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忘却の街  作者: 仮面の魔鈴猫
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第一章「煙のシャボン玉」

 狭い部屋に入るとすぐにベッドへ押し倒された。服をあまりにも乱雑に脱がそうとするので自分から脱いだ。一着しかない服を破かれては困るから。

 男は濡れた服のまま私に覆い被さった。酒と煙草の臭いがした。そうしてそのまま、しばらく私の身体を弄っていた。けれど私があんまりにも反応を示さないので、途中でうんざりした顔になって起き上がった。

「お前、ホントに人間か?」

「…一応、そう自覚してる」

それが初めての会話だったと思う。路地裏では一切返答をしなかったから。

 男は煙草に火を点けると不機嫌そうにそれを吸いだした。狭く散らかった部屋が煙に満たされると、私の事をとても面倒そうに睨み付ける。

「お前、いくつだ」

「忘れた」

「名前は」

「忘れた」

「家は」

「忘れた」

「…頭いかれてんのか?」

「そうかもしれない…寒いからシャワーでも浴びさせてほしい。さっき温めてやるとか言ってたけど全然だった」

「そりゃお前が人形みたいな反応するからだ!」

頭を掻き毟っている男を残して、バスルームに向かう。狭い部屋だから何がどこに有るのかは大体分かった。クロゼットと小さな下駄箱、それと冷蔵庫を除けば他に扉は無い。ユニットバスの中もそれなりに散らかっていたけれど、特に声を掛ける事も無く、軽く片付けてから蛇口を捻った。しばらく待つと水が温まってきた。

 冷えた身体を温めると湯を止める。タオルを探すとやっと一枚だけ未使用らしい物が見つかった。頭を拭いていると扉が開いた。投げつけられるように渡されたシャツを着て部屋に戻った。

 部屋に満たされていた煙が薄くなっていたのはベランダに通ずる扉が開いていたからだった。五階のベランダ見えるのは隣のビルの壁と、殆ど視界に入らないくらいの空。男は部屋とベランダの境に腰掛けて空を眺めていた。

シャツの着心地は最悪だった。柔軟剤なんか使った事が無いと言わんばかりの硬さを誇る生地は、私の肌を擦る度にチクチクと痛めつけた。

「何か見える?」

「見えると思ったか?」

顔に煙を吹きかけられた。濡れた服を乾かすためにハンガーを探したけれど見当たらなかった。仕方ないので男に尋ねると、クロゼットの中に掛かっている服を適当に放り出して良いと言われた。

 クロゼットは殆ど何も入っていなかった。服が2、3着入っているだけで後は何も無い。ハンガーは合計3つ、全て拝借して服を干した。掛かっていた服は畳んでベッドの上に積み重ねる。

 これからどうすればいいんだろう。

 そう思ったのは作業が全て終わってからだった。男は相変わらず煙草を吸っているし、雨は降り止まない。何より服が乾かないと出て行く事もできない。空腹ではなかったが酷く眠たかった。でも眠ったところで何があるのだろう。その行動に意義が見いだせなかった。

「貴方は何歳?」

さっきされた質問をそのまま返してみた。そういえば私は、私だけじゃなく、この男の事も何も知らない。だから、せめてどちらかは知っておいた方が良い気がした。

 男は本当に機嫌の悪い顔をしていた。煙草を空き缶に放り込むと次の物に火を点ける。私は、取り敢えずその隣に座った。二人とも細身なので特に窮屈ではなかった。

「名前は?」

答える気も無さそうだったので次の質問に移った。男はしばらく黙って、外を落ちていく雨粒を見つめていた。そうしてしばらく経ってから、小さな声で「チアキだ」と呟いた。

「チアキって、どう書くの」

「よくある字だ。数字の『千』に季節の『秋』で千秋…お前は自分の名前忘れたんだったな」

「不便だから何か適当な物が欲しいと思ってる。何かないかな」

私がそう言うと男はしばらく黙り込んだ。雨の音と、車の走る音だけが聞こえていた。そうして、また新しい煙草に火を点ける頃に言った。

「雨とかで良いんじゃねぇか」

「じゃあそれにする」

私は雨。その時その瞬間に決定した。私の名前は雨。次から名前を訊かれたらそう答える。

「お前、行く宛あんのか」

「無い」

「…じゃあ紹介してやる。明日連れてってやるから今日はもう寝ろ。そこのベッドで寝て良い」

「分かった」

それからする事も無いので、私はすぐにベッドに潜り込んだ。やはり酒と煙草の臭いがしたけれど、疲れ切った身体はそんな事を気にする余裕も無く意識を手放した。

 最後に時計を見た瞬間、日付が変わった。



 夢は見なかった。

 よほど疲れていたのか、見る内容が無いのか。私には判断できなかった。少しだけ感じたのは音だった。扉を叩く音。でもそれは現実の物だと気付くと私は身体を起こした。

 部屋に千秋の姿は無かった。叩かれ続けている玄関の扉に向かう途中で、バスルームから水音が聞こえた。来客だと呼び掛けると応対するように言われたので、扉を開けた。

「遅いよクソ人間!」

女の子の声だった。シャツ一枚しか着ていない私とは違って、着飾ってはいなくても人形のような美しさを持った少女。赤い中華服に身を包んだ彼女が私の頭の上あたりを殴ろうとして、呆気に取られた顔をしながらそれを止めた。

