第二章「見世物小屋」
私はそれから、何日も何日も働いた。休みの日は神美と買い物に出かけたり、シャボン玉を飛ばしたりして過ごした。店長に借りた本を読んだり、料理を教わったりする日々を過ごしていても、何も思い出さない。三人は思い出す事を急かしたりしないし、私も特にこれといった努力はしていなかった。思い出したところでメリットがあるようには思えなかったから。
「あんまりだよ! なんでこうなるんだよ!」
神美の声が聞こえたのは秋が深まってきた頃の昼過ぎだった。その時店内には私と店長しか居なくて、その言葉が千秋に向けられたものである事は容易に想像できた。
外に出るとやっぱりそこには二人が立って、言い争いをしていた。といっても普段のようなやり取りとは違って、千秋は困惑した顔で神美の言葉を聞いているだけだった。店先で言い争われると客が逃げるから、と止められると、神美は店長に泣きながら状況を訴えた。
「どうして世の中ってこうも理不尽なの! なんでこんなクソ虫ばかり好かれるの! 我愛你!」
「…最後は母国語になってねぇかアイツ」
「…今は関係ない事を言っている。千秋、代わりに状況を説明してほしい」
「説明も何も、コイツだよ」
千秋は自らの足元を指示した。…見ると、そこには小さな猫が居た。毛並みから野良猫と分かる、真黒な猫だった。私と千秋の間を行ったり来たりして、匂いを嗅いでくる。
「…今度は猫?」
「自分を同列扱いと来たか」
「おいで猫! そんなヤニ臭い男より私の方が良い匂いするよ!」
神美がそう言って手を伸ばす。でも猫はそちらへは行かず千秋の方へ…これが騒ぎの原因らしい。少し動いて見せたと思ったら、私の方へ動いたり、店長の方へ行くだけ。
「なんでだよ! 店長と雨はさておきなんでクソ虫に擦り寄るんだよ! クソだよ!?」
「いい加減キレるぞ馬鹿女…つーか猫なんかに懐かれたって迷惑なんだよ。おい雨、コイツ欲しいならやるからどっか連れてけ」
私は猫を抱き上げてみた。大した食事もできていないのか、その身体はあまりにも軽い。撫でてみると小さく鳴いた。
「捨ててきなよ、そんなゴミ」
また、自然と言葉が流れ出た。これも以前言われた言葉だと思う。神美が騒いでいた所為で、聞いていたのは千秋だけ。
「また妙な事でも思い出したか」
「…多分そう。今のは私の意思じゃない。でも私の近くには置いておかない方が良い。きっと酷い目に遭う」
「いや大丈夫だろ。そもそも酷い目に遭わせる奴がここに居ねぇんだから」
「…そうだね」
でもうちは飲食店だから店内に入れる事はできない。二階で飼うにしても階段を降りてきたらすぐに店があるから、飼うのは難しいかもしれない。
「千秋の家で飼う、とか」
「あぁ!? お前話聞いてたか?」
「うん…千秋の部屋にいたら肺癌になる。それは虐待」
「散々シャボンに煙詰め込ませた奴が言うか。それならお前もう手遅れなんじゃねぇのか?」
「別に良い。でも飼い主は千秋だと思う。一番懐かれてる人が飼い主になるべき」
それから四人で話し合った。猫は私の部屋で飼う事になった。部屋から出さないのが条件。
「名前決めようよー、猫のままだったら寂しいよ」
話し合いが終わる頃には神美もすっかり落ち着いて、猫もちょっと彼女に慣れてきた。多分、これからは私の部屋で猫と遊ぶことが増えるんだと思う。
猫に着ける首輪を買ってきて、油性ペンを片手にして私たちは話し合った。でもちゃんとした名前は決まらなくて、私と千秋はお客さんが来るまでの間、外で話し合う事にした。
「飼い主が千秋だから、その名字に合う名前が良いと思う。千秋の名字って何?」
「いや千秋だろ」
「…千秋・千秋?」
「ぶん殴るぞお前。んな訳ねぇだろ、元々お前が知ってるのが名字なんだよ」
「…じゃあ名前って何?」
「楓」
「カエデ…千秋楓?」
