51 結婚指輪とロケット
結婚初日の出勤は今までの鉛の様な足取りとはまるで違い、嘘の様に足取りが軽やかだった。羽でも生えているのでは無いだろうかと何度も自分の足元を見返した。
電車内や駅でもそうだ、あれだけ人でごった返している地獄絵図を入社して初めて、穏やかな気持ちで眺めることが出来た。うん、これはもう一種の病気かも知れない。
「紺野さん、おはようございます。」
「あ、おはようございます。」
「二人ともおはようございます。」
別の課の名前も知らない女性社員が俺に挨拶をしてくれた、相手は知っているのに俺は知らない、申し訳ない気持ちになり鑑定を使おうとした所で更に声をかけてきた。
「今日はいつもと違いご機嫌じゃ無いですか?何か良いことでもありました?」
「私もそれ思いました!物凄く機嫌がいいですよね?」
「え?そう?」
俺は無難に返しておく。
「だって〜ねぇ?」
「うんうん。」
その女性社員はお互いに顔を見合わせながら可笑しそうに視線を俺へと向けて来る。
「ん?なになに?」
「「紺野さんずーっと口許緩みっぱなしですよ!あはは。」」
「嘘!」
どうやら俺は自分で思っている以上に浮かれまくってだらし無い顔を晒してしまっていたらしい。
俺が気持ちを引き締めるように〝パンパン〟と顔を叩いているとその二人は一階勤務なのだろう。笑いながら自分の課の方へと進んでいった。総務課だろうか?
そんな事をしながらエレベーターを待っていると後ろから声がかけられた。
「朝からついてないなー僕も。ねぇ君僕に何か恨みでもあるわけ?」
瞬時に俺の耳は餃子の様な形になりパタパタと閉じていく。
「ねぇー君に言ってるんだよ?紺野くん。」
チッ…名指しして来やがったか。
餃子だった耳が元に戻り俺はゆっくりと後方を振り返る。
「あ、係長おはようございます。」
「〝おはようございます〟じゃ無いんだよ、君は日本語が理解出来ないの?僕に何か恨みがあるのかって聞いてるの?分かる?」
そう言うと俺の頭を軽くパンパンと叩き始める。
〝恨みですか?あるに決まってるじゃ無いですか?〟
そう心の中で呟いてから、笑顔を向ける。
周囲の他の課の社員は皆、係長の行為にドン引きである。でもなんだろう、いつもの三分の一くらいしか苛つかないぞ…既婚者補正か!?
心の余裕のせいか少し悪戯を思いついてしまった。
「係長!」
俺は大声をあげる。すると周囲の人間の視線が一斉に俺へと向いた。
名前を呼ばれた係長本人もまさか俺が大声をあげるとは思っていなかったのかビクッと肩を震わせる。
「ネクタイが曲がってますよ。」
そう言うと俺は優しく直してあげる。
流石、既婚者補正。心の余裕が半端ない。
呆気にとられる周囲や係長を他所に俺は〝ふふん〟と鼻を鳴らし口角を上げニヤリと微笑みながらエレベーターへと入り、二階へと向かう。
きっと後で何倍も苛められるだろう…俺はエレベーターの中一人顔色を青ざめさせていた。
課に着いてからはやたらと須藤が絡んできた。
「先輩、エレベーターの一件見てたっすよ!皆、笑ってて係長、顔真っ赤にしてたっすよ?自殺志願者かなんかっすか?」
「あーやっぱり?だからずっと睨んできてるんだね、情報ありがとう。はぁ〜。」
俺はチラッと係長を確認すると鬼の形相で睨んできており思わず溜息を洩らしながら力なく項垂れるとそのままデスクへと突っ伏した。
「いやぁ〜。先輩勇者つーか魔王っすよ。笑みが黒かったっす!『ネクタイが曲がってますよ』(ニヤリ」
須藤は俺のモノマネをしながら揶揄う様な口調で言う。
「お前もういいから帰れよ!」
「いや違うんすよ、今日はお願いがあって…。今月まじヤバイんすよ。」
須藤は俺のスーツを掴むと捨てられた子犬の様に泣きついて来た。
「はぁ〜。」
俺は探る様な視線を送る。須藤は真剣な表情で首を横に振る。
「1円もか?」
「うっす。」
「お前って馬鹿だよな、2万で足りるか?」
「十分っす、先輩来月絶対返します!」
嬉しそうな須藤を尻目に誰かの視線を感じたが、もう随分と社員が集まってきており、その視線が誰のものかまでは確かめることが出来なかった。
午前中は約束があったので俺は外回りに出かけた。その際、係長はとても嬉しそうな笑みを洩らしていた。お昼は、適当にコンビニでおにぎりとカップ麺を買って過ごしておいた。魔法でお湯を出したのだが全く問題なくうまかった。
しかし、俺と同年代のおっさんが手から出したお湯を使おうとはどうしても思えない、リノアこそ勇者である。
〜〜〜〜〜
午後は外回りの人間が多いからか課の中は粛然としていた。そんな中俺は適当に自分の書類作成や整理等を行っていたのだが、ふと可笑しな行動を取っている二人がいることに気付く。
上田さんともう一人は白山さんだ。
「何を気にしているんだろ?」
思わず小さく声が洩れるが、幸い周囲には誰も人が居らずその呟きは聞かれることは無かった。
俺は仕事を続けるフリをしながら二人の観察を続けた。
二人のデスクは隣同士なのだが、時折小声で話した後、課の入り口の方を何度も見ていた。
(あぁ、須藤か。あいつが外回りだから落ち着かないのかな?)