「…アンタ誰?」

「私の名前は雨。昨日の夜からここにいる。千秋は今バスルーム」

彼女の顔がみるみるうちに青ざめていった。身体中わなわな震わせて、私の両肩を掴む。

「帰る場所、ある!?」

「ない。だから千秋が紹介してくれる――」

「ダメだよ風俗に売りとばされるよ! 早く着替えて、ここ出るよ!」

部屋の奥へ駆け、私の服を掴んで着替えさせ、玄関から連れ出すまでほんの数分。「ちょっと待ってて」と彼女が言うのと、騒ぎを怪しんだ千秋が顔を覗かせるのは殆ど同時だった。

「ヤーッ!」

千秋の腹に飛び蹴りを喰らわせて、唾を吐いて、彼女はバスルームの扉を開かないように固定した。

「そこで死ねクソ虫!」

人間から虫へ格下げされた千秋の事を気にする間もなく、私はそこから連れ出された。少し走って、アーケード街の一角、中華料理店に連れ込まれる。狭い店内に並べられたテーブルの間を縫って、私たちは更に進む。

「店長! あのクソ虫が見知らぬ女の子連れ込んでたよ! 今日こそ殺虫剤ばら撒くべきだよ!」

「殺虫剤はやめなさい、死んでしまう」

厨房に立っていた店長は眼鏡を掛けた男だった。野菜を切り刻んでいた手を止め、私を見る。優しそうな目をしていた。

「…それでシェンメイ、その子が千秋の連れ込んでいた子かい? 見た所君と歳が近しいようだけど」

「そうだよー、アイツがいやらしいのは普通だけど今日はもう吐き気がするほど酷い顔してたもん。あれは絶対に悪い事するよ!」

彼女の名前はシェンメイというらしい。声が大きいのは感情によるものではなくて元からなのだろうと思う。さっきドアを叩いていた時も声が聞こえていたから。

「確かに千秋はガラが悪い男だけれど…そこまで酷い事をするかなぁ。君、良かったら千秋と知り合った経緯を教えてくれるかな。何か誤解があるのかもしれない」

私はカウンターに座るよう促され、そこで昨日の事を語った。気がついたら街を彷徨っていて一切の記憶が無くなっている事も含めて、雨と名付けられた所までを語り終えると、二人の顔はそれぞれ紅白に染まっていた。

「やっぱり最低だよあの男は! 鼻から殺虫剤噴射するまで殺さなきゃ!」

「いや…まだ可能性はあるよ…千秋が紹介しようとしたのはうちかもしれない…」

ちょうどその時、店の扉が開いた。そこに立っていたのは他ならぬ千秋。昨日私に見せたのよりもっと酷い、不機嫌な顔をした千秋。その怒りに満ちた眼光は、私と、シェンメイに向けられていた。

「出てきやがったよこのクソ! せっかく扉縛ったのに出てくるなんてやっぱりウンコ野郎だよ! 隙間から溢れ出たに違いないよ!」

「うるっせぇんだよこの不法入国娘! 今日こそはぶっ殺して――」

千秋の言葉は最後まで続かなかった。シェンメイの投げた包丁が、柱の、千秋の右目のほんの少しそれた所に突き刺さったから。

「チッ」

舌打ちの聞こえた方を振り返ると、そこにはやはりシェンメイが、千秋とは比べものにならない程の怒りと憎悪を剥き出しにしていた。

「女の敵は殺す!」

「待て待て待て! そんなことしたらアレだぞ、お前本当に強制送還――」

千秋はまた最後まで言いきらなかった。思い切り蹴飛ばされ、殴られ、床へ倒れた所を何度も踏みつけられた。

「言え! 最期に! 雨をどこに紹介するつもりだったか!」

「…はい、遅刻の罰はここまでね。シェンメイ、君は雨ちゃんにお茶でも淹れてくれるかな」

店長が制止に入ると、シェンメイは最後に脇腹を蹴飛ばして厨房へ入って行った。

「ここが店じゃなかったら唾吐いてやったよ!」

という台詞を残して。

「店長…遅刻の罰重すぎじゃないっすか…」

「それで君は雨ちゃんをどこに紹介しようとしてたのかな。もしかしてうちかな?」

店長は笑顔のまま、千秋の顔を覗き込んでいた。千秋の顔はそれに釣られるようにして、口角が持ち上がっていく。二人とも本当は笑っていないのだ、私でも分かるほどにわざとらしい表情だった。

「そりゃあもちろん…ここっすよ。どうにかここの店員として働けないかと――」

「嘘を吐け!」

カウンターに薬缶を叩き付けるようにして置いたシェンメイが言葉を遮った。

「お前、私に初めて会った時の言葉忘れたか! 『ちょっとやらしい肉体労働』とか言って風俗紹介したの忘れたか!」

「ちなみにうちの店員にそんな事をしたら俺が許さない…というのは忘れていないよね?」

「もちろんです!」

何となく、この三人の力関係が理解できた。そしておそらく千秋は普段ここで働いているのだという事も。

 私が出されたお茶を飲んでいる間に千秋は店の奥に消え、残った二人は私の両脇に座ると、今度は本当の笑顔で優しく話しかけてきた。

「雨ちゃん…行く所が無いならうちで働いてみるかい? うちは見ての通り小さな店だけど、昼と夜にはそれなりに忙しくなるからね、人手が増えるのは大歓迎なんだ。君を連れてきたシェンメイと千秋も働いているんだけど」