「可愛いとか言ったら本気でぶん殴るからな」
「分かった、言わない…千秋に合う名前って何だろう」
「俺の親とかの名前だったら却下するからな」
「親がいるの?」
「俺だって人の子だろ」
「…そうだった」
軽く頭を殴られた。そういえば、千秋に親がいるという事は私にも親がいるんだろう。そんな人に会っていないから、今まで考えてもいなかった。もう何週間も行方不明のままな娘を探していたりするのかな、そんな事を考えながら猫の頭を撫でた。
「千秋の親ってどんな人?」
「クソみてぇな人間だ。俺見てりゃ分かるだろ」
「そんなのはただの妄想。見ただけじゃ分からない」
「…お前の親はどうなんだよ。こんな話してて思い出さねぇのか…つーかさっきの誰に言われたんだ?」
さっきの。猫を抱いた時に思い出した、あの言葉のこと。あれは確か、自宅の玄関前で言われた言葉だった。言っていたのは私の家族で、年上の男性。
あれは兄だ。私には兄がいた。私より優秀な兄だったと思う。
「多分、私の兄にあたる人。そういえばいた」
「クソ捻くれた兄貴がいたもんだな。普通ゴミなんて言うかよ」
「うん…でも私よりずっと優秀」
「はぁ?」
千秋に頭を鷲掴みにされた。そのまま髪を掻き回されて、私は思わず悲鳴を上げた。なんだか同じ事をされた覚えがある。千秋以外の誰かに。多分、記憶を失うよりずっと前に。
「確かにお前も大概変な奴だけどよ、猫をゴミなんて言う奴はそれ以前の問題だろ。んな奴よりかはよっぽどお前の方がマシってもんだ」
「…そうかな」
「そうだろ」
髪を手で直す。上手く戻ったかは自信が無い。猫の名前を考えたけれど、どうしても思いつかなかった。
…そういえば、ゴミと罵られた猫はどうなったのだろう。そこまでは思い出せなかった。ただ、とても悲しい思いをしたのを覚えている。そういえばあの頃は悲しみを感じたりしていた。
何が何だか分からなくなった。一度に多くの事を思い出し過ぎて混乱したのだと思う。結局猫の名前は決まらないまま、私の部屋に連れて行った。
その日は仕事が終わるとすぐに部屋で眠った。昼間から疲れた様子を見せていた所為か、店長と神美はとても心配してくれていた。猫と一緒にベッドに入って、すぐに眠りに就いた。寒くなり始めた夜には丁度良い温かさだった。
夢を見た。何が起こっているのかは分からなかったけど、とても悲しい思いをしながら、痛みに耐えながら、冷たくなった猫を抱いていた。私は涙を流して、それが猫の上に落ちて、それでも何の反応も返って来なくて、悲しくてまた泣いた。目は覚めないまま、朝がくるまで夢の中で泣いた。それが毎晩続いた。
「お前、猫飼わねぇ方が良いんじゃねぇか?」
最初に言いだしたのは千秋だった。私が料理の乗った皿を落としそうになった所を支えた時。
「…どうして、そんな事を言うの?」
「明らかに猫が原因だろ、あの次の日からずっとこんな状態じゃねぇか。夜中にニャアニャア鳴かれてうるせぇのか?」
「…別にそんな事は無い。毎晩静かにしてる」
「じゃあアレルギーがあったりする? 一度俺か神美に預けるって手もあるよ」
カウンター越しに、店長が言った。そういえばアレルギーなんて考えた事が無い。私にそんな物あるんだろうか。
「猫の為に体調崩しちゃ駄目だよー、それじゃあ猫ちゃんにも悪いよ、一度離れてみた方が良いよ。店長どんな動物でも飼い慣らしちゃうから安心だよー」
神美が言う。別に猫に触れたいとか、そういう気持ちは無さそうだった。私の額に手を当てて、熱が無いか調べる。少し冷たく感じた。
「…ちょっと熱いよー。ぐっすり眠って休んだ方が良いよ、上に上がろ?」
神美に連れられて、部屋に上がった。猫は一端預けて、着替えてベッドに入る。久しぶりに一人で眠った。いつも通り、夢も見ないまま。