ただ、その時の二人の瞳の色が恋愛の暖かな色というより恐怖を体現するような怯えた色をしていた事に俺は全く気付いてすらいなかった。
それから1時間、きっちり仕事をしてから喫煙ブースに向かう振りをしてとある理由でリノアへと電話を掛ける。
〜〜〜〜〜〜
先程の電話で実はリノアには電車に乗って会社の近くまでアルと来てもらう事にしたのだ。
ミアへ婚約指輪すら渡していないので結婚指輪を渡したくて、本当はミアも含めて三人で選びたかったのだが、ミアはまだ日本に慣れていない事もあり娘と2人で選んで渡してしまおうと考えたのだ。
だが、もう電車に乗れるようになっているリノアには本当に驚愕である、余程弄られたのが堪えたのかとも考えたが、よく考えればあの服を初めて買いに行った日の帰りの電車内ではもう飽きていらしたのを思い出した。
(助かったから、別にいいか…)
「パパ〜!こっちこっち!」
考え事をしながら歩いていると雑踏の中から幼女の声が聞こえて来た。
俺はその声がした方へ視線を向け周囲を確認していると、嬉しそうに手を腕ごと大きく振りながら満面の笑みを洩らす幼女の姿があった、我が愛娘リノアである。
俺は軽く手を振り返すとすぐにその場所へと駆け出した。
「いやぁーわりぃ、遅くなったか?アルもありがとな?」
「いえ、閣下お疲れ様でした。」
アルは左手を胸に添えてると綺麗なお辞儀を見せた。
『きゃぁぁ〜❤︎』『ねぇ、ちょっと見て❤︎』『カッコイイ❤︎』
俺はいきなりの黄色い声に驚いてしまい、慌てて視線を周囲へと向けると大勢の女性が頬を赤く染め熱のこもった眼差しでアルの事を見つめていた。
「ひぃっ!」
俺はその視線の多さに思わず恐怖から変な声を洩らす。
俺はそっとリノアへと近づき耳元へ確認するように呟いた。
「な、なぁ〜毎回アルってこんな感じ?」
するとリノアは腕を組み始め、その後すぐに人差し指でこめかみを抑えながら小首を傾げた。
「コンビニの時はそうでも無かったんだけど、多分今日はずっとこんな感じだよ?」
「へぇーそりゃ大変だな…。」
俺はなんだかアルが可哀想になってしまいつい哀れみの視線を向けた。
「あ、あの閣下、如何致しました?」
キョトンとした視線をアルが向けてくる。
「あ、あぁ、うん、取り敢えずジュエリーショップ行くか?」
俺はその場から逃げ出すようにリノアの手を引いた。
「うん!」
リノアは俺に手を引かれるのを嬉しそうにしている。
(俺の娘マジ可愛い!)
お店は駅のすぐ近くだったので、多少目立ったが特に問題は無かったと思う。
目的のジュエリーショップはさすが、高級店という名にふさわしい外観だった。
リノアが明らかに挙動不審になっていたが、これは俺も笑えない。
結婚指輪を買いに来たことなんて俺も初めての事なので実は服装とか普段のスーツで大丈夫なのかと実を言うと昨日少し悩んだのだ。
店内は想像していたような堅苦しいものでは無く逆にゆったりとした空間が広がっていた。そのお陰で結婚指輪素人?の俺でも少しだけ気持ちが楽になった。
店内を眺めていると直ぐに店員の女性が声を掛けてきた。
「いらっしゃいませ、何かお探しでしょうか?」
完璧な営業スマイルである。
「はい、実は結婚指輪を、娘と一緒に探しに来ました。」
俺は照れ臭そうに笑った。
「それはおめでとうございます♪」
「ありがとうございます。」
全く知らない人からでも〝結婚おめでとう〟と言われると凄く嬉しい、実に不思議である。
俺だけかも知れないが〝就職おめでとう〟や〝進学おめでとう〟とは嬉しさのレベルが違うぞ?