「うちは事情ある人でも働けるよー、私だってここに来る前は大陸から父親の借金返すために風俗で働かされに来てたよ、馬鹿らしくって逃げ出したけど。それにほら、ここで働いてたら少なくともクソ虫に変な事される心配は無いよー、クソ虫は店長が怖くって堪らないからね」

話を聞きながら、私は考えた。レジの使い方や商品の運び方の知識は無いから、私は多分働いた事が無いのだろう。それでも生きていくためには金銭と最低限の人間関係が必要だと思う。それを手に入れる事のできるチャンスがやってきたのなら逃さない方が良い。私はそこまで考えると、この店で働きたい旨を伝えた。

「やった、クソ虫以外の同僚が増えるよ! 私シェンメイ、破壊神の『神』に審美眼の『美』でシェンメイだよ! 仕事の事とか、他の事でも分からない事あったら何でも聞いていいよ、何でも教えるよ!」

「それじゃあ彼女が君の先輩という事で、分かってはいるだろうけど俺がここの店主。工藤っていう名前もあるけど二人みたいに店長って呼んでもらって構わないよ…あぁ千秋、丁度良かった。この子は今日からうちの店員になるから、変な紹介は 絶 対 に しないように」

中華服はここの制服らしい。店の奥から出て来た千秋もまたそれを着ていて、私の事を心から残念そうな顔で見ていた。

「あの顔! ひっどい顔だね雨、こいつ絶対に変な仕事紹介する気だったよ!」

「…店長、せめて店員同士の恋愛は禁止してませんよね?」

「常識の範囲内で、合意に基づき、道徳に反しない物なら容認するけど? ところで俺は君が『恋愛』と定義する物は以上三つの条件を全て満たしていないと思っている」

店長が言うと、千秋は目の前に出された餌を取り上げられた犬のような顔をした。



 その日は特に何もしなかった。私は昨日までの疲れが残って何をする気も起きなくて、店長はそれを悟っていたらしくカウンターの隅で見学するように促した。神美が時折お茶やデザートの賄いを出してくれたり、千秋が睨み付けたりする。昼過ぎや夜になって客足が途絶えると店長もよく来る客や仕事について色々と教えてくれた。

 この店は主に店長が調理、神美と千秋がその他の仕事を請け負っているようだった。それでも店内での給仕は神美、出前など外での仕事は千秋と何となくの割り振りはされているらしい。

「そうだよー、私はバイク乗って事故ったら一発で強制送還だもん」

私が気付いた事を言うと、神美は笑いながら言った。大抵は夜の九時を回れば客はみんな居なくなり、事実上閉店状態になるのだと教えられた。

「その点クソ虫は良いねー、一応この国の人間だから働いてても文句言われないよ。それなのにクソしかしないの勿体無いね」

「あんま舐めた事言ってると夜中に襲うぞクソ女」

「徒歩で行ける出前なら私も行くよー」

「聞けや!」

「はいはい、お客さんが居ないとはいえ営業中に『クソ』とか言わない…ごめんね雨ちゃん、この二人いつもこんな感じだから」

中指を突き立てる千秋と、それを中華鍋で叩き折ろうとする神美。これがここでの日常なのだろう。私の日常がどんな物だったのかは分からないが、きっとこんな感じではなかったはず。この二人のやり取りを見ていても、何も思い出さないから。

「ねぇね、雨はどこに住むのー? 私の部屋狭いけど一緒住む?」

「…特に決まってない。神美が構わないなら今夜はお世話になりたい」

「そーだそーだ、うちに来たってもう泊めてやんねー」

「お前のとこなんか最終手段に過ぎないよ、あんな部屋入るのだって嫌ね」

「てめぇは毎度毎度不法侵入だろうが!」

「お前が遅刻するから起こしに行ってんだよバァカァ! 雨も何か言ってやると良いよ、この男は下手に出ると調子乗るよ!」

「…柔軟剤を使うべき」

店長が大声で笑いだすと、千秋はそちらに向かって何か言っていた。けれど店長は大した返事をしない。そんな余裕もない程に笑っていた。

「店長、偶によく分からない所で笑いだすんだよ」

「うちの洗濯事情なんてどうだっていいだろうよ…」

「クソどうでも良いね。服よりお前のその根性を洗った方が良いよ、襤褸は着てても心は錦」

「ホントに殺すぞ」

千秋と神美が本気で殴り合おうとしたその時、電話が鳴った。神美がそれを取る。どうやら出前の注文だったらしい。住所と注文をメモして、店長に手渡す。それと同時に扉が開いて客が数人入ってきた。

「やぁ参った。一気に忙しくなったねぇ」

それぞれの注文を熟しながら店長が言う…聞くに堪えない断末魔のような声が聞こえたのはその時だった。そちらを見てみると、千秋がさっきのメモを片手に神美を怒鳴りつける所だった。