目が覚めると外は夜だった。外の空気が吸いたくて窓を開けた。外をしばらく眺めていると、千秋が帰るところに会った。呼びはしなかったけど千秋はこっちに気が付いて、咥えていた煙草を地面で踏み消した。
「…ポイ捨て」
「あぁ? 聞こえねーよ…てか何か用があるんなら下りてこい。隣のうるせぇ馬鹿女が出てきたら俺は帰るぞ」
そう言われたので、特に用は無かったけれど、私はシャボン玉を持って下に降りた。その日も、明日は休みという日だった。
「何か用あんのか?」
「…猫の名前、まだ決まってないから考えたい」
「そうかよ」
千秋は特に何も言わないまま歩き出した。私もそれについて行く。冷たい風が火照った頬に心地よかった。
相変わらず煙草の臭いがした。私はいつもの様にベランダに出ようとしたけれど、千秋に止められた。寒いから駄目だと言われた。仕方が無いからバスルームで、バスダブの淵に座ってシャボン玉を吹いた。千秋はその隣で煙草を吸った。小さな窓を開けていたので、そんなに煙臭くはならなかった。
「…猫の名前決めるんだろ」
私がずっとシャボン玉を見ていると、千秋が言った。煙草はもう一箱空けていた。途中でシャボン玉にぶつかって何本か火が消えたけれど、文句は言われなかった。
「…千秋に続く名前、思いつかない」
「お前が思いつかねぇんなら俺だって思いつく訳ねぇだろ。もうテキトーにクロとか付けろよ」
「…千秋クロじゃなんか変」
「呼んでりゃ慣れるんだよ…つーかずっとフルネームで呼ぶつもりかお前」
「それはしない。千秋が間違えて返事をしそう」
「その度にお前をぶん殴ってやるからな」
千秋の様子が変だった。いつも通り乱暴だったけど、いつもより優しかった。舌打ちもしないし、意味も無くあれこれ蹴ったりもしなかった。
「…千秋が変、すごく変。いつもよりずっと大人」
「お前俺を何だと思ってんだ…。なぁ雨、お前本当は猫の所為で変な事思い出してんだろ。それで最近そんななんだろ」
「…そんなって?」
「鏡見ろよ、そこにあるだろ」
立ち上がって、鏡を見た。私の顔がある。いつもより沈んだ顔をして、目の下には酷い隈がある。
「…化粧をするべき?」
「そうじゃねぇよ…お前本当にヤバいんじゃねぇか? 店長も馬鹿女も本気で心配してんだぞ、ただでさえ記憶喪失とか訳分かんねぇ状態なのに――」
「心配?」
あぁ、そういう事なんだ。そう納得した。千秋が優しいのも、神美が私を寝かしつけたのも、全部心配していたからだった。それが分かると、なんだかここで遊んでいる自分が申し訳なくなった。
「…んな事まで忘れてたのかよ。そりゃあ日に日に弱られたらどうでも良い相手じゃねぇ限り心配するだろ」
「…うん、多分忘れてた。けど、何も思い出さない。もしかしたら初めてなのかもしれない」
千秋は何も言わなかった。煙草を灰皿に押し付けて、私をベッドまで引きずって行くと、布団の中に放り込んだ。
「もう寝ろ。さっさと休め」
「…まだ名前決まってない」
「クロだクロ! アイツは千秋クロ、それで良いだろ! 何もしねぇからさっさと寝ろ!」
「…それは心配?」
「あぁ心配だクソッタレ! 眠らねぇなら無理矢理酒でも飲ませるぞ!」
「…分かった、寝る。おやすみ」
「…おう」
何時間も寝た後だったけれど、疲れた身体はすぐに眠りに落ちた。その日は夢を見ないまま、時々目を覚ましながら、それでもぐっすり眠った。いつの間にか、酒と煙草の匂いで安心するようになっているのに気付いたのはこの時だった。
何度か目覚めるうちに朝になって、私はゆっくりと起き上がった。隣では千秋がイビキをかきながら眠っていた。酒の匂いがする。私が眠ってから飲んでいたのだろうか。でもどこで飲んだのだろう。私が何度か目を覚ました時、この部屋には人の気配が無かった。
「…千秋」
