元空手家の未練
「いやあ、キミの知識には心から脱帽だよ。どうしても、僕の専属のコンサルタントになる気はないのかい?好待遇にしてあげるのに。」
「それはそれで良さそうなのですが、僕も他にやりたいことがあるので。また機会があればご協力しますよ!」
そう商人に言い残して、俺は宿を後にした。いいパイプも手に入ったことだし、次のステップに進もうじゃないか。
俺が進みたい次のステップとは、「武の道を極める」というものだ。どうしてこの目標を掲げたのかを語るには、俺の過去(というか前世)まで遡らなければならない。
◇
三角正弦、6才。母に連れられて、空手道場の体験に来ていた。
俺は一瞬で空手の魅力に取り憑かれた。何というか、道場に入った瞬間から「ああ、こここそが俺の居場所だ!」と直感したのだった。
俺の直感は大当たりだった。空手の稽古に取り組める時間をできる限り長くするために、かつてはダラダラとやっていた学校の宿題を1/3の時間でテキパキと済ますようになるほどに俺は空手にのめり込んでいた。
稽古はキツかった。拳立てで手の甲の感覚が麻痺することなど日常茶飯事。だが、そんな厳しささえも気にならないほどに空手が大好きだったのだ。
練習のキツさをx、空手の楽しさをf(x)としてランダウの記号で表記するならばx=o(f(x))て所だろうか。
そんな具合に空手一筋に生きていたもんだから、小学生の間に黒帯まで昇りつめることもできた。中学生になったら速攻で大人用の黒帯も手に入れた。
青天の霹靂。それが起こったのは中3の夏だった。何が起こったかというと、某アイドルのJr期の曲のような恋愛沙汰が、、、という訳ではなく、俺にとっての最悪の事態、膝の故障が起きたのだ。
俺の空手家としての選手生命は、最後の全国大会を目前にして潰えてしまった。
エボラ出血熱の夢を見たあの日まで、遂に俺の怪我が完治することは無かったのである・・・
◇
俺、10才。
故障など一切無い健康体である上に、瞑想部屋の成果で一般人を遥かに凌駕する身体能力を有している。
前世で諦めた武の道に、再び邁進しない理由を探す方が難しいというものだ。
武の道を阻みかねない最大の懸念材料であった経済的側面は、運良く出会った商人と前世で培ったマーケティング能力のお陰であっさりと解決した。もうすぐ一心不乱に稽古に取り組める状況が整うと思うと、とめどなくワクワクが溢れてしまう。
とはいえ、「じゃあ今から拳立て100回始めるぞ!」となるかと言えばそういうわけにもいかないものだ。
まず、俺の今後のメインの収入は武器商人のために書いたセールスレターの権利収入になるのだが、これの多寡はこの街の冒険者の景気に左右されることとなり、若干不安定である。よってもう少し生活基盤を盤石にする手段を得たい。
また、この世界には前世には無かった「戦闘波」という概念がある。このことは、前世の武術と今の世界の武術に乖離がある可能性を示唆する。純前世流ではなく、この世界に即した戦い方を何かしらの方法で学ぶ必要があるだろう。
ありがたいことに、この2点を一挙に解決する方法を、昨日商人とのティータイムで聞き出すことができた。だから今日やることは、それを実行する準備を整えることである。