「おい馬鹿女、住所聞くんならちゃんと分かるように聞け! 時計台の前のビルとか言われてもどの方向が前か分かんねぇだろうが!」

「しょうがないよお客さんもよく分かってなかったんだから! お客さん遅くなっても良いって言ってたからさっさと探しに行け!」

「探せるかこんなもん!」

「じゃあアンタ馬鹿だ! ばーかばーか!」

「二人とも喧嘩してる場合じゃないでしょ!」

店長が間に入って、ようやく言い争いは終わる。神美は給仕に戻り、千秋は出前のセットを用意し――私に目を付けた。

「お前、頭良いか?」

「…覚えていないけど、あまりにも悪いわけではないはず」

千秋は心底面倒そうな顔をして私を見下ろしていた。しばらくそのまま私を見て、やがて痺れを切らすと厨房に向かって叫ぶ。

「店長、この新入り連れてって良いっすかぁ!?」

「ふざけんなよ忙しさに感けて雨をどこに売りとばす気だよ!?」

「てめぇがふざけんなさっさと料理運べ!」

店長が厨房から顔を出す。私と千秋の顔を見比べて、持っていた皿を神美に渡して言った。

「本人が良いって言うなら、別に構わないよ。但し何かあった場合はそれ相応の措置を取るから」

「へぇへぇ…おい雨、お前出前先がどこか考えろ。俺がそこまでバイク走らせる」

「…要するに思考放棄」

「あぁ? 適材適所ってやつだろ馬鹿、さっさと来るのか来ねぇのか答えろよ」

千秋が急かす。私が座っている椅子を、何度も蹴りながら。行かないと言えばこれから毎日こうするぞ、そんな事を言っているように見えた。

「…分かった、行く。メモを貸して」

「さっさと来い!」

私は引き摺られるようにして店の外へ連れ出された。配達用のバイクに跨ると、千秋はエンジンをかける。

「何か分かったら言えよ!」

「ヘルメット。安全には配慮してほしい」

「…じゃあコレ使えよ!」

無理矢理ヘルメットを頭に押し付けられた。そのまま急発進したので、振り落とされそうになって思わず悲鳴を上げた。

「何だぁ? 掴まってねぇと振り落とされるに決まってんだろ。んな事くらい分かって…おい、しがみついてばっかじゃメモ見れねぇだろ…おい!」

「…無理」

「あぁ!?」

「落ちる。私はバイクに乗った事が無い。記憶に無いんじゃなくて、経験した事自体が多分無い。それと今の一瞬で思い出した事がある。私は昔、馬から落ちた事がある。腕の骨を折った。あの時の馬は立ち止まっていたからそれで済んだ。今落ちたら確実に死ぬ。死ななくても傍に居るのが貴方だから確実に手遅れになる」

「俺だからってどういう事だこの馬鹿! あんま舐めた事言うと無理矢理振り落とすぞ! つーかお前防衛本能あんのかよ!? 昨日抵抗しなかったからどうでも良いんだと思ってたわ!」

「別にあれぐらいじゃ死なない。それは分かってる。でもこれは死ぬ。確実に死ぬ。絶対死ぬ」

「死ぬ死ぬうるっせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

千秋が叫んだところで信号が赤になる。停止線もギリギリのところで停まると、私に向かって改めて怒鳴りつける。

「おら止まったんだから手ぇ離してメモ見ろよ!」

「…まだ揺れてる」

「一々エンジン切ったら面倒くせぇじゃねーか!」

「…揺れてる」

「もう一辺死ね! 落ちろぉ!」

…そのまま信号が青に変わると、バイクはまた走り出した。



「これで文句ねぇだろ!」

時計台前の広場にバイクを乗り入れて、私はそこに放り出された。揺れない地面に足を付けてメモを見る。『時計台前 12時の方向 7階建てビル4階』と書いてある。

「訳が分かんねぇよな、12時の方向つったら空じゃねぇか」

「…違う、12時の方向は北。空じゃない」

「…あぁ?」

「だから…こっち。こっちにある7階建てのビル」

「…?」

「…時計と、方角を組み合わせた言い方がある。12時が北、3時が東、6時が南、9時が西」

「面倒くせぇ事してんじゃねぇよ!」

「…私が始めた事じゃない」

そのビルはすぐに見つかった。雑居ビルの4階まで、階段を上って運ぶのは千秋の仕事。配達を終えると私たちはまたバイクに跨る。

「にしたってお前、死ななきゃ何されても良いのか?」

「多分、そうなんだと思う。理由は分からないけどそういう価値観を持ってる。誰かに何か言われたら従う。そうしてれば殺されない」

帰り道にもなると私は少しバイクに慣れていた。千秋の荒々しい運転でもまともな会話をできるくらいにはなった。雨が降っていないせいで昨日よりよく見える夜の街を眺めながら、私たちは帰路につく。