名前を呼んだ。何となく、起こしてみたくなった。千秋はそれだけじゃ起きなくって、身体を揺するとようやく目を覚ました。飲み過ぎたのか、頭に手を当てて、しばらく虚空を見つめる。やがて私を見ると、どうして自分が起きたのか納得したらしい。
「どこで飲んでたの?」
「…うるせぇよ」
千秋はそう言うとそのまま寝てしまった。私はもう寝る気にはなれなかったので、起き上がってキッチンに向かった。玄関のすぐ傍にある、廊下と一体化したキッチン。何か朝御飯でも作ろうかと思ったけれど、冷蔵庫には水と酒しか入っていなかった。仕方が無いから水を飲んで、千秋の隣に寝転がった。眠気はないからそのまま起きてる。
「千秋、買い物に行きたい」
ふと思い立って、そのまま口に出した。ただ何となく、あの空っぽの冷蔵庫を食材で満たしたくなった。別にその行動に意味は無かったけれど、どうしてだかそうなった。卵とかキャベツとか、そういう物を買いたい。
千秋は何度か呼ぶと面倒くさそうに起き上がった。さっきの事はすっかり忘れてるみたいで、また私の顔を見ると少し納得した。
「…買い物?」
「そう、冷蔵庫が空っぽだから」
「…お前にゃ関係ねぇだろ」
「ない。でもそうしたい」
「…じゃ待ってろ」
千秋はゆっくり、身体を捻りながら起き上った。肩や首の関節を鳴らしながら、バスルームで顔を洗う。飲み過ぎているのは明かだった。
「どこで飲んで来たの?」
「…嫁かよお前は。どうでも良いだろ、別に」
「うん。ここで飲んだ形跡が無かったから聞いただけ。別にどこで飲んでようが私には関係ない」
「あー頭痛ぇ…どこ行くんだ、マーケットか?」
「そこしか知らない」
「そりゃ良いや…で、買ってどうするんだよ」
「…特に何も。何か食べたいなら作る」
「やめとけやめとけ、うちにゃマトモな道具なんか揃ってねぇよ。そもそもアレに食材なんか入った試しがねぇ。お前にとっちゃあ買い出しよりシャボン玉やってる方がよっぽど有意義だろ。俺は腹が減ったから飯でも食いに行くけどな」
「…私も食事はしたい」
「じゃあ来いよ」
私は千秋に連れられて、そのまま外へ出た。服は昨日と同じままだった。でも部屋着には見えないから別に良い。髪だけ整えた。
外はもうお昼だった。曇り空の中を歩いていると時間の感覚が無くなる。本当はもう夕方なんだよ、そう言われたら多分信じた。
「…お前よ、誰かにシンパイとかされた事ねぇのか?」
連れて行かれたのはファミリーレストランだった。私がお金を持っていない事を思い出すと、千秋はどうでも良いとしか言わなかった。勝手にハンバーグを注文されて、食べろと言われた。
「うん、思い出す事が何も無い。千秋はある?」
「ねぇよ…お前が勝手に冷蔵庫の中身足そうとしたぐらいしか」
「…私は今、これを食べきれるか心配。こんなに多く食べられない」
「食え。そんぐらい食わねぇとまたぶっ倒れるぞ」
「倒れてない」
「じゃあ今度はそのまま放っとくぞ。料理でも何でも床にぶちまけろ」
「…分かった、じゃあ頑張る」
ナイフとフォークを動かして、必死にハンバーグを食べた。付け合わせの野菜も食べて、ご飯も食べた。最後は水で流し込んだ。あんまり必死だったから、千秋が何を食べたのかは覚えていない。ただ私よりも早く食べ終わって、それからはずっと煙草を吹かしていた。時々目が合うと無理矢理口に食べ物を押し込まれる。やっと全部食べ終わる頃には喉から変な音が聞こえるようになった。
「何だよ、食えるじゃねぇか。次からはもっと食えるな」
「…無理。もう食べれない。今日はもう何もいらない。今のは食べ物を無駄にしない為に頑張っただけ」
「おうおう、じゃあこれからも頑張れ。日々の努力が大事なんだぞ」
「千秋に言われたくない」
「うるせぇよ」
箸で頬を抓まれた。何かのソースがついたから紙ナフキンで拭う。食べすぎたせいか、その場から動く気になれなかった。千秋は別に急いでる訳でもないからずっと煙草を吹かす。私はその煙を見ながら、匂いを嗅いでいた。自分の身体にそれが付くのも良いと思った。