「それでサイズ等はお分かりでしょうか?」
「あ、はい実はこれで測ったんですけど…」
俺はスーツの内ポケットからコード等を纏めるときに使うプラスチックコードを取り出して店員さんへと手渡した。
実は昨日ミアが寝てる間にこっそり指のサイズを測っておいたのだ、しかし、いざ測ろうとした時にちょっとした問題が発生した。
俺は裁縫なんかしない…そう糸が無かったのだ、だから代わりになるものを必死に探し出した、それで俺が代用品に選んだのが先程のコードである。
これは硬いのでミアが起きない様に慎重に指に巻きつけた。
「あ、はい。大丈夫ですよ。」
俺が申し訳なさそうに出した事が可笑しかったのか店員さんは口許を押さえながら笑っていた。
(いや、良かった良かった。さすがにこれで大丈夫なのか自信がなかった。)
その後色々な指輪を見せてもらったが俺はこれから先別の指輪を一緒に付けたくなった時に重ね付けが出来るシンプルな物が良いのでは無いかと考えて、そういう種類を主に見せて貰っていた。
そこでふと一つの指輪が俺の視界に止まる。
「あっ…これ。」
浅いV字のプラチナ製のリングで小さなダイヤが幾つか散りばめられている物だ。
リング名が〝感謝の花束〟という名前で、数え切れないほどのありがとうの花束をあなたにというコンセプトで作られたものだった。
俺はこれがミアっぽく感じてしまい、即これを送りたいと思った。
それを店員さんに伝えると「そういう直感は大事ですよ」と凄くいい笑顔で答えてくれた。
リノアも賛成ということで買って帰ろうとしたところ、リノアがじっと何かを見つめていた。
俺は気になりそっと後ろから覗き込んでみるとそれは星型のロケットだった。
「リノア、それ欲しいのか?」
「うん、すっごくすっごく欲しい!」
リノアはパーっと花が咲き誇る様な笑顔で答えて来た。
(あれ?一回は遠慮して断るのがテンプレですよ?ここ高級店ですよ?)
そう思ったが、ものすごく欲しそうな笑顔に負けてしまいついつい買うことになってしまった。
指輪ほど高額では無いが、ロケットに2万って…。
某通販サイトでなら500円で買えますよ…だがリノアの笑顔を見られて本音では俺も満更では無かった。
しかし、アルお前はダメだ!
アルも何気にブレスレットを見ながらちょくちょくこっちを見ていたが俺は気付かないフリをして店をそっと出た。
その後俺たちはコンビニへと寄り、リノアへの約束のアイスやお菓子、ビール類を買い込むとそのまま帰宅した。
ちなみに指輪の受け取りは今週末に行くことになった。
家に帰ってすぐにミアが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お帰り〜♪」
「ただいま!」
ミアは俺に抱きついてくると唇へ唇を重ねて来た。
リノアはその隙に物凄く不自然にお腹を抑えながら自分のカラーボックスの方へと走り去っていた。
(いや、リノアさんや…それ滅茶苦茶不自然ですから!)
帰り道…実は、今日買ったロケットの事は指輪を送るまでバレちゃ意味がないので内緒にしておこうと話していたのだが、明らかに不審者の動きでした。
まぁ、バレてないみたいだから今回はいいけど、リノアさん、お願いしますよ。
「でも、今日はどうしてリノアやアルも一緒だったの?」
「あ、あぁ実は前に約束していた、アイス買ってやってたんだよ、どれがいいか分かんないから近くで待ち合わせしてたんだよ。」
「…ふ〜ん?」
明らかにミアが訝し気な瞳を向けてくるが、この時の為にコンビニへ寄っていた様な物で、俺が現物のアイスを見せるととても嬉しそうにニヤけていた。流石のハーゲ◯ダッツ!