「俺ぁてっきり、涼しい顔して淫乱な奴なんだと思ったんだがな」

「…それは心外。別にそういう事には興味が無い」

「でも何されてるのかは分かってただろ。お前見た感じ15,6だけど知ってそうな顔はしてねぇよ。今まで相手にしたのはもっと派手な身なりしてたぞ」

ミラーに映る、自分の顔を見た。ウェーブのかかった黒い髪。化粧は最初からしていない。陰気な顔がこちらを見返している。

「…分からない。昨日より前に何かあったのかもしれない」

「じゃあ馬みてぇに思い出してみるか? それこそ俺の得意分野だ」

「それは『常識の範囲内で、合意に基づき、道徳に反しない』事?」

「…あー面倒くせぇ」

先程とは違う道を通る。人通りの少ない裏道だった。千秋が言うには、これが一番の近道。

「つーかお前、ホントにうちで働くのかよ。もっと良い仕事紹介してやってもいいぜ」

「それは――」

「あぁそうだよ『常識の範囲内で、合意に基づき、道徳に反しない』事じゃねぇよ!」

信号で止まる。ネオンの光と、消えかけた街灯の灯りだけで照らされている道には車もバイクも走っていない。何人かの人間が笑いながら歩いているだけ。なんだかここだけ別の国の様だった。ここでも特に思い出す事は無い。だからきっとここも私には関係の無い所なのだろう。

 そう考えていると声を掛けられた。私にではない。千秋の方だった。さっきそこを歩いていた人間たちは千秋の知り合いだったらしい。貸した金を返せとか、また新しい女を捕まえたのかとか、そんな事を語り合っていた。私はどうしようもないので黙ってその様子を見ていた。

「ねぇ新しい彼女ちゃん、名前何ていうの?」

「…雨。それと私は彼女ではないはず」

「当ったり前だ馬ぁ鹿。お前みてぇなのと付き合ってられるか」

「えー何言ってんの、あのお店の子より大人しそうで良いじゃん…そーだ、この子要らないなら俺にちょうだい」

「あぁ? お前らに渡したら俺が店長に殺されんだろうが。ちったぁその辺考えろ馬鹿」

信号が青に変わると、千秋はすぐさまバイクを発進させた。挨拶もしないで友人たちと別れ、またしばらく走る。

「さっきの…」

「近づかねぇ方が身のためだ。アイツは俺より性質が悪ぃクズだからな」

「…千秋は?」

「俺は合意に基づく事しかしねぇよ」

「嘘吐き」

「解釈の違いってやつだろ。昨日のだって俺にとっちゃあ合意の上だ」

「それは認める。求めてはいなかったけど拒絶した訳でも無かった」

「どうでもいいって感じか」

「うん。何度かやっても別に死ぬ事は無いだろうし、寒くなくなると思った」

「…お前、どっかぶっ壊れてんじゃねぇか?」

「だから記憶が無いのかもしれない」

「違いねぇな」

そんな会話をしながら、私たちは店に戻った。扉を開けると神美が駆け寄って来て、私に怪我は無いかとか訊いて、最終的には千秋に殴りかかった。

「やあ雨ちゃんお疲れさま、今日はもう店じまいだよ。神美が部屋に泊めてくれるらしいからそっちに行くと良い。この店の上が部屋だけど…一部屋物置になってる所があるから、明日にでも片付けて君の部屋にしようか。力仕事は千秋に任せようね」

そのまま店長と千秋に別れを告げて、神美の部屋に上がる。千秋の部屋よりかは少し広くて、ずっと片付いた部屋だった。酒の臭いも煙草の臭いも無い、暖色系に彩られた女の子の部屋だった。

「散らかっててごめんねー、昨日片付けしなかったから色々置きっぱなしだよー」

千秋の部屋で一晩過ごした後では、もうどこが散らかっているのか分からなかった。神美は着の身着のままの私に部屋着を一式貸し出すと、自分もそれに着替える。いつまでも同じ服を着ている訳にはいかないし借り続けるわけにもいかない。服を買いに行かなければならない。その他にも必要な日用品を揃えなくてはならないし、その為には給料の前借も必要だろう。明日からは働き続けるしかない。

 そう考えていたら、店長が日用品を一式、箱に入れて持って来た。買い置きしてあった物らしい。歯ブラシや石鹸などは買い置きしてある物を自由に使っていいそうだ。

「但し利用は常識の範囲内で…あぁ、もう分かってるかもしれないけどこれ俺の口癖ね。この街はどうも、常識の通用しない相手が多いものだから。自然と身についちゃったんだ」

「クズ虫みたいに酷いの多いよー、ここは」

「君も若干常識の通用しない相手だと思っているんだけど…まぁ良いか。ところで千秋と一緒に働くのは大丈夫だった? さっきの出前はそのチェックも兼ねて送り出したんだけど」

「…特に問題はありません。色々と乱暴な所はあるけど」

「あのヤローは本ッ当に乱暴な男だよ! いっつも暴力ばっかり!」

「君もね…」

店長の真意は伝わっていないように思えた。

 私は店長に、給料について相談した。いつも同じ服ばかり着ていては衛生上の問題も発生するだろうし、そもそも一月持たせる事も難しく思えていた。それは店長もまた同じだったらしく、快く承諾してくれる。

「うんうん、素晴らしい理由だよ。千秋は酒と煙草の心配ばかりしていたのに…明日はちょうど休みだから色々と準備をしようね」

「店長さっき明日も仕事って言ってたよ?」

「そう言わないと千秋が来ないからね」

店長は、さも当然の様に言っていた。



 次の日、私は朝から倉庫で片付けを手伝っていた。不満を述べながらも店長に逆らえずに手伝う千秋と、時折彼とあれこれ言い合いをする神美、それを宥める店長。埃を頭から浴びながら、私たちは要らない物を外に運び出していた。