「…それ、美味しいの?」
「まだ食うか?」
千秋は煙草を咥えたままでも普通に話す。私はシャボン玉を吹きながら話す事はできない。
「つーか吸いたいんならここじゃなくて部屋に戻ってから言い出せよ。無駄に警察の世話になるのなんか御免だぜ」
「…別にそういう事じゃない。千秋がいつも吸ってるから気になっただけ」
「嫌だったら吸わねぇよ。お前も大概どうでも良い事訊くよな…そりゃアレか、記憶がねぇからか」
「多分それは関係ない…でも千秋は記憶が無くても酒と煙草は覚えてそう。匂いが染みついてるから」
「そりゃあ、楽しい事くらいは覚えておかねぇと世の中やってらんねぇからな。お前は前から楽しい事ねぇのかよ。本ばっか読んで訳の分からん事言うの以外でよ」
「訳の分からない事は言っていない、と思う。シャボン玉以外なら楽しい事は特に無い」
「最早それすら訳が分かんねぇ…おい出るぞ、辛気臭ぇ顔ばっかしてるから体調崩すんだ。もっと馬鹿みてぇに笑っちまえよ」
「…待って、そんなに動いたら吐く」
「そしたらまた詰め込んでやるよ」
「そんなことしたらまた体調が悪くなる」
「面倒くせぇ身体だな」
「それが普通」
千秋はそれ以上は何も言わなかった。そこからしばらく歩いて、見世物小屋を連れ回された。図鑑に載っていないような形をした動物や曲芸師、剥製、硝子細工…他にも、全て覚えきれない程の物を見た。どれも記憶を呼び起こしたりしない、楽しい物。私は一つ一つをじっくり眺めていて、あんまり遅いので千秋に急かされる事もあった。
「…千秋、これは本物?」
私が指差したのは、とある展示品。人間の剥製と銘打ったそれは一糸まとわぬ姿でガラスケースに収められていた。男も女も大人も子供も、容姿の整った人間ばかりが並んでいる。
「知るかよ…触ってみりゃあ分かるんじゃねぇか。俺は御免だけどな」
「また無茶を言う…ガラスがあるから触れない」
「そりゃあ残念、だったら夜中にでも忍び込んでみな。明日にゃここにお前も並ぶかもしれないぜ」
「…それは無理。剥製になったら動けない。それにこれが本物かどうかはまだ未確定だから、私が入れるとは限らない」
「分かんねぇぞ、お前の辛気臭ぇ顔なら。俺は一度人間なのかすら疑ったんだからな…おい、これじゃあ来た意味が無くなるじゃねぇか。そもそもその辛気臭ぇ顔をどうにかする為にここまで来たんだろ」
「うん…じゃあ次に行こう」
私たちはその場を後にした。剥製たちがそれをじっと見ているような気がしたけれど、無視して進んだ。次は菊人形の展示だった。さっきの剥製に比べれば人間らしさはあまり無い。私たちはどうしてこの順番で並んでいるのか疑問に思った。
「分かんねぇな…さっきの後じゃあこんなもんただの偽物じゃねぇか。よぉ雨、頭の良いお前なら分かんのか?」
「私はこういう演出はよく分からない…でも何か意味があるのかもしれない」
「偽物だから良いんじゃあないか」
…別に、私の口から突拍子も無い言葉が出た訳じゃない。ただ純粋に、後ろから声を掛けられただけ。振り返ってみるとそこにはうちの常連さんが一人立っていた。年齢に不釣り合いな真っ白な髪と、作り物のような貼り付けの笑顔。たしか、名前は須賀。
「こんにちは…そういえば今日はお休みだったねぇ、それで二人でお出かけかい? ここに来てるって事は千秋くんが連れ回してるって所かな。雨ちゃんには珍しい物ばかりだろうね」
「そう…それで、偽物だから良いっていうのは、どういう事ですか」
