9 事の起こりというもの
「…でもそれじゃあ、グレイ様ばかりが不利益を被ることになるでしょ?申し訳ないというか、そこまでしていただくのは、ちょっと…」
思えばこれまでも迷惑ばかりをかけていたのではないかと、振り返ったレティシアは己の行状の数々に頭が痛む。
人様の館を勝手に家出先と決め、あろうことか客間を私物化し、最終的には人生の重大事である結婚まで無理やりさせてしまうとは。
これはやりすぎだと困り顔で首を振ってみたのだが。
「いや、私にしてみれば渡りに船というところだな。何しろ国を捨てたのも、仕事を替えたのも、金を貯めたのも全てはレーテの為なのだから」
と、予想だにしない返答を真剣な眼差しと共に貰って、一気に頭痛は吹き飛び混乱は極まった。
「え?あの、意味が…」
グレイの華麗なる転身がなぜ自分の為なのか、理解できずに顔を顰めると小さく笑った男は、随分昔の話だと黒い皮で覆われた用をなさない瞳を押さえた。
「伯爵に十五の年に拾われるまで、私は君が想像もできない生活をしていた。売れるものは全て売り、利用できるものは骨までしゃぶりつくす。そんな決して褒められない生き方を一変させたのが、当時国内のある組織を摘発していた男爵だ。彼は本来処刑されるはずだった子供を助命し、職を斡旋した。中でも常に監視が必要だった私は危険があると知りながら自宅へ連れ帰ってね。…四つの君は初めて見たリウという少年を覚えているかな?」
自嘲に満ちた表情のグレイに頷いて、レティシアは古く印象深いその一瞬を記憶の奥から引っ張り出した。
交わした言葉は覚えていない。いつのことなのかも定かではないが、仄明るいランプに照らされて、片目とその周辺の肉が抉り取られた薄汚れた少年が、自分を睨み下ろしている。
恐ろしいほど感情の見えない顔と、細い体から滲み出ている威圧ばかりが印象に残っていた。
「あの日から私は、君の家を抜け出し再び自由を得ることばかりを考えていた。そして何も知らず両親に愛され無邪気に笑う少女を心の底から憎んでいた。愚かな逆恨みであるというのに、この世に怖いものなど何もないと信じる姿が妬ましく、またそれを認めたくなかったんだ。あの日、あんな目に合うまでね」
そうして、俯いたグレイが沈んだ声音で語った出来事は、幼かったレティシアもはっきりと覚えている、襲撃事件だった。
あれはグレイが男爵家の預かり子として同居を始めて間もなくのことだ。買い物に出かけた夫人に子守を頼まれた彼は、床に座り静かに本を眺める女の子をソファーから監視しながら、逃げ出すのなら今だと密かに盗み出していたコインをちゃらちゃら掌で転がしていた。
裏町でずっと暮らしてきた少年にとって、腹さえ満たせればこの季節に路上で生活することは苦ではない。雪が降るまでに塒を確保できれば、生きていくのに支障はないだろう。
決めればそこからは早い。急に立ち上がった彼を不思議そうに見つめる少女に一瞥もくれず、貴族とも思えない安普請のドアを手荒く開けた、その時だった。
手負いと表現するのが相応しい血と傷に塗れた男がグレイ諸共室内に飛び込み、馬乗りで彼の首を締め上げたのだ。
「ぐっ、がぁっ!!」
「悪魔がっ!お前のせいでみんな殺されたっ!!償えっ償えっ償えっ!!!」
狂ったように叫ぶ男は皺の刻まれた肌を赤黒く染め、目を血走らせて口角には薄ら泡も吹いている。どこか尋常でない様子は既に何かが壊れているからなのだろうが、窒息寸前のグレイはそんなことを気にする余裕もない。ただ指先に触れる物に必死に爪を立てながら、どうにかこの苦しさから逃れようと無暗にもがくだけである。
「お兄ちゃん、苛めちゃだめっ!!」
霞みゆく意識、なのに悲鳴のような女の子の声だけが明瞭に届いた。生理的な涙の向こうで、小さな体が必死に男に取り付いている。
「やめてっ!どいてっ!!」
力の限りシャツを引っ張ってもそんなもの妨害にもならない。幼児の拳で大の男に有効な攻撃などできる筈ものないのに諦めず取りすがる少女を、グレイは頭の隅の醒めた部分で嗤っていた。
偽善者の娘は偽善者だと。
綺麗事でどっぷり犯罪に浸かった子供を助けたりなんかするから大事な娘が危険に晒され、その娘は自分のことを気にも留めない他人を幼いながらに庇って見せる。
逃げれば自分だけは助かるだろうに。いやせめて本気でグレイを助けようと思っているならば、隣近所へ走り込みでもする方が余程賢い方法だ。