「あぁーだりぃ、こうなるって知ってたら絶対に来なかったのによぉ、面倒臭いったらねぇぜ」

壁を蹴りながら、千秋は文句を言っていた。手は動かしていない。店長は昨日の出前に使った皿を回収しに行き、神美は休憩にお茶を入れると言って店に下りていった。そうなった途端に千秋は作業を放り出し、この状態になった。

「…おい、良い事考えたぞ」

「それは聞くべき?」

「存分にな!」

私の肩に手を回し、誰が居る訳でもないのに声を潜める。酒の臭いはしない。でも煙草の臭いが強い。

「お前よ、あの馬鹿女見てて何か感じなかったか?」

「…店長に絶対的な信頼を置いているように見える」

「そうかそこに気付いたか、お前は優秀な人間だ!」

背中をバンバンと叩かれて、少し咳き込んだ。けれども千秋はそんな事気にしてはいない。すぐに自分の話に戻ってしまう。

「お前、あの二人の間に何か隠し事無いか探って来い。馬鹿娘の弱みが握れりゃあ俺もやりやすくなるってもんだ…なぁ、良い案だと思わねぇか?」

「…私に何のメリットも無いように思える」

「あぁ? そりゃお前、俺がイイ思いさせてやるさ。食いたいもんだって好きに食わしてやらぁ」

「どちらも私の望む物じゃない」

「…逆にお前の望みって何だよ」

「分からない。失った記憶を取り戻す事、とか?」

「それにしたって望んでるように見えねぇぞ。ホントは思い出したくねぇんじゃねぇか?」

「…そうかもしれない」

「じゃあ俺が忘れさせてやらぁ! ここは嫌な事を忘れたい連中が彷徨う街だからな、お前も例外じゃねぇだろ。つーことで手始めに今夜――」

神美の飛び蹴りは本当に美しいと思う。最高のタイミングで、綺麗な弧を描きながら放たれるのだから。それとは違って、蹴り飛ばされた方の千秋は埃にまみれながら床に転がった。

「ちょっと目を離したらコレだよこのクズは! 所詮は女の子の貞操狙うしか能の無い虫だよ!」

「虫に貞操観念とかねぇだろうがクソ女…! つーか俺はそんなこだわり持ってねぇよ、ある程度反応ありゃあ大体どんなでも良い」

「…それは弁解になってるの?」

それからまたしばらく、二人の喧嘩が続く。やがて店長が戻って来ると再び作業に入り、終わる頃には昼過ぎになっていた。

 片付け終わってみると部屋は一人部屋にするに十分な広さで、どうしても置き場が無く残された段ボールがあっても特に不便は無かった。その日はそのまま神美に連れられて必要な物を買い、帰り着くと一日が終わる。

 次の日からはただひたすら働いた。仕事を覚え、馴染み客の顔を覚え、店周辺の地理を学ぶ。そうしているうちに三人ともある程度打ち解け、客にも近所の人間たちにも顔を覚えられ始めた。この街は千秋が言っていた様に不満を持った人間がそれを忘れるための街なので、その日限りの客は少ない。殆どが常連客で、それぞれの性格を覚えるのにも苦労した。私の場合はそれを覚えても応用が下手だから性質が悪い。

 そんな慌ただしい日々を送っていたせいか、何か記憶に関係する事を思い出す事は無かった。



「昔の事何も覚えてねぇってどんな感じなんだ?」

近所のマーケットに買い出しに行った時、千秋に尋ねられた。彼とも大分打ち解けたと思う。少なくとも殴り合いにはならない。

「…別に、どうという訳でもない。私は雨で、今はこうして働いてる。それだけ」

「分っかんねぇなぁ、普通は不安になったりするもんじゃねぇのか? …いや、お前はそもそも不安とかそういうのがねぇのか。俺にぶん殴られたって平然としてそうだもんな」

「さすがにそれは命に関わるから何かしらの反応はすると思う…千秋は記憶が無くなったら不安になる?」

「そりゃあなる。朝起きて昨日何してたか分からん時はそれなりに努力して思い出そうとする。いきなり認知しろとか言われても困るからな」

「…もっと酒を控えるべき」

店長に頼まれた物を籠に入れ、レジを目指す。自腹なら欲しい物を買っていっても良いと言われているので、私たちは適当に見て回る事にした。でも食料品と少しの日用品しか置いていないのであまり見る物は無い。千秋がカップラーメンや酒類を放り込むのを見ているだけ。

「…それ、美味しいの?」

「あぁ? 酒はともかくカップ麺食った事ねぇってのは…お前なら有り得そうだな。気になるんなら一個ぐらい食ってみりゃ良いじゃねぇか。そんなに高いもんでもねぇし」

「…うん、じゃあ買ってみる」

千秋が買おうとしていたのと同じものを籠に入れた。大きさに比べて随分軽い。

「…中身、入ってるの?」

「乾燥してるから軽いだけだろ…お前、知識ある癖にこういう事ホントに知らねぇよな。うちに来るまでどんな生活してたんだ? 服も妙に高そうなのばっかだったし、ひょっとするとどっかの富豪の娘か…おい、これ知ってるか? シャボン玉って言うんだぜ、お前は見た事もねぇかもしれねぇけどよ」