「別に言葉の通りさ…これはあくまで人形。剥製と違って、形は似ていても中身は全くの別物。いくら精巧に作って見せた所で人間とは違った存在なんだ。人間は剥製になれるが人形にはなれない。つまりはこういう事さ、実現可能な事象を見せておいてその次に実現不可能な事象を見せる。君たちは人形を剥製の引き立て役だと思うかもしれないけれど、本当は逆なんだよ。実は剥製の方が引き立て役なんだ」
「でも…それを理解できる人は少数なんじゃないですか」
「そう、そこが残念な所だよ! 今ここに居る多くの人がこれを理解していないだろう…人形も剥製も愛する僕にとっては悲しい事さ。僕は生きた人間というのが心底苦手でね、それを慰めてくれるのは彼らだけなんだ。彼らが人々の理解の外であるのは本当に嘆かわしい事だ」
「あー分かんねぇ」
千秋は途中から話を聞いていなかった。そういえば、この人が店に来ても話をしているのは見た事が無い。須賀さんはその後しばらく人形について解説してくれたりしたけど、それも同じ。次の展示に向かう時から、私たちはまた二人で歩いた。
「見てる分には面白れぇけどよ、俺にはあんな理屈めいた事は分かんねぇや。分かったら少しは見え方も変わるもんなのか?」
「うん…多分、知らないのとは違った感じ方をするんだと思う。でも私はこんな感じ方が嫌いじゃない。千秋と一緒に考えながら見るのが好き」
「俺は頭使うのは嫌ぇだな。適当に質問だけ投げてやるから好きなだけ考えろよ」
千秋はそう言うけれど、私が何か言えば絶対に自分が思う事を伝えた。議論とかそういうのをする訳じゃなくって、ただ思った事を言うだけ。そうしながら、ずっと歩いて回った。別に何かを思い出す事も無い、何でもない時間だった。暗い小屋の中を照らす赤色にそまる私たちは、夜になるまでずっと歩いた。
夜はまたファミリーレストランに入った。昼に入った所とは違ったけれど、置いてあるメニューは大体同じ。千秋はまた私に何か食べさせようとしたけど、もう何も食べられなかった。無理矢理口に入れられた数口だけ食べて、後は千秋が引き受けた。
「お前、なんでそんなに食わねぇんだ? 食うの嫌いなのか?」
「そうじゃない、きっと元々食べるのが少なかっただけ…。千秋はどうしてそんなに食べられるの? 男だから?」
「そりゃあ飯食うのが楽しいからに決まってんだろ。食えるなんて俺がガキの頃じゃあ滅多にねぇ事だからな、食えるうちに食っといた方が良いんだよ」
「…千秋が子供の頃?」
千秋と私は、多分10も離れてない。それでも私と千秋の子供だった頃はそんなに違ったのだろうか。
「前にも言ったろ、俺の親なんてのはどうしようもねぇクソ人間だったってよ。自分で種撒いといて水なんかやりもしねぇ…食い物なんか出された覚えがねぇな。餓鬼の頃からそこらの家に忍び込んで食い繋いでた。隣の犬が随分と美味い飯貰ってたんでよく拝借したな、すぐにバレて食えねぇようになったけどよ」
「…それで、どうしたの?」
「食うもんが無くなったからな、その犬掻っ捌いて食っちまった。小学校から図鑑持って来て、コレがアレだのやりながら食えるとこ探したんだ。今食えば不味くて堪んねぇんだろうな、あの頃の空きっ腹にゃあ良いもんだったが」
「…その後は?」
「狸の歌と同じさ、その辺の木の葉に隠して捨てた。まさか餓鬼が食うために殺したなんて考えなかったんだろ、なんにも言われなかったな。そもそも餌盗んだのだって悪ふざけ程度にしか扱われてたんだ、お咎めなんてねぇよ」
「…そう」
多分、嘘じゃなかった。千秋は都合の悪い事は隠しても、自分をよく見せるための嘘は吐かなかった。笑いながら嘘の過去を語るなんて、きっとしない。
「千秋はどうしてうちで働いてるの?」
「あぁ? なんだ急に」
「…千秋も私みたいだったのかなって、思っただけ」
私がそう言うと、千秋は声を上げて笑いだした。それからしばらく笑っていて、膝を叩いたり腹を抱えたりしてやっと笑いが治まった。
