたくない人間が委員長を押し付けられそうな空気感の中、双方の妥協的として就任する役職というイメージがある。
香流の一目の印象は委員長タイプだが、もしかしたら彼女はこれで奥ゆかしい、恥ずかしがりな側面を持っているのかもしれない。
あるいは、彼女以上に委員長に適任だった者がいたのか。四月のことなどもう忘れてしまった。
脳内の記憶を探りながら、ふりふりと動く香流のポニーテールを眺める。やっぱり髪はまとめたほうが楽なんだろうか。自分も縛ろうかな。そんなことを考えたが、数年前に同じことを思い、やってみた結果、髪をいちいちまとめるのが面倒だからと三日すら保たなかったことを思い出した。
長い目で見た利益よりも目先の怠惰を取るタイプの人間だから、きっと将来お金のやりくりに苦労するんだろうなぁと今から心配になる。そういうところ几帳面で、節約上手で、たくさんお金を稼いでくれて、怠慢を許してくれる旦那を探すしかない。
「それにしても見事な秋晴れだよねえ、小池ちゃん」
「え、あ、うん。まあ、そうだね」
隣に腰を下ろした香流と目が合う。
反射的にそらす。
香流はそんな小池の反応に、数瞬、ニンマリと笑んだ。
「あーあ、こんなに気持ちの良い天気なのに、教室で授業を受けるなんてバカバカしいと思わない?」
何事もなかったようにぐいーっと伸びをして言う。
「いや、まだ暑いし冷房のある教室のほうがいいでしょ」
「小池ちゃん寒いほうが得意派?」
「どっちも嫌い。でもまだマシ」
「ほんとだねえ。手あったかい」
いきなり手を握られた。びくんと反応してしまう小池にかまわず、香流はにぎにぎと手を揉む。
距離感の近さにビビりつつ、頭の片隅で、オセロみたいだな、と思った。自分の日に焼けた手とくっつくと、より一層彼女の白さが際立つ。
細くて長い指と、艶やかな爪。当然ささくれなんてものもない、モデルのような綺麗な肌。ひんやりとした感触。
「小池ちゃん平熱いくつくらい?」
「えー覚えてないけど……36くらい?」
「それだけあれば冬でもあったかいよねえ」
「それ関係ある?」
「そりゃーねぇ。わたしなんて体温低すぎて、冬はいつも芯から冷えるの。もう今から冬が来るのが憂鬱よ」
「それ、逆に夏は涼しそうでいいじゃん」
「んー、暑がりな人からべたべた触られるから結局暑いよ」
「確かに、冷たくて気持ち良い」
人望があるのも考え物だな、と少しだけ思った。欲しがっても手に入らないものを考えても仕方ないけれど。
「ところで小池ちゃん、この後、授業出る?」
「んー、そういう気分でもないなぁ」
じゃあ何をする気分なのかというと、何もしたくないというのが正直なところだ。とはいえ、こうして何もしない時間というのは、あまりにも長すぎて、かえってきつかったりもする。退屈とはこの上ない贅沢であり、苦痛だ。
誰だったかが、「人生は何かを成すには短すぎ、何もしないには長すぎる」みたいなことを言っていたけれど、きっと今の自分は、その縮小図を踏みしめているところなのだろう。
「これ以上休んだら留年だって、こないだ職員室で聞いたけど大丈夫?」
「……えーマジで?」
暇とか言っている場合じゃなかった。
具体的な出席日数に関しては全く計算していなかったけれど、もうそんなに積み重なっていたのだろうか。まだもうしばらくは大丈夫だと思っていたのだけれど。
これから全部出席とかできる気がしない。怠惰が身に染み付きすぎて、平常通りの生活ですらハードルがすでに高い。
「うーん、仕方ない。留年なったら退学して、適当にフリーターにでもなるか」
「諦めるの早いねえ。なんのバイトするの?」
「んー。なにがいいんだろ。プールの監視員とか楽って聞くけど、募集してるかな」
「おっ、いいね。わたしもプールのバイト探してみようかな。泳ぐの好きだし」
「そう……」
プールのバイトはやめておこう。心に誓った。知り合いのいる場所で働くなんて絶対面倒だ。そもそも感覚的には、彼女は知り合いというレベルですらないわけだけど。
「まーウソなんだけどね」
「え、何が」
プールが?
「留年が」
「あ、そっち」
留年はしないらしい。よかった。少しほっとする。モラトリアム延長。怠惰は続くよどこまでも。
「いやー、面白いかなって思ってよく冗談言うんだけど、今回のはちょっと違ったね。ごめんごめん」
香流は右手を頭の後ろにやって、あははと笑う。
「わたし嘘つきだから、あんまりわたしの言うこと真に受けないでね。適当に流すくらいで大丈夫だから」
「へえ、そう」
嘘つきは個性の一つ、とまで言う気はないが、どうせ彼女とは今後もクラスメイト以上の関わりはないのだろうし、わざわざ咎めるのも面倒くさい。きっと教室に戻れば、彼女はクラスメイトABCの誰かになるだけだし。
「香流に小池。アタシはそろそろ職員室戻るし、お前らも次の授業くらいは出ろよ」
ずっとスマホとにらめっこしていた佐川先生が、おもむろにそう言って重い腰を持ち上げた。尻をパンパンと払って、立ち去る。同時、キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴る。
一人去っていく先生を眺めながら、香流が口を開いた。
「それじゃあ、わたしも戻ろうかな。保健室にいることになってるし、バレる前に帰らなきゃ。小池ちゃんはどうする?」
香流が立ち上がって、見下ろしてくる。
数秒間の思考。小池は、掌でコンクリートをぐっと押した。
「……私も、授業出ようかな。留年したくないし」
「そっか」
「あーでも教室入るまでが暑いんだよなあ。廊下にも冷房つけろ」
「じゃあ、手つないで帰る?」
「えっ」
「冗談冗談」
いたずらっぽく笑って、香流が先を歩き出す。
彼女の小さな背中へ向かって、「変な人だなあ」小さく呟いて、歩を進めた。