「…何、それ」

「…マジで言ってんのかよ」

千秋から、ビニールに包まれたプラスチックの商品を受け取った。派手なピンク色をしたボトルと、黄緑色の筒のような物。見覚えが全く無い。

「何に使うの?」

「何って…アレだ、石鹸使ってると泡出るだろ。アレを飛ばして遊ぶ」

「…楽しいの?」

「………」

千秋は答えなかった。代わりに私からシャボン玉を取り上げて、籠に入れる。そのままレジに並んだ。

「…お前、今日仕事終わったら俺んとこ来い。エロい事は…多分しない」

「分かった。言い切られるよりかは信頼できる」

そのまま清算を終えて、私たちは店に戻った。



 千秋の部屋は相変わらず散らかっていた。酒と煙草の臭いが溢れて、その中央に置かれたテーブルにカップラーメンを乗せる。お湯を入れて、その間に箸を準備した。

「…これだけ?」

店長が料理しているのに比べると随分と簡単だった。ポットのスイッチを押して、しばらく待って、注いで、またしばらく待つ。それだけ。

「お手軽だろ」

千秋は煙草を吹かしながら得意げな顔をしていた。千秋は勤務中以外は大抵こうして煙草を吹かす。神美に言わせてみれば立派なニコチン中毒だった。

 三分待って、私たちは遅めの夕食を始めた。味の濃い食べ物は何度か食べた覚えがあったけれど、これが最も濃かった。

「美味いか?」

「うん…食べた事ない味。なんだか塩辛い…水が欲しい」

「冷蔵庫になんか入ってるから適当に飲めよ。嫌なら水道水だな」

冷蔵庫を開けると飲みかけのペットボトルが入っていた。この街の水道水はそのままじゃ飲めたものではないから、それを飲む。コップはどこか訊いたらそんな物は無いと答えられたので、そのまま飲む。

 千秋は作るのにかかった時間よりも短い時間で食べ終わった。そのまま、初めて会った日の様にベランダから外を眺めていた。私は食べるのが遅くて、服に汁が飛ばないようにしながらだったのでとても長い時間が掛かった。

 全て食べ終わると、私はシャボン玉を片手に千秋の隣に座る。使い方を教えてもらって、ストローを吹いた。

「…割れちゃった」

「息が強ぇんだよ馬鹿。もっと優しく吹け、優しく」

「…千秋に優しくしろって言われた」

「あぁ?」

もう一度、今度はそうっと吹く。先端から泡が出て、膨らんで、やがて上がっていった。今日は雨も降っていないから見えなくなるまで飛んでいった。私はそれが面白くなった。

どんどんシャボン玉を飛ばした。何個も何個も飛ばして、行く末を見守ったり、ベランダ中をシャボン玉でいっぱいにしようとしたり…そうしながらしばらく遊んでいると千秋にボトルを取り上げられた。

「…何するの」

「それ貸せ、もっと面白いもん作ってやる」

ストローも取り上げて、千秋はシャボン玉を膨らませた。大きさに違いは見られなかったけれど、何だか白かった。割ってみろと言われたので指で突くと、中から煙が溢れ出した。

「…おい、今までにねぇくらいに目が輝いてんぞ」

「もっと作って」

「…おうよ」

それからは千秋が作ったシャボン玉を割ったり、どうにかして外に飛ばそうとしたりしていた。途中で交代しながらシャボン玉を飛ばして、液が無くなると洗剤を薄めて注ぎ足した。いつまでもいつまでも、何度も何度も――

「…待て、もう止めろ、さすがに疲れた。23年も生きて初めてシャボン玉で疲れた」

煙草を二箱吸って、千秋は私からボトルを取り上げた。私はまだまだ満足ではなかったけれど、もう日付が変わっているのだという事に気付いて、諦めた。

「お前…今までに娯楽とか無かったのか?」

「分からない。でもシャボン玉は好き。明日もしたい」

ベタベタになった手を洗いながら、私は言った。千秋は頭を抱えていた。

「…明日って休みだろ」

「そう。朝からできる」

「そりゃあようござんした…っと」

後ろから抱きかかえられて、ベッドに運ばれた。そのまま初日の様に押し倒される。

「あんだけ付き合わされて気が変わった。今度は俺のお楽しみに付き合えよ」

「分かった。じゃあ好きにして良い」

「…目が死んでんぞ!」

奇声を上げながら頭を掻き毟って、千秋はまた煙草に火を点けた。私の鼻を摘んだり、頬を摘んだりして、しばらくすると枕を投げつけられた。

「…痛い。それとベッドの上で煙草はやめるべき。火事になる」

「やかましいわ! さっきまであんなに生き生きした目ぇしてたのに押し倒した瞬間に陰気な顔しやがって…なんか恐ろしくなってきたじゃねぇか!」

置きっぱなしにしていた灰皿を取りにベランダに向かう途中も、そこから戻る途中も、千秋はずぅっと文句を言っていた。私はバスルームに行って鏡を覗いてみた。確かに陰気な顔をした私が映っていた。試しにシャボン玉を吹いてみて、そのすぐ後に鏡を覗いてみる…さっきよりは明るい顔をしていた。

