殺意
幼い頃から、黒い殺意が雪也を苦しめた。時折、胸の底から小さな殺意が気泡のように湧きあがり、雪也を不快にさせた。見知った誰かを殺したいわけではない。殺すのは誰でも良いわけでもない。心では殺さなくてはいけない相手は分かっている。でも、そいつがどんな顔をしているのか、どんな性格をしているのか、男か女か、何故殺さなくてはいけないのか、それが全く分からない。行き場の無い殺意を雪也は我慢する以外他無く、それは真綿で首を絞められるような感覚だった。
雪也は氷漬となった白狐を涼しい顔で見つめた。初めて自分の意志で殺したが、心の中に潜む黒い殺意が癒えることはなかった。むしろ「こいつではない」とでも言うように、ふつふつと殺意が湧きあがった。しかしながら、心の中に殺意が芽生えることは日常茶飯事で、それを表に出さないようにとり繕うのは慣れていた。
氷から目を逸らし、雪也はミラの方へ階段を降りはじめた。氷点下の中、ミラは衣服を身に付けていなかったが、震えることもなく氷の壁に背中を預けて座っていた。雪也は上着をミラへと渡した。
「アタシは大丈夫です」
虚ろな目で、虚ろな声でミラが言った。まるで人形のようだった。
「ミラはお姉さんを助けて欲しいと言っていたけど、僕は何をすればいいの?」
「いずれ雪也様は『殺戮王』と会うことになるでしょう。その時に、アタシの姉を救うよう頼んでほしいのです」
「いずれっていつ?」
「それはアタシにも分かりません。けれどもそう遠い未来ではないと神官達は言っていました」
「ふーん。まぁ、向こうから会いに来てくれるならいいか。僕もその『殺戮王』ってのに会うのを楽しみにしていようかな」
『殺戮王』に会える、と思った瞬間、黒い殺意が疼くのを感じた。それは悪い疼き方ではない。むしろ殺意が治まっていった。
その時、パチンという音が響いた。指を鳴らす音だ。瞬間、雪と氷の世界が消え、白夜と雪也が戦う前の、何の変哲もない螺旋階段の景色へと変わっていた。
「神々は『夢』を観て、妖怪達は『夢』を造り、人間達は『夢』の中で踊り続ける。それが『夢』の世界の理だ」
クスクス。幼い少女の笑い声が聞こえた。雪也が振り向くと、白狐の氷漬の横に幼い少女が立っていた。腰まで伸びた白い髪に、金色の瞳をしていた。歳は10歳前後だろう。少女は無垢な笑みを浮かべながら、雪也とミラを見下ろしていた。
「どこの誰か知らないが、この世に神なんていないよ」
雪也が言った。少女は両手を広げ、芝居がかった声を出す。
「確かに、この世に神はいない。彼らは眠っているからね。問題なのは神々が目を覚ますことによってこの世が無くなってしまうことだ。少年よ。君はこの世が消滅してもいいのかい?」
「……」
「君が生きている所為で、この世は無くなってしまうかもしれない。それは理解しているね?」
雪也は黙って頷いた。少女は「ホントかなぁ?」と首を傾げ、その場でくるくる回りながら良く通る声を出す。
「ホントかなぁ? ホントかなぁ? ホントかなぁ? 理解しているのなら、この世界で生きる全ての妖怪と人間のために今すぐここで自害するのが普通じゃない?」
「どこの誰か知らないけれど、僕が自害するわけないだろ」
「なぁんで? 不思議だなぁ。貴方は今、この時からこの世界で一人ぼっちになるのよ。妖怪も人間も皆、貴方の敵なのよ。生きていても良いことなんてないわよ。それなのに生きる理由を、お婆ちゃんに教えてよ」
「どこの誰か知らない奴に、僕が生きる理由を教えるつもりはない」
「あら、そう」
少女は踊るのをやめた。ニコニコとした表情で雪也を見つめた。
「でも、良いでしょう。力も未発達、目的も無く、覚悟も固まって無く、仲間もいない。何一つない貴方がどこへ行くのかお婆ちゃんは見届けましょう。さて帰りましょうか。早く手当てしないと弟子が生きかえらなくなる」
少女は氷漬にされた白狐を軽々と持ち上げた。それから少女はミラへと視線を向ける。
「ねぇ、『漂流者』のお譲さん。この世はただの『夢』だけど、貴方のいた世界は『夢』じゃないのかしら?」
「アタシのいた世界もただの『夢』ですよ」
「あら、そうなの」
少女はパチンと指を鳴らした。少女と白夜の姿はいつの間にか消えていた。
雪也は狐につままれたかのような顔で、まるで何事も無かったかのように静まりかえった螺旋階段で立ち尽くしていた。