「馬鹿だなぁお前、俺がお前みたくフラフラしてると思ったかよ。俺ぁ道端で店長ぶっ殺して金でも奪っちまおうとしたんだよ。一瞬で返り討ちになったけどな。そっからはあの店長が言うがままに働いてるだけだ。うちの店は給料こそ大したもんじゃねぇが食いっぱぐれはしないからな…もしそうしてなかったら、そうだな、見世物小屋ででも働いてたんじゃねぇか。見世物になるのは慣れっこだからな」
「…千秋が曲芸するの? 綱渡りとか石喰いとか」
「曲芸師か…そりゃあ良い。あれっくらいになりゃあ美味い飯が食えるな」
千秋は笑いが治まるとまた煙草を吸い始めた。向こうの方から目の釣り上った女の人がやって来て、私たちに出て行けと言った。ここは煙草を吸って良い席のはずなのに。私たちはそのまま店を出た。
「…絶対に怒ると思った」
帰り道で言うと、千秋は地面に煙草を捨てた。取り敢えずそれを拾って、また後を追った。
「何が」
「さっきの女の人。私たちには非が無かったはずなのに」
「あぁ、あのババアか。あんなの相手にしたって良い事ねぇだろ。適当にぶん殴ったって結局最後は警察だの何だの出て来て面倒な事になるんだからよ」
「…賢い」
「お前馬鹿にしてんだろ」
頬を抓られた。あんまり顔を近づけたから煙草の火が触れそうになって、後ろに逃げた。
「煙草の火は熱いからやめて」
「わざとじゃねぇだろ…つーか触った事あんのかよ」
「無い、だけど火は熱い」
「知ってらぁ」
それから、私は家に戻った。もしかしたら神美が心配してくれてる気がしたから。店の前で千秋と別れて、階段を上る。途中で店長に会った。
「やあお帰り、千秋とどこ行ってたの?」
「ファミリーレストランと、見世物小屋と、またファミリーレストラン…勝手に抜け出してごめんなさい」
「うん…まぁ気にしなくて良いよ。でも今度からは行き先くらい伝えてね、フラフラするのが癖になると危ないから」
「…はい」
部屋に戻る前に、神美に会いに行った。扉を叩くと直ぐに出て来て、私を抱きしめる。
「煙草の臭い染みついてるよ! また身体悪くなったら大変だよ!」
「…大丈夫、しっかり寝たから。迷惑かけてごめんなさい」
「迷惑じゃないよ心配だよ、どっちにしろ謝ること違うよ! もう御飯食べたの?」
「うん、無理矢理、お腹いっぱいになるまで」
「変な物食べさせられてない? 吐いたりしてない?」
「してない…けど走ったりしたら多分吐く。明日の朝もお腹いっぱいかもしれない」
そう…と言って、神美はしばらく下を向いた。私も下を向いてみたけれど、何もないし何も居ない。…そう、何も居ない。クロが居ない。
「あのね、雨…ごめんね、猫外に出て行っちゃったよ。私探しに行ったけど見つからなかった。店長と一生懸命探したけど駄目だった、ごめんね」
「そう…分かった。探してくれてありがとう。せっかくの休みの日なのにごめんなさい」
「…それは良いよ、別に用事も無かったし」
それから、神美はお風呂に入るよう言った。私はその通りにした。風呂から上がる頃には、もう神美は眠ったらしく部屋に電気は点いてなかった。
私は部屋に戻って、昨日と同じように外を眺めた。クロはどこへ行ったのだろう。せっかく名前が決まったのに、一度も呼んでいない。ここに居れば美味しい物を食べられるのに。
私も同じだった。ここに住んで働けば食事ができる。生きていられる。私とクロの違いは何だろう、本当に分からなくなった。千秋に拾われて、名前を付けられてここに住む。
千秋。そういえばクロは千秋に懐いていた。もしかしたら、やっぱり私と同じで千秋の所へ行ったかもしれない。それなら今はどこに居るだろう。千秋はずっと私と一緒に居たから、千秋の元には居ない筈だった。今も千秋を探しているかも。
私はまた、千秋のところへ行った。今度は伝えてから行きたかったけれど、店長も眠っているようだったから部屋にメモを差し込んだ。道はもうずっと前に覚えている。