「千秋、良い事を考えた」

「あぁ?」

部屋に戻って、千秋の肩を叩いた。また不機嫌そうな顔をしていた。

「私がずっとシャボン玉を吹いていれば良いと思――」

「変態か俺は!」

言い終わる前に却下された。…名案だと思っていたのに。

「…人の意見は最後まで聞くべき」

「聞いたところでイカレてるだろその提案は! つーか部屋ん中でシャボン玉吹いてたらそこら中ベッタベタになるだろ!」

「大丈夫、この部屋は元々少しベタついてる。それでも嫌なら外にでも出て――」

「だから俺を変態に仕立て上げようとすんのやめろ! あとさりげなく部屋に文句付けんな!」

「…片付けるべき」

さっきのように隣に座って、またシャボン玉を吹いた。いくらやっても飽きない。空に上って行くのを見るのが楽しくて堪らなかった。

「…お前にとっちゃそっちの方が楽しいんだな」

「うん。さっきのは別に嫌ではないけど娯楽性は見いだせない。誰かに求められたらするだけ」

「ビッチかよ」

「別に望んでそうなった訳ではない…と思う。それを言うなら道で会った私を部屋に連れ込んだ千秋も大概」

「まぁ確かに…つーかその価値観はホントにどこで身に着けたんだ。そこまで見た目と矛盾してると知りたくなるわ」

「分からない。私は千秋に会う数時間前からしか記憶が無いから…思い出さない限りはその質問には答えられないと思う」

「じゃあ思い出させて…ってコレじゃ振り出しか」

「…そもそも思い出させる手段と忘れさせる手段が同一な事が疑問」

「そりゃあショック療法だからな。どっちにしろ意識飛ぶまでやるんだし」

「逆方向に効果が出たらどうするの?」

「もう一回やりゃ良いだろ。マイナスにマイナス掛ければプラスになんだからな」

「…私はそこまで単純じゃない、と思う」

「へぇへぇ、複雑な事情をお持ちのようで」

「そうだよ、この子は複雑な事情があるんだからそっとしておきなよ」

千秋が、怪訝な顔をして私を見た。煙草から灰が落ちて、ベランダの床で砕ける。私はどうして千秋がそんな顔をしているのか分からなかった。

「…どうしたの?」

「こっちが聞きてぇよ。いきなりどうした、他人事みたいに言いだしやがって」

その言葉を聞いて、さっきの言葉は私の口から出た物なのだと理解する。でもどうしてそうなったのかは分からない。私はただ、千秋と会話していただけだったのに、どうして。

「シャボンのやり過ぎでおかしくなったか?」

「シャブみたいに言わないで…多分、前に言われた言葉を思い出したんだと思う。学校の教室で、同級生の女の子が言ってた。それと思い出した事がある。私は少なくとも中学校は卒業してる。さっき思い出したのが中学三年の冬だった」

そうだ、あれは中学校の教室だ。どうしてだか分からなかったけれど、私に話しかけようとした生徒に、彼女がそう言ったのだ。という事はやはり、私は千秋の言うように「複雑な事情」を持っているのだろう。…それは何?

「…なんか悪かったな」

吸殻を灰皿に押し付けて、千秋が言った。何を謝っているのかが分からなかった。

「どうして謝るの?」

「どうしてってお前…今のはどっちかっつーと思い出したくない部類だろ」

「私の歳? まだ嘆く程じゃない」

「…お前、今日は寝ろ。もう何もしねぇから」

「分かった。その前にシャワーを浴びる」

立ち上がって、バスルームに向かった。その日の汗を洗い流す。途中でまたシャボン玉を飛ばそうかと思ったけれど、誰かが待っているような気がしたのでやめた。相変わらず固いタオルで身体を拭いて、持って来た服を着る。さっきまで着ていた服には煙草の臭いが染みついていた。

 部屋に戻ると、外では雨が降っていた。千秋は相変わらず煙草を吸っていて、窓を閉めようとしない。

「…降り込んだりしないの?」

「目の前が壁だからな。降り込んだ所で困る事もねぇよ」

「そう、おやすみ」

そのままベッドに潜り込んだ。相変わらず煙草の臭いがする。きっと起き上がる頃には私にも同じ臭いが染みついているんだろうけど、別にどうでも良い。どうしてかは分からないけど、良い匂いがする場所よりはこっちの方がよく眠れた。

 千秋がベッドに入ってきたのはそれから一時間ぐらい経ってからだった。もともとそんなに大きなベッドではないから、身を寄せ合うようにして寝る。

 雨はどんどん勢いを増していた。開けっ放しの扉から、地面で弾ける雨粒の悲鳴が聞こえてくる。

「さっきのは思い出さない方が良かった?」

何となく尋ねた。千秋はまだ起きていたのかと訊いて、返事をすると欠伸をしながら答える。

「別に判断するのはお前だろ。そっから何か見出すのもお前だし、忘れたいんならまた忘れりゃあ良い。どんな奴でも嫌な事は忘れちまうのが一番良いんだ」

「…千秋も、忘れたい事ある?」

「…そうじゃなかったらこんな街に住むかよ、馬鹿」

それからはイビキしか聞こえなかった。何か言っても答えは返って来ない。

 雨はまだ降っていた。でもそれを眺めに行く事は無い。そんなに大したことじゃないから。

 私は雨、ここは忘却の街。そう考えていると、いつの間にか眠りに落ちた。


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