序章「始まり」
私が誰なのか知っている人はいない。私も知らない。ただ何も分からぬまま、雨の中を彷徨っていた。街には傘を差して歩く人々と、足早にその間を駆け抜けていく人間が大勢いたけれど、私の事を気に留める者はいない。ただ、取り残された様に、暗くなっていく街を歩いた。
どれほど歩いた頃だろう。行く宛も無い、帰る場所も無い、どうすれば良いのかも分からない。そんな状態で歩き続けているのにも疲れて、でもびしょ濡れの身体では建物の中に入る事も憚られて、仕方なく路地裏の小さな屋根の下に入った。その時にはすっかり夜になっていて、辺りには街灯と騒がしい街の灯りだけが残っていた。他には相変わらず私の事を見ない人々と、体の熱を奪っていく秋の肌寒さだけ。
よぉそんな所で何やってんだ――そう声がしたのは、私が両の腕を抱いて寒さを和らげようとしている時。酷く下品な声色だったのを覚えている。その男は壁に手をついて、私が抜け出せぬようにして立っていた。男もまた傘を差していない事に気付いた時には、もう、私は肩を抱かれて路地の奥に連れて行かれていた。
「あぁやっと見つけた、探したよ!」
背後から、見知らぬ男が声を掛けた。優しそうで、喧嘩などした事の無い様子の男だった。彼は私の手を掴んで、強張った顔で笑っていた。記憶の無い私でも、彼が知り合いではない事が分かった。知り合いの振りをして、私を救い出そうとしてくれているのだと気付いた。
でも残念ながら、私の人生はそんな素敵な出会いから始まる物語ではない。彼はほんの一瞬で殴り飛ばされると、すっかり意識を失って動かなくなってしまった。私はそれを気にする暇も無く、男の部屋へと連れ込まれていったのだ。