役立たずめ。
男の腕に小さな口で噛みつく女の子を見ても尚、彼はそう考えていた。
突然の痛みに怒った男が振り払った腕に飛ばされて、彼女がテーブルの隅に頭を打ち付けるまで、そこに流れる血を認めるまで、グレイの思考はどこか冷静で乾いたままだった。
だが、血の紅は全てを凌駕する。溢れれば命を刈り取ると知るからこそ、その色を見た瞬間に彼の生存本能が咆哮を上げた。
喉への圧迫が緩んだ隙に弾いたコインを男の眉間へ叩きつけると、痛みに転げる敵を蹴り上げ内臓の詰まった柔らかな腹を数度踏み抜く。
「ぎゃっ!!ぐがっ!!」
いくつか臓器を潰されたのか、口端から赤い泡を吐き出す男にとどめとばかりに振り上げた足は、だが寸でで力を抜き宙を遊ぶこととなった。
「っ邪魔をするなっ!!」
靴底と男の僅かな隙間を、小さな体が埋めていた。あと少しで自分がひどく怪我をしていたであろうに、見上げる幼い瞳に怯えはなくただ強い意志だけが覗いている。
「だめ、なの。お父さんと、お約束。蹴ったら、だめ」
たどたどしい言葉の合間、細い髪から伝った血が男のシャツに染みを作っていた。
ぽたぽたと薄汚れた布を染めていく赤が鮮やかで、その輝きが忌々しくてグレイは聞こえよがしに舌打ちをすると乱暴に足を床板に打ち付けた。
認めたくはなかったが、あの生存本能から溢れる激情が少女の瞳に気圧されて静かに引いて行っている。冗談のような話だがこの小さな女の子に、グレイは押し負けたのだ。大人たちに剣を向けられても決して怯まなかった心が、たった四つの子供に負けたのだ。
「ちっ…忌々しい親子が」
つい最近、同じことを経験していた彼は二重の口惜しさにもう一度舌打ちした。いや、正確には三度目か。
息つく暇もない速さで裏町を一掃した男に、有無を言わせない笑顔で命じてくる女に、そして血を流しながらも意思を貫こうとする少女に。
彼等と睨みあえば、必然、グレイは負けるのだ。どれほど強がろうと、怒りをぶつけようと、怒鳴りつけようと、決して譲れないものを盾に生きている連中から、彼の虚勢は薄っぺらだと言われてあっさりと弾きかえされる。
「おに、ちゃん…、平気?」
グレイが男に手を上げることを止めたと気づいたのだろう、ほっと息を吐いた彼女が次に心配したのは指の跡が付いた彼の首だった。自分の方が余程大けがをしているだろうに、声に心配を乗せた少女を抱き上げると、グレイはこの程度と嘯く。
「痛くも痒くもあるかよ。それよりお前のが、まずいだろ」
赤い色を辿って小さな頭を探ると、側頭部付近に小さな切り傷が見えた。幸い出血は収まってきたのか新たな流血はなく、適切な処置さえすれば数日で治りそうだ。
「痛い…」
傷口を探っていたグレイの手を押さえ、見上げた少女の目は潤んでいた。ずっと我慢していたものが人肌に触れて解放されたのか、唇を尖らせてぐずぐずとしゃくりあげる姿は年相応で、不覚にも人間不信であった彼の心がぐらりと揺れる。
彼女が身体を張って守ったのは赤の他人だ。血を流し痛いと泣くほどの怪我をしたのに、真っ先にグレイの心配をする、そんな無条件の善意に全く無縁に生きてきた彼にとってこのぬくもりは毒にも等しいものだったのだ。
「ふざっ…けるなっ!!」
だがその油断は致命的で、腹を押さえ動けなくなっていたはずの男が起き上がり、彼等に殴り掛かるには十分すぎる隙だったのだ。
「!!」
声を上げる間も惜しんで、グレイは少女を抱き込むと衝撃に備えて体を丸めた。
最悪自分が怪我をしても、彼女だけは護れるようにと願いながら。
『ドガッ』
しかし鈍い殴打音に続く衝撃は、なかった。代わりに、
「わたしの子供達に、何するのかしら?」
聞いたこともないような夫人の冷たい声と、男のうめきが事態の収束を示したのである。
「…あんまり、覚えてない、かな?怖いおじさんが来た、ところまでは記憶してるんだけど…」
「翌日のレーテも同じことを言っていたね。父上に言わせると良くあることらしいが」
「そう、なんだ?」
レティシアは首を傾げながら古い記憶を探っていたが、この話が最初の質問のどこにつながるかわからずグレイの意図が読めない。
ともかく暴力事件があったのか程度の認識だったのだが。
「あの日を起点に私は大切な人を守る意味を考え、力を持つ努力を始め、君との関係を真剣に考えるようになったのだよ」
続いたグレイの言葉に、更に意味が解らなくなったのであった。