食事を作っていたアンヌもやって来て帰宅の挨拶をした。
「あ、そういえばアンヌ、じーちゃんの具合はどうよ?」
「はい、あれから毎日頂いた薬は飲む様にしていますが…まだ一錠しか飲まない様にしているみたいです。」
「そっか、まだもう少し効果が出るまで時間かかるかもな。」
「はい、頂いた薬もまだ有りますので、気長に待ってみようかと思っています。」
「何かあったら必ず言うんだぞ?」
「はい、お気遣い頂きましてありがとうございます。」
俺は〝気にするな〟とヒラヒラと手のひらを振りながら、ミアと一緒にリビングでゆっくりと過ごす事にした。
ミアは俺の横に座ってミカンを剥き始める。
「あのさミア、任命魔法で結婚しても何か書類とか何処かに提出したりするの?」
「任命魔法を使ったんだから書類とかないわよ?身分証も私はリュノミア・フォン・コンノにちゃんとなってるし❤︎」
ミアは俺の肩へと頭を預けて来てニヤニヤしている。
「ふ〜ん?やっぱり便利だなーこの任命魔法ってさ。」
「そうねぇ〜。それに私任命魔法で結婚したの初めてだから嬉しい♡」
ミアはどうやら前回の婚姻は書類で済ませたみたいだ、正直それを聞いて俺も滅茶苦茶嬉しくなった。
「そうなんだ、俺も嬉しいよ、ミア。」
俺はミアへとキスをする、そこにリノアがニヤけてながら現れた。
「パパ、顔がだらし無いよ?」
リノアは口元を押さえクスクスと笑う。
「あら?そうなの?♡」
ミアは俺に寄りかかっているので表情が見えず残念そうだが、今は緩みっぱなしだから勘弁して欲しい。
「ふむ、んじゃ後はマーロンに話すだけかな。」
俺の呟きを聞くと何故かミアは凄く嬉しそうに微笑んでいた。
〜〜〜〜〜
それからの数日間は本当に何事もなく皆、普段通りの生活をしていた。
俺は仕事をして帰ってきて、バーレリアの文字やいろいろな事をミア達から学ぶ。
逆にミアたちは日本の言葉や、常識を学ぶ、アンヌはじーちゃんの看病をしながら王都と森の家を魔力を纏っての全力疾走で大変そうだった。じーちゃんが落ち着くまで流石に休んでも構わないと言ったのだが、頑として頷かなかった。
何でも、俺の世話をしない方が体調が悪いんだと物凄く力説されてしまった。
(うん、もうアンヌの好きにさせてしまおう。)
アルはリノアを護衛しながら一緒に王都に遊びに行ったりもしている様だった。
よくおじいちゃんから貰ったと言って、服やバック、靴等を見せびらかせて来るが、あまり普段は着ていない様に思う。正直日本の服の方が可愛いから仕方ないが偶には着てあげなさいよ。
ちなみに俺はまだ一緒に遊びに行けていない…。
砂糖は第一回目の取引を無事に終えることが出来た。
これはミアが実家という事もあり中心でやってくれそうだ、コップ等もまだ必要そうだったので、今度百均に買いに行くと言っていた。
そういえば昨日驚いたんだが、ミア、リノア、アルの3人でユ◯クロにミアの服を買いに出掛けたらしい。
会話はまだリノアが中心の様だがそれでも三人で行けた事が凄いと思う。
そのミアとリノアは俺の目の前で大変ご機嫌である。二人とも体中からキラキラした何かを放っているのでは無いかと錯覚してしまう程だ、きっとアレが幸せオーラというモノだろう。
実は先ほどミアへやっと結婚指輪を渡すことができたのだ、それと同時にリノアもロケットが解禁され、それでこの今の状態になっていると言う訳だ。
ミアは指輪をうっとりと眺め〝うふふっ♪〟と終始笑っている。
リノアは何度もロケットを開けては写真を眺め、また閉めるをずっと繰り返している。
本当に此処まで喜んでくれるなら安いもんだよ。
ちなみに中に入ってる写真は俺たち家族5人でロケットに入れるためについ先ほど撮ったものだ。写真を撮る時、森の中で撮っていたのだが、何故か何度もアルは逃げていた、まさか魂とかベタな事言わないよね…。
今の俺は二人の嬉しそうな笑顔を見て、二人にも負けない程の笑顔を振りまいている事だろう。するとミアが俺の視線に気づき近づいて来た。
「あなた、本当にありがとう!大切にするわね♪」
「いや、あっそうだ!ミアその結婚指輪は〝感謝の花束〟っていう名前がついてたよ。」
「感謝の花束…」
ミアは愛おしそうに指輪の名前を呟くと、とても大事そうに胸の前に持っていき、ギュッと両手で抱きしめる様に握りしめた。
「うん、何でも花束の様にたくさんのありがとうをあなたに送るっていう意味みたい。」
「それを見てからミアには絶対それしかないって決めたんだよ。」
ミアは静かに涙を流しながら俺の胸に頭を預けて来た。
「私の方こそ、本当にありがとう。愛してるわ。」
リノアもそれを見て嬉しそうに俺とミアに抱きついてきたので、俺はそれを受け止めると二人を包み込む様にとても大切に抱きしめた。