でも、千秋より先にクロを見つけた。血を流して倒れていた。まだ息があったから、手当てをするために運ぼうとした。でも駄目だった。しばらく歩いているうちに動かなくなってしまった。そのまま抱えて、千秋の家へ行った。
千秋の家のベルはずっと壊れたままで、呼び出すには扉を叩かなくてはならなかった。私が叩いても大した音は出ないから、一緒に名前も呼ぶ。
「千秋、千秋」
そのまま何分か続けた。明りが付いてるからまだ起きてるはずだった。しばらくするとやっと物音が聞こえてきて、扉が開く。千秋はとても驚いていた。私がクロを抱いているのに気付いて、ベランダまで連れて行く。
「そこで倒れてた、連れて帰ろうとしたら死んじゃった」
言葉が上手く出て来なくて、そう言うのがやっとだった。千秋がタオルを持ってくるとそれに包んだ。
「…どうしてこうなったんだろう」
「別の野良猫か、野良犬だろ。噛み千切ったような傷してたから、食われたとかじゃねぇのか」
「…食べられたの?」
「弱肉強食ってやつだろ」
「弱かったから食べられたの?」
「…多分な」
「…じゃあ、私も食べられるの?」
「あぁ? 何言ってんだお前…アレか、もう今日は疲れたんだろ。それでクロがこんなになったからか…もう寝ろよ。寝てぇならここで寝て良いからよ」
「違う、そうじゃない。私とクロが一緒なだけ。弱いから食べられるの。千秋が食べた犬と一緒」
そう、きっと一緒。私もクロも犬も、みんな名前をもらって生きて、自分より強い者に食べられる。何も変わらない。
「…話に付き合うのは良いが自分を引き合いに出されるのは腹が立つ。俺もお前も人間だろ。犬猫と一緒にすんな」
「そうじゃない…私や千秋が犬猫なんじゃない。ただ、仕組みが同じなだけ。私も自分より強い生き物にいつか喰い殺される、それだけ」
「…もう寝ろ」
「クロを見て思い出した。私は自分より強い兄に喰い殺される」
何かを思い出しかけている気がした。でもそれが何なのかは分からなかった。兄がどうやって私を喰い殺すのか、そこまでは理解できていなかった。
千秋は立ち上がって、私の腕を引っ張って無理矢理立たせた。そのままベッドに放り投げられる。
「いいから寝ろ」
昨日と同じだけど、少し違った。千秋が苛立っているのが分かった。舌打ちもするし、傍にある物を蹴る。頭を掻き毟って歯ぎしりをする。
「…私は、」
「黙れ!」
強い語気に思わず震えた。殆ど反射的に出た言葉だったんだろうと思う。
「…訳分かんねぇ事言ってねぇで寝ろ!」
「話くらいさせて」
「あぁまた明日な、いつも通り理路整然としたクソ難しい感じで話しやがれ!」
「…分かった。眠りながら話を整理しておく。おやすみ」
「おう」
私が布団に潜ると足音が数歩分、それとベランダに腰掛ける音が聞こえた。千秋が煙草を吸っているんだと分かる。顔を出してみたら煙が流れてくるのが見えた。それを吸い込んだら少しだけ落ち着いた。
クロの事を想いながら眠りに就いた。一緒に寝ると悪夢ばかり見たけれど、私はクロが大好きだったと思う。私が眠ろうとすると必ず布団に潜りこんできたクロ。私が部屋に帰ると必ず扉の前で座っていたクロ。全部過去の事。
鼻がツンとした。息がしづらくなったから、近くにあったティッシュで鼻をかむ。でも上手くできなかった。喉の奥から何かが小刻みにせり上げてきて、しゃっくりの様に何度も出る。
千秋がやって来た。今度は寝ろと言わない。隣に座って私の頭を撫でるだけ。泣きたいんなら泣け、そう言われて、私は泣くという事を思い出した。でも泣き方が分からない。きっと元々知らない。
「…千秋、泣き方、教えて」
途切れ途切れの言葉で言うと、千秋はまた私の頭を撫でた。
「俺だって知らねぇよ」
明日クロを埋めてあげよう、そう約束してから眠りに落ちた。